毒親、母の話⑶
母が作った多額の借金(800万)を返済する為に、父は必至で働きながら、銀行ローンを利用する方向性で考えて行動をしていたと思う。母がパートに出るからと、自分の車を母に使わせていたこともあった。父は出張のない時、当然会社へ行かなければならないが、母が車を使っていたため、元々あったマウンテンバイクで出勤。車で片道20分はかかる場所だから、40~1時間はかかったんじゃないかと思う。それでも父は『ダイエットになる』と、愚痴一つ溢さなかった。
母がそんな父を見て、反省してくれたら・・・事態は変わっていたと思う。父が仕事で母は休みだった日、父が久しぶりに車を使った日があった。その数日後だったと思う。父の車を使用して仕事へ行き、帰ってきた母は怒ったような表情と喧噪で私にこう言った。
母『お父さん、浮気してる』
はあ??と今なら多分言っちゃうだろうし、開いた口が塞がらないとも言ってしまうかもしれないが、母がそう言いだしたのだ。何故そう思うのかと聞いたところ
母「車の中から長い髪の毛が見つかった、私のじゃない!!」
16歳か17歳の私に当然判断は難しい・・・・。母が何か言いだした、父は本当に浮気をしたのかと不安な気持ちになった事を今でも覚えている。後々父に確認をしたが、全力で否定していたし、とても嘘をついているようには見えない。母の勘違いか、妄想だったのかもしれない。大体浮気をする時間なんて父にはなかったと思う。小さなその騒動の後、母は『お父さんと顔を合わせたくない』と言い出した。介護職だけでは借金が返済できないこともあり、母は夜の仕事(スナックのようなお店)をし始める。
母が夜、自宅へ帰宅しなくなった頃、借金の返済が滞るようになる。毎晩のように闇金業者が自宅に取り立てに来るようになった。呼びかけにこちらが応答しないことに腹が立ったのか、外で飼っていた犬をその業者の人間から蹴られたこともあった。本当にあの時はただ辛かった記憶しかない。
電気もつけられない、雨戸も閉めっぱなしの部屋に私一人引きこもることもあったし、父がいる時は二人で声を潜めて過ごすこともあった。真っ暗な居間に一人過ごす父の背中はずっと忘れられない。当然ここまで困窮すると、ライフラインのお金も支払えなくなる。最初はガス、次に電気、最後は水道も止められた。「君一人?ごめんね、止めたくてとめるわけじゃないよ」訪問してきた水道局の人からそう言われた記憶が今もある。
私の部屋は2階にあった為、雨戸を閉めずに生活をしていたけれど、窓から見える隣近所の灯りや笑い声が遠くに感じた。貧しさは気持ちも蝕むんだと知った瞬間だった。
借金の返済ができず、結局私は高校を中退することになった。高校3年生になる前の春の事だった。学納金も全部母が使い込んでいたため、これも借金みたいなものだなと思った。学校をやめると何もすることがないし、金融業の暴言や脅しのような行動に家で怯えて生活するのも辛い。とりあえず私も働こうと思っていた矢先
母「あんたもスナックで働いたら」
17歳の子にスナックで働けという辺りがもう本当に、どうしようもない毒親なんですよね、きっと。
何もかも失い、母や父の関係も拗れ、家族もバラバラ。スナックで働けと母から言われて半年勤務したけれど、そのスナックに来店した客から性的な接客を求められ、下半身を触られたこともあった。それを母に話すと笑われ、『そんなことどうってことない、いくら稼いだの?お金返さないといけないでしょ』と言われる始末。そして母は、自分が働いていたスナックの客複数人と性的関係を持ち、母ではなくなっていった。
丁度その頃、FtM(女性から男性になった・なりたい人)で12歳年上の人と、友人を通して私は知り合った。家に居場所がない、借金の催促に怖い人が来ると伝えると「俺のところに来る?」と言ってくれたため、私は両親に黙ったまま家を出てしまった。後々、このFtMからDVを私は受けることとなるが、それは別の機会に書こうと思う。
父は会社から解雇され、当然だけど社宅は返すことになった。ある日、荷物を取りに自宅へ戻った私に、たまたま遭遇した母が放った言葉を私は未だに覚えているし、許せないことがひとつある。それは
母「お前の飼ってた犬は、野に放った。ご飯をあげたら嬉しそうに食べてたし、その後山の方へ喜んで走っていった。」
あの時の母の表情は覚えていないが、良いことをしてやったと言わんばかりの口調だったことは確か。
社宅から出た後、母方の祖母と祖父を交えて、父母と話した様子。借金を半分ずつに分けることとなった。母の両親が400万円を返済し、父が残りを返済。車中泊で土方働きをしていた父。母の借金と金融業の取り立てが父のところへ来続けていたのかもしれない。何もしていない、無傷なのは母だけ。母は性関係を持ったうちの男性1人と再婚。熊本県から福岡へ引っ越してしまった。
母と私の関係はこれで終わりではない。母の毒親ぶりは、私が28歳になるまで続いた。その話はまたどこかでまとめとして書いてみたいと思う。
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