言葉ってマジで意味さえ通じればいいよねって思う時がある

はい。

今回はタイトルの通りです。

いやなに、ふと思った事なので書き記そうかなと思ったんですよ。

高校の頃、情報収集の収集の漢字の位置のずれが国語の時あって、4割前後、かなりの数間違っていたんですよね。

でもこれって別に不思議じゃなくて、情報を集めているから収めるわけで、意識として優先されているのが集めている方の【しゅう】なわけですよ。

言葉に、特定の言葉の前にある後の言葉を強調するための物とかありますけど、そういうのが言いたいんじゃなくて、単純に概念を覚えようとしている時に頭で何が起きているかきちんとわかっているのか?という事です。

その教師はただ指摘しただけで事務的な対応をしたんですが、ようは【情報収集】という漢字の意味の流れって、

1:集める
2:整理をする
3:整理をした結果、集めた情報を何かしらに収める(分類分けした)

なわけです。

だから皆収集を集収って書くし、本来なら情報集々、がイメージ図としてより正確なわけです。

この話、誰かが本とかでまとまってそうなのであれこれ言うつもりはないんですが、自分も間違って覚えていたんで、あれ、覚えていた時からずっと間違っていたんだっけ?って思ったんですよ。

でもきっとそうじゃなくて、正しかったり正しくなかったりしていて、今回国語の教師のお墨付きをもらった。でもなんかもやっとしている。

なぜだ、と考えたら、収集が集々であるべきだから、と個人的に納得がいく結論が出た、と。


なぜこうじゃないんだろうという意識が働くと、自分は自分の中で哲学が始まります。

自分のツイッターでは他にも、たまたまタイムラインで流れて来た石田三成の名前の事とかこうであるべきだろう!とワーキャー言ってます。

いわゆる自分フィルターに引っかかった話題、という奴ですね。

賛否両論あると思いますがノベルアップのエッセイで書く話じゃないので、こっちにまとめました。



以上です。

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