「幼き日の記憶」by Emma.
普段昔の嫌いな思い出しか語らない僕にも実は好きな思い出もたくさんある。
でもそれは人に話すとなんだかそれそのものが希釈されてしまうようでとても恐ろしい。
良い思い出というやつは恋愛くらい罪悪なものだよ。
だから僕は此処で思いっきり少しだけ罪を犯そうと思う。
以前住んでいた家の、僕の机が置いてあった場所。
その少し右上にある少し汚れた小さな窓から優しく降り注ぐ陽光はとても確かな感覚で
今でも容易にその温度さえも思い出せてしまう。
何かをしていたわけではない。
子供だった僕はそこにただ座って光に照らされていた。
音は極限まで絞られて、視界は暖かく、そして狭くなり
その中で小さな埃たちが嫋やかに循環している。
小さな身体の一番外側の線が緩く光っていた。
存在が、自身を取り巻く空気が、部屋が、飛び越えて"世界"が
青黒い万年筆のインクが紙に染みる様に
全てが調和していく。
後ろのバルコニーで母親が洗濯物を干している。
彼女が態とらしくサンダルを擦る音がとても小さく聞こえる。
自分の身体が物理的に小さくなったような感覚に襲われて
僕の腕から手にかけて、脚から足にかけてがとても遠くなる。
それから部屋がとても大きく感じられて
自分の居る空間の中で少しでも物が動けば瞬時に理解してしまえるくらいの鈍鈍しい感覚が徐々に広がっていって
いつのまにか眠りに落ちてしまう。
といった具合だ。
存在するということはたぶん
こういうことだ。
「今此処に在るということを感じる」
これはきっと、この事だ。
大人になるにつれて体得した自分(の存在そのもの)を赦す方法の全てを放棄した先に
真の安寧があるのかもしれない。
子供であるということ(それにより自分の存在を許容できるということ)は何も悪いことじゃない。
答えはいつだってシンプルさ。
やっていこう、兄弟。
Rain after Frogs.
Ba.Emma=sympson.