「平和を求め維持する根拠」としての愛国心の必要性
終戦の日を翌日に控えた14日、岸田首相が次期自民党総裁選に出馬しないと声明を発しました。これに伴い、岸田内閣の総辞職も事実上確定しましたし、総裁選も激しくなるでしょう。
……で、それが、この終戦の日と何か関係がありますか?
自分たちの歴史という過去と厳粛に向き合う時間を共有すべき日を、全く意に介していない。岸田総理の退陣表明からは、戦後日本という国に暮らす社会に対する岸田総理の粗雑さを如実に物語ってます。
そしてそれは、総選挙での逆風を恐れるという党利党略だけを考えている自民党の総意でもあり、「政治の国民離れ」の一例だと言えるでしょう。
そう考えたのはてんぐだけでないようで、立憲民主党の逢坂さんも、今日のnote記事で言及していました。
これまでの日本における平和の求め方は、軍国時代を否定することから、「愛国心」という価値観の全否定に走りがちでした。でもこれは、反戦派は「平和を訴えること」それ自体の目的化に陥り、一方でいまの自民党にしても自国の歴史に何ら配慮も尊重もできない有様を見せています。どちらも、「愛国心」という概念を心の底に持っていないから、こんな有様になるのでしょう。
では逆に、「愛国心」という概念を世間に喚起させた人は、戦争と平和というものを実際にはどう捉えているのか。
それを示すひとつの事例が、卓球代表の早田選手のこの言葉でした。
オリンピック期間中に「オリンピアンがエゴイストに見える」なんて言っちゃった人もいました。実際オリンピアンは猛烈なエゴを持っているからこそ、そしてそのエゴを日の丸によって増幅したからこそ、あの大舞台でパフォーマンスを発揮できたことは、その試合を見ていれば理解できます。他国の、どの競技のオリンピアンもそうです。
でも、そのオリンピアンの中には、同時に自分たちの現在が決して当たり前のものなんかじゃないということを理解する見識も宿っていました。
そして早田選手のこの言葉は、議員や評論家やSNSの政治クラスタのどんな言葉よりも、世間に対して「平和」を意識させることでしょう。
社会に対して理念や正義を訴えかけるには、根拠となるものが必要となります。
もう戦中世代がほとんど存命せず、その証言を聞く機会が乏しくなっていく中、平和を訴えるためには、「この国にいま現在暮らす全ての人々に対する責任感」を喚起することが必要です。そして、これをもっと短い言葉で用いるなら、「愛国心」になるでしょう。
日本のリベラル左派が戦争や排斥を招く概念だと忌避し抜いてきた「愛国心」という言葉こそが、平和と協調の根拠となる言葉である。
これがこの終戦の日に、てんぐが申し上げたい言葉です。