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蓮ノ空(?)から学ぶ文字・表記②

こんにちは。かみなりひめです。

‥‥ってタイトルとヘッダーが合ってないだろオイ!
とお感じの方もおられるでしょう。
「蓮ノ空」を謳いながらも園田海未ですからね。
(しかもスクスタのUR。もはや懐かしいです)

まあまあ、ちょっと待ってください。

実はワタクシ、前回の記事におきまして、
若干の嘘を織り交ぜて書いてしまっておりました。

当該箇所がこちらです。

いまここに、「安養寺姫芽」と入力しました。

(かみなりひめ「蓮ノ空から学ぶ文字・表記」より)

「安養寺」の部分は「あにょじ」にならぬように
意図的に「あんようじ」と綴っております。

しかし、「姫芽」の部分については、
「ひめ」では変換で出ませんので、ここだけは
「姫」字を出力してから「芽」字を出しています。
いわば「ひめめ」と入力しております。

‥‥と、ここで思うわけです。

「ひめ」って訓ませたいだけならば、
「姫」字だけですでに充分じゃないの??
「芽」字って、必要ですか???

いちいち「ひめめ」って、一文字多く打つのも
それはそれで面倒だったりしますよね。

これについては、「芽」字を使用することで、
これから芽を出す104期を想わせるためである、
などと理屈をつけることも充分可能でしょう。

実際、もしかしたらそういったニュアンスも
あるのかもしれません。

では、これらのキャラではどうでしょう?

(スマホ買い替えてからのスクショ)
(スマホ買い替える前のスクショ)
(スマホ買い替えてからの縦長スクショ)

「うみ」は「海」字だけでOK、
「まり」は「鞠」字だけでOK、
「つづり」は「綴」字だけでOKのはず。

それぞれ、「未」「莉」「理」には、
どんな意味を込めているのでしょうか。
というか意味が込められているのでしょうか?

この “余分な一字問題” を考えるに当たって、
まさかの『万葉集』が参考になります。

 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、
 大来皇女の哀傷して作らす歌二首
うつそみの 人なるわれや 明日よりは
(宇都曾見乃 人尒有吾哉 従明日者
二上山を 弟世(いろせ)とわが見む
(二上山乎 弟世登吾将見)

(『万葉集』巻二・165番歌)

この歌における「弟世(いろせ)」の語について、
以下のような指摘があります。

「いろ」は同母を示す語。「背」は男を親しんで呼ぶ語。「弟」はイロトと訓める文字である。原文「弟世」はイロトではなくイロセであることを指示するために「世」を書き添えた用字という稲岡耕二氏の論文引用あり。

(レファレンス共同データベースの記載より)

上記をまとめると、次のように言えるでしょう。

他の語との読み間違いを防ぐために、
 本来その表記で意味を表せる語についても
 訓みの最後の一文字に対して漢字を当てて
 書き表すことができる

このような発想が、
奈良時代・『万葉集』の時代からあるというのは
さすが漢字を飼い慣らした日本人です。

この発想は、「園田海未」の場合においては
たしかに当てはまるでしょう。

かりに「園田海」で止めてしまうと、
「うみ」なのか「カイ」なのか決められません。

もちろん、我々は園田海未というキャラや、
「ラブライブ!」というコンテンツは既知なので、
「“うみ” に決まってるじゃん!」と感じますが、
文字だけだとさすがにそうはいきません。

「ミ」と訓める「未」字があるからこそ、
「そのだうみ」と間違いなく訓めるのです。

一方、あにょじの「姫 “芽”」や小原の「鞠 “莉”」、
夕霧の「綴 “理”」は、このルールのなかでも
「読み間違いを防ぐ」という目的が薄らいでゆき、
一般化したケースだと考えられます。

これら「姫」「鞠」「綴」は、
これだけで「ひめ」「まり」「つづり」以外の
訓みをするとは考えにくいからです。

彼女らの名前を入力するときに、
「入力めんどくせーなぁ。。。」ではなく、
奈良時代からの日本語表記の一形態だ!」なんて
見てあげると面白いかもしれませんね。

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