奈々クラ兼ラブライバーによるJ=J楽曲レビュー
こんにちは。かみなりひめです。
私事ですが、素敵な出会いがありました。
NANA MIZUKI LIVE RUNNER 2020→2022にて
仲間内のオタクから紹介されたオタクなのですが、
大変分かり手で信頼の置ける方でした。
その方から、ここ数日にかけて
ふとした契機に布教をしてもらっております。
Juice=Juice
以前、某Prima Portaのライブで、
高柳知葉さんと相良茉優さんによるカヴァーを機に
上の曲だけ聴いたことがありました。
(記事にしてありますのでぜひ)
そのことをふっとお話したところ、
「じゃあこの曲はどうですか?????」
とアレヨアレヨの間に飛んでくる曲名。
信頼できるオタクの奨めるコンテンツなら
積極的に受け止めていきたいワタクシ。
と!いうことで!
オススメしてもらった曲たちについて、
その歌詞について雑感をまとめていきます。
1. 微炭酸
2019年2月13日に発売された、
メジャー11枚目のシングル1曲目。
タイトルからして甘酸っぱさを感じずには
いられないワタクシでしたが、
その感覚は割と正解だったと気づくのです。
ここで「別の人みたい」と表現された人物は
歌詞中における「君」のことでしょう。
「まだ子どもでいられた日」に「約束」を交わして
いることから、歌詞世界の主体とは幼馴染のような
関係性であることもうかがえます。
歌詞世界の主体は、「君」に恋心を抱いていた
わけですが、それは「君」からの交際宣言によって
見事に散ることになるわけです。
その淡い恋心が「春色した爪の先」という何気ない
歌詞にも表れているのでしょう。
「夏色」や「秋色」「冬色」ではダメなのです。
万物が芽吹く季節である「春」の色という点に
「恋心の芽生え、自覚」というイメージが
仮託されているのでしょう。秀逸な描写です。
そんな恋情を積極的に届けるのではなく、あくまで
「君」から「見透かされ」ることを望みます。
しかし、芽吹いた恋心は届くことはありません。
こんなことを提案してくる「君」です。
これで「ひとくち」飲んでしまったら、
それは紛れもなく間接キスです。
それに無頓着な「君」の姿が描かれることで、
歌詞世界の主体の恋情は届くことがないことが
想定されます。
「君」にすら届いていない自身の恋情ですから、
爆発させるわけにもいきません。
だから「微炭酸」で「小さな音」で弾けることが
歌詞世界で要求されます。
この「微炭酸」というキーワードからの連想は
歌詞の別の個所にも散見されます。
炭酸といえば、シュワシュワと弾けるもの。
その「弾ける」を、自身の恋慕の吐露としての
「弾ける」に転用しているのです。
そして、自身の気持ちを届けられなかった後悔が
歌詞世界の主体を襲うのです。
「青い季節」とは青春のことでしょう。
自身の恋心に気付くのが遅かったことへの
悔恨の念がにじみ出ています。
以上をまとめてみると、
成長した幼馴染に恋人ができたことで、
自らの恋心を認識するに至るとともに
その恋が”弾けて”終わったことを自覚し、
青春の訪れのタイミングを逸した後悔だけが残る
という歌詞世界になるでしょうか。
「微炭酸しゅわしゅわ」なんてキャッチーな歌詞で
清涼感を出すから逆に切なさが増幅されるのです。
軽率に好きになってしまいました。
また、歌詞においては多分に和歌的な技巧が
盛り込まれているのも特筆すべき点でしょうか。
「微炭酸」から導かれる言葉をちりばめて、
一つの言葉に二つの意味を掛け合わせていく。
和歌でいえば「縁語」「掛詞」に相当します。
さらに、「爪の先」についても、自身の淡い恋心を
ネイルの「春色」に仮託していると考えれば、
ここには「見立て」の技法が用いられています。
歌詞世界の爽やかな哀感と和歌的技巧の美しさに
すっかりやられてしまいました。
2. 好きって言ってよ
2020年4月1日に発売された、
メジャー13枚目のシングル2曲目。
直球どストレートなタイトル。
これにて主題が示された!と安心したのも束の間。
イヤホンを掛けて再生ボタンを押す。
すると耳に飛び込んできたのは、鮮烈かつ軽快な
ホーンセクションとベースに印象付けられる
ダンサブルなサウンド。
それに続くは、サウンドのイメージを上回る歌詞。
歌詞世界の主体は、恋の駆け引きにはとっくに
「夢中になれない」状態にあります。
その理由は「生きるだけで スリルは足りてる」
という点に求められています。
では、その代わりに何を求めるのでしょう?
駆け引きを要するスリリングな「恋」ではなく、
安定していて温もりのある「愛」を欲するのです。
そのため、恋人に以下のことを要求します。
自分には、見返りを求めない「愛」を投げる
余裕はとっくに無くなっているからこそ、
相手からも自分と同じ熱量の「愛」を求めます。
でも、それをハッキリと伝えることはできません。
相手からの「愛」が欲しいと願う一方で、
それを「気にしてないフリ」をするのです。
これはまさに精神分析でいうところの
「反動形成」にあたるでしょう。
以上を参考にすると、歌詞世界の主体による態度は
恋人にとっては「ぎこちなくわざとらしく」見えていると考えられるでしょう。
そう考えるならば、歌詞世界の主体による
「気にしてないフリ」こそが、実は忌避していた
「駆け引き」に他ならないのでした。
「恋」の駆け引きではなくて、
「愛」の安定性と温もりを求める一方、
それを「気にしてないフリ」してしまうという
ある種の駆け引きを自分もしてしまっている。
しかし、そんな矛盾すらも
心地良いものに聴こえてしまうのが
この曲の魅力ですね
3. がんばれないよ
2021年4月28日に発売された、
メジャー14枚目のシングル2曲目。
……いやはやこの曲ですけれども、
仕事帰りに聴いたらうっかり泣きそうです。
奇しくも季節はまさに冬。
切ないピアノサウンドから次第に音が増え、
サビに向かって次第に盛り上がっていき、
その積もり積もったエモーションたちが
「がんばれないよ」で決壊するのです。
「小さな街」に嫌気が差して家を出た「私」。
およそ、都会へと出ていったのでしょう。
でも、都会での暮らしは決して楽ではありません。
涙を流すまで働いてもまだ足りずに、
それでもがんばるしかないという状況にある
「私」の辛さがにじみ出ているようです。
「気休めの自分へのご褒美」は前に登場する
「最寄りのコンビニ」で購入した「アイス」の
ことを指しているのでしょう。
ここからは、「私」が置かれている状況は、
自分で対処しようと思ってもすでに不可能な
フェーズに来ていることがわかります。
そこで「私」が求めるモノこそが、
「ほんとの自信」であるわけですが、
サビの最後には「ほんとの」という修飾語句が
もう一種類登場します。
「ほんとはダサい私」を「笑ってほしい」という
ことからは、「私」は笑われる客体であって、
笑う主体が「私」以外にいることが分かります。
これは、果たして誰なのでしょうか?
そのヒントは、以下の部分にありました。
「電話」で話す相手というのは、基本的には
すぐ会える距離にはいない人物でしょう。
それでいて、「ダサい私」を披瀝できるのです。
そして、「私」が
■「小さな街」を飛び出して都会に出たこと
■「強がる」ことができること
を思い出してみましょう。
すると、「電話」で話した人物とは、
「小さな街」に残してきた大切な人であると
考えられるのではないでしょうか。
この大切な人の存在を明確に歌詞に書き込まず、 文学的空白として様々な解釈の余地を与えている
ところに卓越したモノを感じますね。
さらに、ここまでの流れを踏まえれば、
前の歌詞にあった「いつの日か叶えられた時」は、
自分の夢を叶えて「小さな街」に錦を飾る時だと そう見えてくるでしょう。
この段階では自己実現をした後であるので、
それゆえに「ほんとの自信」が持てるのです。
ここまでをまとめてみると、
「私」は、都会の喧騒に飲まれてもなお強がって
頑張ろうとしているけれど、内心では自己を承認
してくれる「小さな街」にいる誰かを求めている
のです。
そして、その被承認こそが「ほんとの自信」に
繋がるものなのだ――と信じているのでした。
さて、「ほんとの」という言葉は、
常に力強い訴求力と甘い響きを持っています。
しかし、それはややもすると
脆くて危ないモノでもあるのです。
上の記事でダラダラ書いていますが、
「本当の私」というものはどこにもいないのです。
「ほんとの●●」というものは、それを支えている
根拠が失われると瞬く間に崩れ去ります。
崩れ去ったものを修復するのは相当に大変です。
そんな一種の危うさ、切なさが
ピアノの旋律とストリングスに乗せられ、
甘く、でも哀切に響いてきます。
4. おわりに
① 微炭酸
② 好きって言ってよ
③ がんばれないよ
これら三曲についてダラダラと述べました。
お気づきの諸兄も多いでしょうが、
これらはすべて山崎あおい作詞曲です。
上記の記事の中で羽佐田瑶子さんは、
山崎あおいさんの詞の魅力について
以下のように述べています。
これを私は「葛藤との折り合い」と捉えます。
現実社会を生きていると、どうしても自分の理想や
想いとかけ離れた現状のなかに放り込まれることが
ありますよね。
そんなときに、それを打破したい!と願えども、
実現するのはえてして至難の業です。
これらの歌詞世界に出てくる主体たちは、
その壁にぶち当たってあれこれと葛藤します。
ですが、それをどうにかこうにか折り合いをつけ、
その先へ進んでゆこうともしています。
このような姿を見て、
「私も頑張らなきゃな!」と元気をもらったり
明日へと進む勇気をもらえたり。
だからこそ、①〜③までの歌詞において、
その主体はぼかされていることが多いのでは
ないかと推察しています。
「がんばれないよ」では、主人公は「私」であると
示されますが、「電話をした」相手については
多くが語られていません。
語らないことによって、これらの曲を聴いた人々が
自分の身に置き換え、好きな人を当てはめることが
可能になります。
そのような点にまで緻密に考えられている上に、
さらに文学的にも「読み」の余地があったり、
技巧が凝らされているのが山崎あおい詞でした。
素晴らしい歌詞世界を覗くきっかけをくれた
信頼できるオタクさんに感謝です!