“愛国心”というものについて
今日の逢坂さんのnote記事を読んで、色々と自分の中で考えててきたことと突き合わせる朝を迎えてます。
鈴木邦夫氏の語る「愛国者なのに愛がない」という人々は旧Twitterでは散々見てきました。「右でも左でもない日本が好きな普通の人」と自称する人々です。
でもこの人たちは、同時に国民や社会などの“大きい主語”と直面して自らを語られることを、しばしば無条件に拒絶します。
これは、自分を「日本人である」と規定される時と、そうでない時を、都合によって使い分けている、と言い換えても良いです。
また、改憲も含めて国家の力を強めろと主張しつつ、自らの身体や資産を積極的に国や社会に捧げて能動的な貢献をしようという意識も見られません。
はたして、こういう人たちを、「愛国者」と呼べるのでしょうか?
80年代から90年代の頃は、「国家や組織といった大きなものへの忠誠」という意味での愛国心に対する疑義が、主に娯楽作品の中で広まっていました。それは、戦争と軍国主義に対する反省という意味も含まれていました。
ゼロ年代に入りインターネット普及後に台頭したネット右翼、10年代でTwitterで跋扈した「普通の人」は、この80年代から90年代式の愛国心否定の風潮の反動に見せかけて、その実都合よく便乗していたのではないか。
つまり、「責任放棄と背中合わせの愛国心」が、ネット普及後の愛国心の実態だったように思います。
この風潮に抗することで社会の改善を目指すなら、むしろ愛国心という概念に対する忌避感と否定を卒業すべきです。
自らが日本という共同体の一員であることを自覚し、他者の排撃や自己正当化のためでなく自律と自省の縁としての愛国心を意識の基調とすること。
そして、その個々の構成員である国民の負担を可能な限り軽減し、公正に分担させていくことを考え実践することを、「政治」の本分として求めていきたいです。