【ひとりごと】どうして「5次元」なんだろ
「3次元と5次元のルールを混同していると物事はうまくいかない」
という言葉が、最近よく耳に残るようになった。
(私が勝手に「物質世界と精神世界」という名前を付けて呼んでいた二分論だが、そちらの方がわかりやすい。)
それは論理的に正しいと思うし、
体感的にも真だと感じる。
人の悩みというのは例外なく「今まで生きてきた自分のためのルール(信念やハウツーともいう)が適用できない」事態に陥ったときだ。
「人生でこれ1つさえあれば大逆転して一生安泰」なんて絶対に存在しない、というのはそういう意味で、
ヒトは生物的/物質的な法則の中で生きる限り、
何をどれだけ統合しようと最後には”2”までしか辿り着けない…
0と1がないと世界は構築できず、
YESとNOは同時に唱えられず、
右と左を同時に向くことはできず、
MaleはFemaleではなく、
子は親の子宮に戻れず、
あなたは私にはなれない。
この境界の外を「バグ」や「エラー」と定義するのだが、
それを理解できない人々の同調の強さをみるにつけ、集団レベルでこの事実に辿り着くのは早くても50年ぐらい先なのかもしれないな、と思った。知らんけど。
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ところで、「それ」が5次元であることはおそらく真なのだが、その場合、4次元はどこにいったのだろう。
いわゆる時間と呼ばれるものだが、
3次元のルール=物理法則において、私たちは「現在という点」にしか存在できない。
「過去--現在--未来を繋げた線」としての時間は実は、私たちの頭の中にしか存在しないのだ。
中世の人々が文明レベルで天動説を信じていたのと同じ。
「流れとしての時間」は「気のせい」であると、現在、理論物理でも証明されつつあるようだ。(そんなに頭良くないからちょっと、詳しくはわかんないけど、)
しかし。
私は天動説も割と好きだ。
それは確かに「事実」ではなかった*が、「物語」としての存在強度は非常に高かった…数百年以上、人々の「真実」であり続けた程度には。
*事実と真実は、混同は不可能だが、両立は可能だ。これもまた”2”という調和の一例だが。
文系として、やはりそこには敬意を払いたい。
そういうわけで、
「線としての時間」の存在を「ある」としたままあえて空想を続けてみると、
私たちは物質的に平面(3次元)の生物でありながら、点か線(1〜2次元)の生命体であるとも解釈できる。
ということは「私たちがプロダクトに愛着を持ったり」「漫画やドラマ(2次元)を観てキャラクターを愛でるように」
「私たちを愛でる高次元の生命体が存在してもおかしくはない」。
彼らも、プロダクトとしてのモノ(点)が好きなタイプと物語性(線)が好きなタイプに分かれるのかもしれない。
(いや、実際にそうなのではなくて、そういう空想だよ。そこは忘れないでね。)
冒頭のルールについての話は私が最近好きになったスピリチュアル系の億女さんのセリフだが、
あのノリで幸福に成功していく人というのは、キャラクターや演者としての自身をよく理解している人なのだと思う。
第四の壁を越えるデッドプールみたいなものかもしれない。
自分の世界に対処しながら視聴者(高次元)にも積極的に働きかけ、ファンを魅了し、支援を受ける。
そのためにはやはり「今を生きる」3次元の点生物で満足するのではなく(*してもいいが)、
「過去を克服し、自由に生きて、未来を掴む」という線を俯瞰し、魅力的に描く必要があり(*そう、過去も非常に大事な1要因だ)。
その4次元という線を俯瞰するためにはさらにもう1つ上の視座…
5次元のメンタリティを獲得する必要がある。
あ、なるほど、だから5次元なんだ。
論理的ではないが、
物語としては非常に筋が通っている。すっきり。
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すごいな。全く誰にも気を遣わない文章すぎる。
これで納得できない人絶対いっぱいいると思うから、忘れてもらって全然いいよ。
でも読んでくれてありがとね。
おわり。