エーリッヒ・フロム「悪について」読了
原題「The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil」(人の心:善と悪の才能)にあるように、本書は悪のみを語るものではなく、悪を定義することを通して善を見つめる旅路とも言える。ドイツのユダヤ家庭に生まれたフロムは、第二次世界大戦を経験。本書は、フロムがナチスの蛮行を観察し「なぜ人は生を軽んじるのか」を考察した一冊。私にとっては非常に難解ではありましたが、感じることもありましたのでここに残します。
私が得た学びは3つあります。
1) それは生の喜びではない可能性
2) 衰退のシンドローム
3) 悪について
【それは生の喜びではない可能性】
フロムは自由についてこう書いています。
「自由」という言葉は抽象的な概念であり、実態としては存在しない。真実は一つしかない。選択する過程において、自分を自由にする行為である。
そして、こうも書いています。
最後の決心を行うときには、選択の自由は消えてしまっている。
私の解釈は、最後の決定は機械的に無意識的に選ばれている可能性がある、ということです。文明的に均質化された日本社会において自ら選んだ選択と思っていても、実は周りに流されていたり、環境(企業のプロモーションを含む)によって誘導されているだけかもしれない。その選択には木漏れ日の暖かさや小鳥のさえずりを感じた時のような感覚を得られているだろうか。同質化して自分を見失ってはいないだろうか。
【衰退のシンドローム】
フロムは極悪非道に陥る病的な人の性質の概念図をまとめている。この概念図によると、衰退のシンドロールに陥る人の性質は3つ、死への愛、悪性のナルシシズム、近親相姦的共生があるという。つまり、生への関心を失い、同胞化への固執により自分を見失っているという状態が、衰退のシンドロームにあるということ。
この逆のポジションが、成長のシンドローム。生に関心をもち、他人への贈与を軸として、個人の個性を尊重した関係性のなかに自分の生の喜びを得ることを目的とした、人生の選択をするその瞬間に感じる自由を追い求める状態。
【悪について】
本書の最後にフロムは、悪について、こう言っています。
ヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで自分を失うこと。
ヒューマニズム、つまり理性的な人間でありつづけることは時に重圧を受け、時に厳しい選択を迫られることでしょう。このことから逃げ、本能的に欲望的に選択・行動することにより「なぜ、その選択をしたのか」を見出せなくなり、やがて自分を見失うことになる。それが、衰退のシンドロームの始まりであると言うのです。
【最後に】
ぜひ考えていただきたいことは、衰退のシンドロームに陥るのはヒトラーのような凶悪人や病的なナルシストだけなのか、あなたや私のような今は普通の人間も陥る可能性はないのか、ということです。
例えば、仕事で部下や後輩に業務を任せる時、相手を単なる労働力として見なしていないだろうか。もっと言えば、人ですらなく機械のように扱ってしまうことはないだろうか。例えば、出身、ジェンダー、学歴、趣味などの経歴からステレオタイプに相手を何かと一括りにまとめてしまっていないだろうか。さらには、そうしてしまっていることを他人から指摘されて、言い返してしまったことはないだろうか。言い訳や嘘、そういう自分そのものへの嫌気から途方にくれ、酒に溺れ、浪費し、家族や友人に暴力的な言動をしてしまったことはないだろうか。
それをやってしまった後に後悔が残っているなら、まだ我々のなかには理性を保つ勇気が残っているということです。逆にそれを失ったとき、衰退のシンドロームが歩き出す。そう考えると、案外、すぐ近くに迫っているのかもしれません。衰退のシンドロームに陥らない唯一の方法は、自分を含む個人の個性を尊重し、命があることに感謝することを日々意識することしかないと私は思います。
衰退のシンドロームに陥らないために、自然や芸術を観察し、多様な価値観や存在があることを知り、心の柔軟性を高めることが大切なのではないでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございます。末筆になりますが、謝罪させてください。それは私の文章力のなさであり、本書の理解のなさであり、フロムへの理解のなさの全てに謝罪します。あくまで私一個人の感想として本稿を受け取っていただけますと幸いです。
もし、「悪い思考がループしている」「いまの自分は成長していないかも」と思われているのなら、私のように危機感を与えてもらえる一冊になっていると思います。ぜひ、ご一読ください。