聖書物語④ イエス・キリストって誰ですか
タイトル「イエス・キリストって誰ですか」
ヨハネ19:19
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
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今回は、キリスト教の中心、イエス・キリストの話です。私たちが信じている神はイエス・キリストなので、この宗教をキリスト教と呼びます。イエス・キリストについては、本当にいくらでも話ができますが、今回は聖書の物語で、何故イエスが現れ、十字架と復活で何をしたのかを短くお話ししたいとも思います。
先週の話に戻りましょう。神はアブラハムを呼び出し、イスラエル民族を生み出します。そのイスラエルを通して、壊れしまった神と人間と自然の関係を回復しようとされました。しかし、問題はイスラエル自身がその問題となってしまいました。アブラハムの登場からイエスの登場まで数千年のスパンがありますが、その間に神は様々なリーダーを立てて、イスラエルを軌道修正しようとしました。しかし、残念ながら、イスラエルは神に戻ろうとはしませんでした。キリスト教では、「悔い改め」という言葉を使いますが、これは「方向転換をする」という意味です。神から離れてしまっている自分を、神の方向に向けるという意味です。イエスは、一人のイスラエル人として、神のかたち作られた一人の人間として、「悪に支配された世界から人間を解放し、壊れしまった神と人間と自然の関係を回復する」という役割を担いました。
マルコの福音書に書かれているイエスの第一声はこうです。
Mark 1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
「神の国」とは「神の王国」です。神自身が王として治める国のことです。7月3日のメッセージで「罪」は「人間を罪の状態の奴隷とする宇宙的な力」と言いました。私たちは、この世界は、この力に囚われています。私たちは様々な形で悪の犠牲者になり、またある時は、罪を犯します。イエスは言います。「そんな悪の世界から、神が支配する愛の王国にきなさい。もう、神の王国がここにきています!」そして、こう続けます。「悔い改めて福音を信じなさい。」「悔い改めなさい」とは、「悪の世界から、神を見つめなさい。神の方を向きなさい」という意味です。「福音」とは何でしょうか。「福音」とは「良い知らせ」という意味です。イエスが生きていた時代、「良い知らせ」とは多くの場合、「新しい王の即位」という意味でした。
Mark 1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
こういう風に言いかえることができます。「そんな悪の世界から、神が支配する愛の王国にきなさい。もう、神の王国がここにきています!そして、その王がここにきています!」その王とは誰でしょうか。イエスこそ、その王なのです。
当時のイスラエルのことを考えてみましょう。イスラエルという国は確かに存在していました。しかし、イスラエルの王、ヘロデはイスラエル人ではありません。さらに、イスラエルはローマ帝国の属国にすぎません。当時のイスラエル人は王なるメシア、つまり王なるキリストが現れるのを待っていました。ダビデ王のような勇ましい王です。ヘロデを倒し、ローマ帝国を滅ぼす王です。確かにイエスはダビデ王の子孫なのです。イエスは確かに王でした。しかし、人々が期待するような王ではありませんでした。どんな王でしょうか。
ルカ7:22「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」
これがイエスがなさったことです。まだイスラエルの人たちは、イエスが何者かわかってはいませんでした。これは、イエスがバプテスマのヨハネの弟子に言った言葉ですが、「神の王国は私を通して始まったのだ」と言っています。武力ではなく、病気の人を癒し、死人を蘇らせ、貧しい人たちに神の王国の到来を話すことによって、神の到来が始まりました。
そして、もう一つ重要なことがあります。今回の聖書物語の中では話しませんでしたが、イスラエル人が必死に守ってきた律法というものがあります。律法の精神とはなんでしょうか。
申命記6:4-5
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ19:18
あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神、主を愛すること。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛すること」これこそが律法です。
イエスはこの律法の体現者であり、完成者でした。本来なら、イスラエルがこれを行うべきだったのです。イエスは、イスラエルに対して、この律法の精神に立ち返るように諭し続けました。
ですから、イエスは病気の人、税金を集める人、罪人のところに行きました。こういう人たちは、神殿に行くことはできませんでした。神であり、王であるイエス・キリスト自身が、その人たちに近づきました。このような人たちこそ、神の王国が開かれているからです。このような人たちこそ、悪に支配されている世界の犠牲者だからです。悪の力はイエス自身に降りかかります。イエスの評判が広まるにつれ、エルサレムの宗教指導者たちの憎悪は日に日に膨らんでいきました。それはイエス殺害計画へと向かいます。
ヨハネ1:29
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
悪がイエス自身に降りかかる瞬間。十字架での死です。十字架の死の目的は、ローマ帝国からの解放ではなく、イスラエルを、そしてすべての人間を捉えていた罪の世界から解放するためです。世の罪を取り除く神の子羊として、十字架にかかり、血を流します。このことは、イスラエルがエジプトから助け出された時のことを彷彿させます。イスラエルを解放するために流された小羊の血です。イエス・キリストは、この暴虐をすべて、自身の身に受けました。これが、旧約聖書、特にイザヤ書という書物に現わされた苦難の王の姿です。ある人たちは、十字架でのイエスの死を、王の戴冠式と呼びます。この王は、十字架を通して、イスラエルを罪から解放し、異邦人に神の祝福の道を開きました。
<復活>
3日後、イエスは蘇ります。正確には、神がイエスを蘇らせました。イエスの正しさ、イエスの教えの正しさが証明されました。それだけではありません。復活したイエスこそが、新しい人なのです。新しい創造なのです。そのイエスを信じる人たちは、新しく造られた人々なのです。被造物が罪と悪から解放され、回復されるという神の約束が、イエスの十字架と復活を通して完成しました。
<結論>
クリスチャンは、イエス・キリストの十字架と復活を通して完成した「新しい創造」の世界に生きています。それは、その世界は、すでにこの世の中に来ていますが、まだ最終的な完成ではありません。最終的な完成がなされるのは、もう一度イエスがこの地上に戻って来られるときです。
人間の目から見るなら、世界は完成に向けて進みだしました。しかし、まだこの世界は罪と悪の影響下にあります。神の世界に生きるクリスチャンは、どのように生きるべきでしょうか。イエスが神の王国の到来を宣言したのは、病気の人や貧しい人たちからです。希望や喜びを取り上げられた人たちからです。傷ついた心、傷ついた世界には癒しが必要です。その癒しは、イエス・キリストが宣言された神の王国の希望やと喜びから始まります。それは、単に個人個人の精神的な充足感ではりません。むしろ、私たちを取り巻き、苦しみを与える世界の変革です。その変化が現れる所が教会です。その変革と共に、私たち一人一人の癒しが始まります。
この世界に生きている間には、それが完成することはありませんが、クリスチャンが地の塩、世の光として生きて行くということは、希望や喜びを与える存在になるということです。それを一人のクリスチャンが行うことはできません。教会が一人のクリスチャンに力を与える必要があります。しかし、残念ながら、教会で不快な思いをしたり、傷ついた方々たくさんいらっしゃいます。クリスチャンが集まって、教会が出来れば、それだけで自動的に素晴らしい共同体ができるわけではありません。
イエスが復活し、天に戻られた後、弟子たちは教会を作り始めます。それは、どのような教会だったでしょうか。来週は教会の始まりについてお話ししたいと思います。
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