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02雑談 愛という歪んだ呪い[呪術廻戦0]


はじめに

 こんにちはRainです
 今回は雑談枠第2回ということでテーマは「愛は歪んだ呪いなのか」です
 これは最近話題の漫画でアニメ化もされた呪術廻戦という作品、その中でも呪術廻戦0という映画で、映画での主人公である乙骨憂太が担任である五条悟に言われたセリフ「愛ほど歪んだ呪いはないよ」を考察してみようという話です
 基本的に呪術世界を自己解釈したものなのであくまで一個人の妄想としてお楽しみいただけたら幸いです
 呪術本編、映画でのネタバレを含む可能性があります、ご了承ください

呪いとは

 まず前提に呪いとは何かと考えていきます
 呪術世界における呪いとは「負の感情」だと考えられます
 根拠としては作中に出てくる呪霊や怨霊が人間の負の感情を基にして生まれた存在であるからです
 作中でもあるように自然呪霊の三体はそれぞれ大地、海、森を畏怖する感情から生まれています
 呪霊とは呪いの集合体のようなものですから、大地に対する畏れが集まってできた漏瑚はある種、恐怖という感情の体現でもあると考えられます
 極論を言ってしまえば負の感情という呪いさえあれば、どんなものでも呪霊や怨霊になることが可能だと考えます
 理屈としてはチェンソーマンの悪魔のようなイメージで恐怖を持つ心さえあればどんなものでも悪魔になると同じように心から憎んだり恨んだりすれば、トマトの呪霊やサメの呪霊なんかも生み出すことが出来ると思います
 ただ個人的には自然や特定の動物の呪霊が生み出されるのは日本独自の考えだと思っています
 少し本題からは外れるのですが、理由としては日本の八百万信仰にあって、万物に神が宿るという異質な考えから付喪神のようなものが日本では一般的だからです
 普通、物にこころは宿らないし、自然に感情は生まれません
 それでも日本では古くからこの考えが広まり、今でも生き続けています
 仮に海外で大地や海が畏れられるとすればそれは神というより上位の別のものへの畏れに変わると思われるからです
 黒沐死のようなGの呪霊も日本の虫などにも神が宿るという考え方から生まれていると思います、害虫一匹に対して煩わしいや汚いという感情はあれど、日本ほど相手を意思を持っているものとして考え、畏れていないからです
 海外なら蝗GUYのように災害のような分類や感染症などは呪霊化しやすいでしょうが特定の虫や動物を指して呪霊化するのは難しいと考えます

負の感情とは

 次に負の感情について考えてみます
 呪霊化するのは恐怖や嫌悪などの負の感情です
 では、負の感情とはどんなものがあるのでしょうか
 代表的なのは上記した恐怖や嫌悪などですが、これは複合的な感情であると私は考えます
 基本的に人間の感情は喜怒哀楽の4種類を複合したものだと考えています
 心理学的に言えば感情は8種類の複合という意見が一般的ですが、今回はわかりやすさと自分的に納得がいきやすかった4種類で説明していきたいと思います
 喜怒哀楽はご存じの通り、喜び、怒り、悲しみ、楽しいの4種類の感情の事です
 この4種類の感情を正負の感情で分けるとどうなるでしょうか
 大抵の人は正負負正の順番になったのではないでしょうか
 私も分けるとしたらそうしたと思いますし、それが正解だと思います
 ここで重要なのはそのイメージが固定概念として存在していることです
 喜怒哀楽という感情を聞いて真っ先に思い浮かんだ正負のイメージ、何に喜んで、何に怒って、何に哀しんで、何を楽しんだかを考えない状態での正負のイメージ
 例を挙げるとするならば人の不幸を喜んだ時の喜びは正の感情なのか、友達の為に良かった時の怒りは負の感情なのか、人の死を哀しむのは負の感情なのか、人を傷つけるを楽しむのは正の感情なのか
 過程が変われば正負のイメージは変わる
 ただ過程は変われど結果は変わらない
 何をして、何を思ったのかに関わらずイメージとして正の感情と負の感情がある以上発露された感情は喜びなら正の感情に怒りなら負の感情に分類されてしまう
 感情に対して無意識のうちに正負のイメージがあり、それが感情に乗せられ、正の感情は何も生まず、負の感情は呪いになり呪霊を生み出す
 結論としては固定概念としての負の感情があり、それが呪いのもとになっていると考えられる

愛とは

 では、愛とは正の感情でしょうか、負の感情でしょうか
 基本的には正のイメージで正しいのでしょう、が私の考えとしては愛は正負の感情を複合した例外的な感情であると考えています
 まず、私個人としては愛は基本的な4種類の感情をすべて複合した感情、もしくはそれ以上の例外的な感情すらも内包した特別な感情であると考えています
 理由としては愛という感情が持つ特異性にあります
 愛には何種類もあり、代表的なものだけでも家族愛、友愛、親愛、恋愛などがあり、同じ愛に分類される言葉でありながら内包する感情が大きく変わります
 家族に向ける愛、友達に向ける愛、親しい人に向ける愛、好きな人に向ける愛、どれも感情の大きさも違ければ重さも形も色も違うでしょう
 また、同じ好きな人に向ける愛でも一目惚れのような一瞬で芽生える愛もあれば、長い時間をかけて育む愛もあります
 片思いだったときに相手に向けていた羨望混じりの愛と両想いになった後の幸福感に満たされた愛でも違いがあります
 失恋や愛憎などマイナスな面を含む愛もあります
 先ほど正負の感情はイメージによって決まるといいましたが、愛は正のイメージが強い一方で負のイメージも強く広まっています
 友達にすら嫉妬してしまったり、進まない関係に歯がゆい思いをしたり、振られた時を考えて苦悩したり、振られた時にはこんな気持ちになるなら好きになんてなりたくなかったと思ったり
 同じ複合感情でも恐怖や軽蔑のように負の感情だけではなく、楽観や信頼のように正の感情だけではない
 愛とはそういう複雑に感情同士が混ざり合って生まれている感情なのです

歪んだ呪いとは

 では、なぜ歪んだ呪いなのでしょうか
 前提として「愛ほど歪んだ呪いはない」というのは言い換えれば、愛は極端に歪んでいるものであって、ほかの感情も歪んだものではあるということです
 人が自分以外に何かを与える時必ず歪みが発生します
 それは言葉も、行動も、感情も同じです
 自分が相手に何を伝えたくて、何を知って欲しくて、何をわかって欲しいのか、究極的には自分にしかわからない心の内を外に出すときに自分から離れた何かは、相手に届いた時に確実に歪んでいます
 気持ちの大小とか、言葉の受け取り方とか、些細な変化が絶対起きます
 100%完璧に自分の思った通り相手に伝えることは不可能です、それは人間は心の中を完璧に表現することが不可能だからです
 仮に恐怖は自分の外に出てしまっても恐怖の差はあれど負の感情として伝わり、あれは怖いものだという認識に落ち着きます
 歪みはあれど、共通認識としてそれほど大きなものにはならないでしょう
 ですが、愛はそう簡単にはいきません上記の愛という感情の特異性が自分から発露され、外に出たときに歪みが大きくなることが多いと考えられます    
 自分が自分以外に与える愛は本当に相手に伝えたかった愛なのか自分ですらわからないのに、相手はどう受け取ったのだろうか、言葉は十全に機能しただろうか、行動で気持ちの半分でも伝わっただろうか、自分の感情は、愛は真っ直ぐ相手に届いただろうか
 相手を思う気持ちが全てを歪ませる
 相手から貰う愛と自分が与える愛とお互いがお互いに捧げ続ける愛が本当に同じものなのか同じだけのものなのか、同じだと信じていいのだろうか 
 自分が相手に向ける愛は相手に伝わる時に自分が伝えたい愛のままだろうか形は、色は、大きさは、重さは、感情は自分が与えたい愛そのものなのだろうか
 自分が相手から受けた愛は本当に相手が伝えたい愛だったのだろうか
 大きくなればなるほど、重くなればなるほど、密度が増せば増すほど、愛せば愛すほどその歪みは大きくなる
 伝えたい愛が歪む、お互いの認識が歪む、与える感情が歪む、求める全てが歪む
 純愛であればあるほどその愛は深く、重く、複雑に、簡単に歪んでいく
 だからこそ、「愛ほど歪んだ呪いはない」のだろう
 それだけ内包した感情があり、それだけ差が生まれるのだから

おわりに

 今回は「愛は歪んだ呪いなのか」をテーマに書いてみました
 私はあのセリフが大好きで、呪術0を見た後はしばらくこのセリフにはどんな意味が込められているのだろうと考えました
 そして、考え抜いて自分なりの答えをだしたからころ、最後の乙骨の「純愛だよ」という発言の重みや覚悟を感じることができてとても好きな作品になりました
 現在アニメ2期が放送中なので、興味のある方はとても面白い作品なのでぜひご覧いただければと思います
 それでは今回はこの辺で終わりにしたいと思います
 アニメ感想も書いていますが気分的に雑談記事が暫く多めになるかもしれません
 それでは拝読ありがとうございました
 次回もよろしくお願いします

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