【前置き】プロレスとセックスの違いはなんですか?| 議論と対話を比較する
※この記事は前置きで、
本筋とは直接関係ない、ただの自己開示です。
興味ない人は【本題】だけ読むので問題ないよ。
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「日本人は議論が苦手」らしい。
そういう通説はわたしが10代の頃からあった。
今でも至るところでよく聞く。
“日本人は”というぐらいだからおそらく複数の他国と比較しているのだろうが…あれ?それをまことしやかに説いていいのは多言語でdebatingしたことがある人だけなのでは*?そんな人、実際そんないなくない?
*わたしは英会話ろくにできない
…と思いつつ、おそらく事実だろうなとも思う。
だってわたし自身、議論は苦手だ。
全くできないわけではない…ちょっとなら作法もわかるので必要ならやるが、精神コストを著しく消耗するのでやりたくない。
ところが、
もとから議論が苦痛じゃない人間はなぜかこちらの事情を理解してくれない。共感もできない。
こちらからすればそのスタンスの方が理解不能なのに。
そのくせ平気で「もっと議論すべき」「苦手なら克服すべき」などとぬかしてくる。
「今のお前じゃダメ、でもどうしたらいいかは自分で考えろ、甘えるな」とハシゴだけ外された気分。
であれば、
個人に犠牲を強いてくる連帯責任のために消耗する義理などどこにもないと思った。
ひとりで生きた方がずっとマシじゃないか…
「犀の角のようにただひとり歩みなさい」
という釈迦の言葉が、まさか腑に落ちる日がくるとは意外だったが。
中立傍観者は悪?
そうだ、それで構わない。
誰かが喜ぶのは嬉しかった。だから無理にでも正しいことを頑張ろうとして、死にかけた。
どれだけ努力しても周りの不満は消えない、まだ足りない、回復には腹が立つほど時間がかかって、もううんざりだった…
…自分は戦うには甘くて弱くて優しすぎるのだと、その時初めて理解した。
だから少しでも争いの前兆を感じたらさっさと逃げる。
負け組や傍観者の誹りも喜んで受けよう。
そしてその先で、いつか、
わたしと同じように疲れ、離れてしまった優しくて弱い人たちのための補給所を作りたい(今貧乏すぎて何もできんけど、いつかね…)
…“正しさ”という物差しは本当に素晴らしい贅沢品で、
だからこそ、生命と比べたらなんの価値もない。
…あ。話が逸れてしまった。
すぐ変な方に逸れるのは悪い癖だ。すみません。
そういうわけで、
わたしは自分の命を守るため、正しさでしか物事を測れない人には徹底的に心を閉ざして言うことを聞かないことにしている。
そう、反抗期だね。
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とはいえ、
当然誰かと意見を交わすことには(特に違う意見を交わすことは)大きな意義がある。
ひとりは身軽だが、ひとりでは遠くへは行けない。
ひとりでぐるぐる苦悩するだけでは何も進まない。
ひとりでも幸福に生きていけるが、
ひとりは寂しいし、つまらない。
議論は嫌いだ。克服する気もない。
だからといって意見交換をしなくてもいいわけじゃない…。
では何ならできるんだろう、と考えて、
“議論”は嫌だが、
“対話”は好きだな、と思ったのだった。
つづく。