noteが書きやすくなったのでぜひぜひ私はここで書く
noteなど洒落たプラットフォームで文章を書く人は、きっとパソコンも新しくてイケている感じの生活をかましておられるのだろう。だから、下々というか、私のようないけていない感じの人に共感することは難しいだろうが一応書く。
PCが古いので価値観を反映できない
私のPCは、リンゴのマークのハンバーガ屋みたいな名前を持っている。正しくは名前というか種族としての名称なのだが、学術的に正確に表現することは私の責務ではないので遠慮しておく。
つまり、MacBookなのだが、古いのである。とても古いのである。どれくらい古いかというと雪虎の絵のやつである。まだDISCでインストールするタイプのOS Xで稼働するタイプのやつである。
その雪虎でnoteを利用することはできない。雪虎の中にいるブラウザという人の価値観が古くてnote的な価値観を画面に表示できないのだ。ジェネレーションギャップをモロに発揮して理解がしっちゃかめっちゃかで無理矢理にアート的表現をした結果ただの崩れた食パンみたいな感じになったnoteが私の前に現れる。
iPadとchromeと私の3人がかり
だから、私はうちにあるiPadというやつでnoteに書くのだが、iPadを稼働させるiOSという人の能力ではnoteに長文を書けない。だから、黒有無(クローム)という新し目のブラウザの人に手伝ってもらってPC表示してから書いていたのである。そこまでしてやっと私はnoteに長文を書ける。少なく見積もっても、3人がかりである。
だが、それでもiPadの人ではnoteを完璧に使いこなすことは難しくて、見出しをつけたり、文字を中央に寄せたりすることができなかった。だから私のnoteでの文章はただつらつらと文字が並ぶだけの簡素な感じ、素朴な印象、田舎者の視野狭窄的表現に止まっていた。
iOSで書けるようになったからにはwebらしさを醸す
ところがである。ところがであるよ。なんとiOSでもテキスト入力ができるようになっている。いつのまにかである。これで黒有無の力を借りなくてもiPadの人だけで長文が書ける。なんならもう少し小柄なiPhoneという我が家の電話係がいるのだが、その小さな子でも書ける。
それで、しかも、しかもね、見出しとか、中央寄せとか、引用とか、リンクとか基本的なことができるようになってる。なんということでしょうか。これでやっと私の田舎くさい長文にもwebらしさがでる。かもしだせる。装飾できる。
これから私は存分にnoteでwebらしい文章を書いていく。これまでの汚名を晴らさねばならない。見出しもリンクもないwebページになんの価値があるのか、それならwebに書かずに紙に書けばいいのである。
わざわざハイパーテキストを使ってまで書くほどのことかと、今まで私は苦しい自問自答を重ねてきたのだ。しかし、これからは違う。内容が薄かろうとwebらしさを利用して引用、引用、装飾に装飾を重ね、見てくれの魅力を振りまきながら、さも立派な感じを見せびらかしていきたい。生きたい。
はじめての中央寄せ
例えば、今まで左に寄せられていた私の文。これは文が自ら望んでいるのなら問題ないが、そうではない。望む望まないに関わらず生まれた瞬間に左端に寄せられていく。生まれるのが早いほど左に詰められる。
「しかし」とか「また」とか、こうした文頭にきやすい文は問答無用で左である。彼らもたまには中央にいたいはずである。一度やってみて、その上で自分に中央は合わないなと本人が感じたのなら、また左に帰ればいい。選択というものがなければ責任を感じることができないし、やりがいも生まれずらい。
大切なのは、自ら選ぶということだ。
また
このように、まずはやってみることが大事で、最初から左に寄せられていては自分の才能・役割を認識できない。実際に「また」が中央にくることで、「また」のほうも自分で気づくはずである。
「ああ。俺の居場所はここではないな。だって、これじゃ「股」だもの。どう考えても接続詞には見えない。本来の役割を果たせない。俺はやはり、左に寄って本来の「また」として生きていこう。まだ「股」になる覚悟はない。もっと歳を取って、笑われることに慣れてから中央に行こう。俺にはまだ早い。俺はまだ若い」
このように、自己への理解を深めることになる。
特に今の時代は多様な選択肢がある。そんな中で『自分のことを知る』ということの重要度は高い。向き不向きを考えて勝てるポジションを自ら選択する能力がないといけない。
最後に
今後はnoteにたくさんのwebらしいテキストをアップしていきたいです。(おそらく「また」が、中央を望むことはもうないでしょう)
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