ダンジョンズ&ドラゴンズ二次創作「我的人生、開心!」
「……ニワトリじゃあるまいし、なんでこんな時間に目が覚めてんだい」
ウォーターディープ北区の料理店<ホース&タイガー&リフ>の女用心棒、<石拳>ヤグローの覚醒時の第一声がそれだった。
彼女のボヤきを嘲笑うかのように、店の裏手で飼っているニワトリが高らかに鳴いていた。うち何羽は、悲鳴のように耳障りな叫びをあげている。
「やかましいねえ、まったく!」
ヤグローは忌々しそうに、鋼糸のように固い長髪をかき上げた。その刹那、髪や肌に染みついた酒と皮脂の臭いが彼女の周囲に広まった。
夜の営業時間が終わったあと、ヤグローは東方世界最大の帝国ショウ・ルンから剣ヶ浜地方へ流れ着いた若い料理人と飲み明かしていた。
最初はショウ・ルンから流れてきたという宝剣の噂についてが話題だったはずが、いつの間にか武術談義を肴にした酒量の勝負になったのだ。
飲み比べは彼女の圧勝だった。顔を真っ赤にした相手が床に倒れ込んだのを「口ほどにもない」と言わんばかりに見下ろし、卓に残っていたジョッキ三杯ほどのエールを平らげた後で、悠々と自分にあてがわれた個室のベッドまで、太さとしなやかさを両立させた自分の二本の足で歩いていった。
オークの血筋は彼女に、なまじっかな男ども――ヒューマンであれドワーフであれ竜人種であれ――には及びもつかない屈強な筋骨と石の如く強固な拳、そして巨人族じみた酒量を与えていた。それらは彼女が“壮麗なる”ウォーターディープの暗黒街で確固たる勢力を誇る<黒蛇会>でも一目置かれる理由だった。あのショウ人の若造も二日酔いの苦しみと共にそれを思い知っている頃だろう。
だが深酒の後の生理現象として、ヤグローの喉は乾き、それが夜番勤めとしては早すぎる覚醒に繋がった。この渇きを覚えたまま、しかも夏の暑さが加わったままでは二度寝もままならない。
「どうせなら迎え酒といこうかね」
ヤグローは酒焼けした声でそう独り呟き、自分にあてがわれた部屋の寝床から、最低限の範囲のみを覆う肌着姿のままの2メートルを超える体躯を起き上がらせた。
肌着の襟元からマメだらけの手を滑り込ませて豊満な乳房というより分厚い胸板を爪で搔きながら、ヤグローは薄暗い食堂をのっそりと歩いていた。この店の用心棒として夜番勤めの彼女にとって、この時間帯の無人の食堂はどこかよそよそしさを感じる。
そんな空気を、食堂奥の厨房から規則正しいペースで食材を切り分ける音が穏やかに破った。
この時間に仕込みをしているとしたら、料理長にして店舗経営者のひとりである李馬虎のはずだ。「馬馬虎虎」、ショウ人の言葉で「いい加減」という意味の言葉を自分の名前にし、それに相応しい大雑把な盛り付けや味付けや、雑な道具や備品の扱いで従業員の何名かに渋い顔をさせるあの中年男にも、料理人らしい生真面目さがあったのか。ヤグローはそう考え、半ば好奇心に駆られて厨房を覗いてみた。
そこには確かにショウ人の料理人がいた。
だが、まな板の上の食材を正確に包丁で切り分けている、褐色に日焼けした肌の料理人は、マーフーよりもずっと若かった。東方人らしい黒絹のような長髪を無造作に束ねた、ソードコーストの住人達と比べると実年齢より若く見える顔をヤグローに向ける。
「あれ、石拳姐さん。起きるには早くない?」
数時間前に盛大に酔い潰したはずの梁開心に、二日酔いの影など微塵も見せぬまま声を掛けられたヤグローは、呼吸数回ほどの間、呆気に取られ棒立ちになっていた。
「俺は酒を呑んでて潰れるのも早いが、酒が抜けるのも早いタチでね。ついでに言えば、夜更かしは苦手だが目覚めるのは早いんだよ」
特に得意がる様子もなくリャンはそう言い、何かを思い出したように不意に子供じみた拗ねた表情を浮かべた。
「ところで、ひどくないか姐さん?」
「何の話だい?」
「なんでそっちの飲み代まで俺の給料からの天引きになるんだよ」
「飲み比べで負けたヤツはそうなるもんさ」
料理酒として店で使われている酸味の強いショウ・ルンからの輸入酒を瓶ごと迎え酒として呷りながら、ヤグローは平然と答えた。その返答に何か納得するものがあったか、何度か頷くリャンの拗ねた表情が納得の笑みに変わった。彼をよく知る人間にとっては馴染みだが、彼の表情は目まぐるしく変わる。
「もっともな話だ。江湖でもそうだった」
「江湖?」
リャンの口から出た聞きなれない言葉に、ヤグローは聞き返す。
「ショウ・ルンの言葉さ。そうだな、楽士や芸人とか盗人とか行商人とか用心棒とか、あとは冒険者もかな。そういう連中の界隈って意味でね」
ヤグローとのそんな受け答えの間、リャンの手に握られた包丁は無駄な停滞を呼ばなかった。パプリカや玉ネギやニンニクなど多様な形状と大きさの食材が、包丁とまな板の間に置かれれば忽ち望ましい形状に切り分けられ、そして今日の料理において使われるべく容器に収められる。
決して速すぎもせず、無論遅すぎもしない調子の包丁さばきは、「この天地に存在するものは食材と包丁とまな板だけ」と言わんばかりの集中力の賜物だった。
そして同時に、店が最も忙しくなる夕刻から夜間にかけては、様々な注文が飛び交う調理場全体を把握する視野と判断力を見せる。相反するこのふたつの特性を兼備することの意味は、料理の素人であるヤグローにも理解できていた。
それは、甲冑や盾に頼らず戦場や鉄火場において身を守ることを求められる、武術家の守りの技の極意でもある。
リャンこそは、この<ホース&タイガー&リフ>を営む冒険者パーティの一員、旋風の如き蹴りと剣法を複合した<木蘭剣法>によって前衛を担う武術家だった。
黒蛇会でも指折りの武術家として己の武功には自負のあるヤグローは、それだけにリャンの手際には感嘆すべきものを感じていた。
「アンタの手際はいつも見事だねえ」
「謝謝、マーフー親方に任せたらどんな形になってるかわかりゃしない。自分でやらないとね」
「それも<木蘭剣法>とやらの応用か何かかい?」
そう言われたとき、リャンの表情に淡い笑みが浮かんだ。
「……いや、包丁の扱いや味付けは別さ。むしろ、こっちの方が武術の修行より長いくらいでね」
そう返した時、リャンは初めて包丁を握る手を止め、顔をまな板から上げて虚空を眺める。それは種族や性別を超えて、自分の過去を幻視するときの、人が等しく行う仕草だった。
「そうだな、たまには昔の話をするのも良いかな。嫌な話ってわけでもないし」
俺の故郷はショウ・ルンの東南の外れにある小さな港町だった。
自分たちが住むところを「世界の中心」なんて恥ずかしげもなく称してる都の連中からは、野蛮人の住む危険な辺境みたいに言われてたけど、結構良いところだった。まあ、田舎であることに変わりはないけどね。
南からクセはあっても美味い食材も流れてきてたし調理法も自然と伝わってきた。この店で出してるカラ・トゥア・ヌードルも、本来はショウ・ルンというよりはその南方風の味付けなんだ。
そんな田舎の港町にある、麺料理が売りの小さな店で、俺は育った。
「育った」ってのは、そこの店主は俺の親じゃなさそうだからさ。
その店の主、張老三――ソードコーストでいうなら「ジョン・スミス氏」くらいありふれた名前のおじさんも、俺とは全く似てない顔だったし、俺もその店主のことは「父さん」じゃなく「おじさん」って呼んでた。
その張おじさんは、実の子でもない子供を手も上げず厄介者扱いもせずに育ててくれた。でも、愛想は良くなかった。いつもあのドワーフの執事みたいに無表情だった。それに、育ててる子供に名前もつけなかった。
そもそも、ひどく無口だった。要件を告げる以外に口を開くことがあるとしたら、料理の味見をするときくらいさ。常連客だって、おじさんの声を聞いたことがないのは珍しくなかったんじゃないかな。
おじさんが俺に声を掛けるときは、大体がこうさ。「小心」。ショウ・ルンの、「気を付けろ」って意味の言葉だ。
俺の方でもそれが自分の名前だって思いこんじゃったし、おじさんも訂正しないもんだから、誰かが「小心」って言うたびに自分を呼んでるって思って返事をしてた。「小心」には「心ちゃん」くらいの意味にもなるしね。
そんな変人のもとで物心ついた頃から暮らしてたし、実の親の顔も知らない。でも、そんなおじさんと一緒の暮らしだったから、寂しいとも悲しいとも感じた事はなかったよ。
そうそう、料理修行の話だった。
多分、五歳くらいの頃かな。色々な事を自分でやってみたい。そんなことを考え出す年頃になったとき、俺の周りには料理の世界があった。だから、自分にも何かやらせてくれって頼んだんだ。
張おじさんは黙って俺を見てた。何を考えていたのかはわからない。俺と違って、表情がほとんど変わらない人だったからね。
でも、次の日には小さな包丁を用立てた。それを俺に持たせて、食材を切り分けたり芋やニンジンの皮むきをさせるようになった。いつものように、「小心、小心」って言いながらね。
やがて俺も背丈が伸びてきて、それに合わせて皮むきから食材の切り分けや味付けを任されるようになった。
何度か挑戦しては、いつも無言で首を振って自分で作りなおされて、それでも諦めずに挑戦していたら、いつの間にか張おじさんが頷くようになってた。
俺の料理の腕はこの張おじさんの仕込みなのさ。
この時期の修行で一番きつかったのは、店で飼ってたニワトリをシメるときだった。おじさんは頑として店で出す鶏肉は市場の物は使わなかった。俺が包丁を握るようになってからは特にそうだった。
料理のためとはいえ生き物を殺す、前日まで餌を上げていた逃げ回るニワトリを押さえこんで首を包丁で落として死体にするってことは、なかなか慣れなかった。こればかりはいつも腰が引けてたよ。
そして厨房だけじゃなく、客の応対、帳簿付けや市場での買い付けもいつしか俺がやるようになっていった。新しい仕事を任されると、新しい世界が広がる。それがわかるたびに楽しくて仕方なかった。
でも、俺の店での仕事が増えるたびに、張おじさんの身体は昔より小さくなり髪も白くなっていった。そりゃそうだ。俺が小さな包丁を貰ってから、十年は経っていたからな。
それでも、張おじさんは俺に「小心」って声を掛けていた。もう、おじさんの中では、それが俺の名前でもあったのかもしれない。
そんな張おじさんが一度、珍しく長い言葉をかけてきたんだ。
「この世には運命というものはあるんだ」
「運命というのは潮の流れや海の上の風と同じだ。逆らおうと抗えば船は覆って溺れるだけだ」
「だから、運命には身をゆだねなさい」
おじさんがあの時に本当は何を言いたかったのかはよくわからない。ただ、ひどく切羽詰まるような、必死さだけは伝わってきた。
だから、俺も神妙にうなずいていた。無口なおじさんがこんなことを言うんだから、それは大事な事のはずだ。俺にだって、それくらいの分別はつくさ。
張おじさんが「運命」について語った頃、港町の方はちょいと住み心地が良いとは言えなくなってきた。
役人と結託して町の再開発をやろうとした地主に雇われたならず者が、近所の商店を荒らして立ち退かせていった。よくある話だろう?
張おじさんの店の客は大半がその商店の老板や丁稚だったからね。一気にこっちまで閑古鳥が鳴くようになっていった。
諦めて別の町で出直しても良かったはずなのに、張おじさんは離れようとしなかった――もしかしたら店が大事でなく、その町の外に出るのを恐れていたのかもしれない。
でもならず者連中には、そんなことはお構いなしさ。やがては張おじさんの店にも押しかけてきやがった。その後は、麺が伸びてる、汁が臭い、色々と難癖をつけては金も払わず帰っていく。そんなとき、張おじさんは俺を厨房に押し込み、自分一人が前に出て、無言で連中に向かって頭を下げては器の中身を掛けられ、罵声を浴びせられた。
悔しかったさ。おじさんのために何にもできない自分が、何よりみじめだって何度も泣いたよ。
そのならず者連中の頭が、<独眼竜>なんて大層なあだ名の持ち主の太鼓腹の大男だった。なんでも戦では右目を始めとして幾度も向こう傷を受けた豪傑だ、なんて言ってたが、実際はどんなものやら。
その<独眼竜>の嫌がらせは、日に日に激しくなった。そして、おじさんを跪かせ、またを自分の小汚い臭いをまき散らす股を潜らせようとしやがった。周りの手下どもの囃し立てる声と、その命令に従おうとしてるおじさんの姿を見て、俺は包丁を握った。
この包丁はそんなことのために使うものじゃないことも、あの頃の俺が十人あまりのならず者に勝てるはずがないのもわかっていた。でも、これ以上情けない自分でいるのは嫌だった。
そう思ってガキだった俺が、奴らの頭に包丁をぶち込んでやろうと厨房から飛び出した、まさにそのときだった、“あの人”が店先に現れたのは。
“あの人”の身長は、今の俺より少し高い程度だった。さして大男というわけじゃない。だが、鉄の柱みたいに頑丈で揺るぎないなのは一目でわかる、そんな境地に達するまで鍛え抜かれたのが、旅の埃にまみれた服の上からでも一目でわかる、そんな佇まいだった。
菅笠の淵から覗いた細い顎はびっしりと硬そうな髭で覆われていて、そして<独眼竜>やその手下どもが帯にブチ込んでた段平の倍ほどに長い刃渡りの剣を左手に握っていた。
芸人が講談で語る「江湖の武人」そのもののような人だった。
そんな人が店に入った、ただそれだけで、<独眼竜>とその手下たちの身体は凍り付き、言葉も消えた。それだけの空気が、“あの人”にはあったんだ。
“あの人”が店の様子を見て、そしてならず者の前で跪かされた張おじさんを見た。それだけで、“あの人”が剣を抜く理由は充分だった。
「殺ァァァァァ!」
それは人の物とも思えぬ、修羅のような狂気の叫びだった。当時の俺はもちろん、<独眼竜>もその手下も、人間がそんな叫びをあげるとは思ってもいなかっただろう。
その叫びの直後に一番近い場所に立っていたならず者の首が落ちた。“あの人”の左手に握られた鞘ぐるみの長剣が、抜き身となって右手に移ったのを認めて、ようやく何が起こったか理解できた。それほどの早業だった。
そのとき、初めて菅笠の奥に隠れていた“あの人”の目が露わになった。
なぜ「目が見えた」と言ったか。それは、顔なんか誰も見てなかったからさ。その目に籠っていた、狂気じみた激怒が全てだったからさ。
その目を見て、連中は段平をすっぱ抜いて斬りかかった。怒りや面子じゃない。殺さなければ自分たちが死ぬ。それがわかったからこその反射だった。だが、泣き声のような気合ごと“あの人”の長剣は切り裂いていった。長剣が右に左に風車のように閃くたびに、連中の段平を握った腕が飛び、垢じみた喉は切り裂かれる。
周囲には卓も椅子もあれば、柱も壁もある。上には梁だってあるし、両手使いの長剣を振り回せば刃先がぶち当たらないはずはない。
なのに、“あの人”の剣は、まるで目がついてるかのように周りの邪魔物を避けて、人の骨肉だけを切り裂いた。
「我は剣なり、剣は我なり」。<木蘭剣法>に限らない、剣の道におけるひとつの境地だ。
そんな境地に達していた剣法に狂気の激怒を乗せられて、田舎町のならず者が太刀打ちできる理由はなかった。
途中からは連中の中には跪いて慈悲を乞うた者もいた。だが、そんな相手も容赦なく“あの人”は斬り捨てた。店の調度品も壁も床も、奴らの血潮で紅く染まっていた。
「剣光一閃、また一閃。黄塵ついに紅塵たり」
これが <木蘭剣法>の絶技、<木蘭紅塵>だった。
その絶技がもたらした有様を見て、俺は震えていた。感動でも恐怖でもなく、怒り。直前までとは全く違う怒りに震えていた。
何の怒りか? 信じてもらえなくても良いし、何なら笑ってくれても良い。さっきまでこの店と張おじさんの尊厳を侮辱していた、このならず者たちが無残に殺されていくことへの怒りだった。
その<木蘭紅塵>が、手下を皆殺しにされた光景に失禁し腰を抜かし、もう命乞いの言葉も出なくなっていた<独眼竜>の脳天に振り下ろそうとされたとき、俺は飛び出した。
「やめろ!」
俺はそう叫んで、包丁で“あの人”の剣を受け止めた。剣の勢いと込められた“気”の強烈さは凄まじく、手の感覚が一発でなくなるほどの痺れが走った。だが俺は包丁を取り落とさず、<独眼竜>の頭も無事だった。
“あの人”は<独眼竜>から俺に目を向け、その<木蘭紅塵>を繰り出した。
右に左、そして右。容赦なんか微塵もなかった。何で我が身を護れたのか。自分でもよくわからない。たぶん運が良かっただけだと思う。
とにかく必死に俺がその剣を包丁で受け止め続けていたとき、床に這いつくばっていた張おじさんが叫んだ。
「やめられよ師兄! その子は梁 大人の忘れ形見だ!」
おじさんの叫びの意味は、俺にはわからなかった。だが、“あの人”にはわかったようだった。
“あの人”の剣はようやく止まり、そして床に放り出された。“あの人”は空いた両手で俺の両肩を掴んで、爛々とした眼差しで俺の顔を見た。
「梁二弟の息子が……生きておったのか!」
おじさんと“あの人”、俺の武術の方の師匠となる鉄剣が、俺自身の頭越しに理解しあっていた間に、<独眼竜>は這う這うの体で店から逃げ出していった。命拾いしたトカゲみたいにね。
その夜、役人たちに「店の人間を守るための手出しだった」という口実を――多分に血を啜った長剣に物を言わせて――押し通し、死体を片付けさせた鉄師匠は、張おじさんと一晩中話し込んでいた。俺はその夜は自分の寝床にいた。おじさんが、自分たちの話を決して聞くなと、怖いくらいの表情でそういったからだった。
だが、俺は一晩中眠れなかった。凄まじい光景と、自分の手で我が身を守った体験と、そしてこれまでの自分の日常が変わる予感のせいで、ひどく目が冴えていた。
次の朝、寝床から出てきた俺に、張おじさんはいきなり言った。「店は畳む。お前はこの達人について武術を学べ」と。
そして、こうも告げた。「お前の真の姓は梁、名は開心、そう父君から授けられるはずだった」と。
俺はその言葉を、自分でも驚くくらいにあっさりと受け入れた。また新しい、だが話には聞いていた、そんな世界への道が自分の前に開かれた。そのことがわかったからだった。
鉄師匠と共に江湖に足を踏み入れてから、張おじさんとは会っていない。それでも、最後の別れ際に「小心……小心」と、何度も何度も、俺の両肩を掴んでそう声を掛けた、涙ぐんだ眼差しだけは、今でも忘れていない。
「そこから先は、本当にありきたりな話さ」
リャンは一息入れてから、樽に座って話を聞いていたヤグローにそう言って笑いかけた。
「ティエ師匠と一緒に江湖を渡り歩き、その道中で<木蘭剣法>を仕込まれた」
ティエ・ジェンとの道中は苦労の連続だった。
ティエは決して悪逆の人ではなかった。むしろ義侠の精神を持った好漢だった。
武術だけでなく笛や書画についての手ほどきもしてくれた。激怒に流されないときのティエは、むしろ万能の才人と呼ぶべき知性豊かな男だった。
だが、「路に不義を見れば、剣を抜いてこれを討つ」という江湖に生きる義士の精神に対して、ティエはあまりにも忠実すぎた。そして、その精神の実行は<木蘭紅塵>による殺戮が前提だった。
「毎回毎回それを止めるのが俺の役割だったし、まともに稽古をつけてもらうより、そっちの方で剣法を覚えたくらいだった」
「なんだってそこまでして師匠の殺しを止めた?」
ヤグローが尋ねた。彼女の生きてきた世界、あるいは世界の大半の常識から言えば、リャンの行動は余計な苦労でしかない。
「さっき、ニワトリをシメる話をしただろ?」
リャンは神妙な表情を浮かべていた。その視線の先に、先ほどシメた店のニワトリの新鮮な肉がフックに掛けられ吊るされていた。
「へっぴり腰になりながら飼っているニワトリをシメてるうちに、俺は悟ったんだ。この世で生きていくということは、別の命を奪うってことでもある。だったら、食うつもりのない命を奪うというのは、間違ってるって」
師匠の流儀で悪を倒した後に残ったのは、いつだって怪物に向ける畏怖の眼差しだった。リャンにはそれが、たまらなく辛かった。師匠は決して血に餓えた怪物なんかじゃないとわかっていただけに。
だから、俺は殺しが嫌なんだ。リャンはそう言ってから、気分を変えるように掌で顔を撫でた。
「そうして何年か旅をしてから、昨夜も言ったように、滅ぼされたリャン一門の仇を討つための宝剣を手に入れろと師匠に送り出された。そしてカラ・トゥアから船旅を重ね、この町に流れ着いてからはマーフー親方の店で雇われ、大口亭でアイツらや姐さんと出会い、今に至るってわけ」
実際よくある話だろ、と笑うリャンを前にヤグローは酒瓶をあおり、そして尋ねた。
「昨夜は聞きそびれたんだがね」
「なんだい?」
「そもそもあんたの言う宝剣ってのはどんなもんなんだ? それにアンタの一門はなんで滅ぼされたんだ? おじさんや師匠とアンタの親父や一門とはどういう関係なんだ?」
「もっともな質問だ。俺も聞いてみたよ。だが何度聞いたって『時が来れば、宝剣を得れば、すべてはわかる』の一点張りだった」
チャンおじさんもティエ師匠も、リャン自身にまつわる秘密をいくつも抱えていた。しかし、それを明かすこともなく、何かの運命の流れに漕ぎ出させた。
リャンはそう言って肩をすくめた。
「ひどい話もあったもんさ」
「そのひどい話に、アンタはなんで付き合うんだ? 故郷から離れたこんな西の彼方にまできて」
ヤグローは酒瓶を脇に置き、両肘を膝に乗せてリャンの目をまっすぐ見てそう問うた。
「それは――楽しいからさ」
リャンは真剣な表情で、だが同時に口元に笑みを浮かべながら、迷いなく答えた。
ウォーターディープに来てから、リャンが退屈を味わったことなんて一度もない。
大口亭の名物である地下迷宮の入り口から怪物が這い出る騒動で今の仲間たちやヤグローと出会い、ホラ吹きヴォーロから幽霊屋敷を手に入れ、ドワーフの執事が番頭となり、鳥人が九官鳥じみた特性を活かした正確な注文を取り、エルフの占い師が客と同僚に助言し、屋敷の地縛霊は共同経営者の料理店になった。猫人や容貌を変えし者も加わった仲間との冒険は刺激そのものだった。
リャンは自分の父や家族がどんな人たちだったか、おじさんや師匠とはどんな関係だったのかはわからない。
でも、誰が欠けても今の人生はあり得ない。仲間やマーフー親方やヤグローたちも、それは同様だった。
運命に逆らい、拒み、否定していたら、こんな面々に囲まれた暮らしはあり得なかったはずだった。
「だから俺は皆に、そして運命に感謝してる。だから声を大にして言いたいんだ。『我的人生、開心!』、俺の人生、愉快だぜってね」
そう心から言うリャンを、ヤグローは眩しそうに見た。
「そうか、アンタが復讐しに流れてきたにしては暗いモンがないのは、そんな人生だったからだったんだね」
静かにそう呟くと、ヤグローは瓶の残りの酒を呑みほし、樽から腰を上げた。
「じゃ、その愉快な人生をこれ以上邪魔したくないから、アタシは寝なおすよ」
「また夜番にね」
リャンの挨拶と再開された包丁の音を背に受けながら厨房から自室に向かうヤグローは、自分の人生を振り返っていた。
それは、リャンと違って胸を張って「愉快だ」と言えるものばかりではなかった。オークの血筋は武術家としての資質と引き換えに、心休まる環境を生まれながらに剥奪していた。
混淆の活気に満ちたこの“壮麗なる都”にあっても、それは得られなかった。<黒蛇会>とて彼女に求めているのは武術家としての力であって、人格ではなかった。疎外感は、いつだって彼女の傍にあった。
飲み比べの最中に、ヤグローはそれとなく聞いた。飲むなら自分のようなオークの血が流れる大女より、北区のご婦人にすれば良かったのでは?
彼女の目から見て、容貌や人柄とカラ・トゥアにまつわるホラを交えた話術と、リャンは多くの女から好かれる要素には事欠かないはずだった。
そんなヤグローに対して、リャンはキョトンとした表情で答えた。
「あんただって良い女だよ? そうだな、こっちの言葉で言うなら、“ハンサム”っていうんじゃないかな」
俺は好きだよ、そういう人。ヤグローはそのリャンの言葉を「しゃらくさい」と一蹴した、ような覚えがある。
しかし、<ホース&タイガー&リフ>の開店時に、ヤグローを用心棒として招聘しようと提案したのはリャンだったし、共に店で暮らす他の仲間たちも満場一致で賛同した。そしてそれは、能力だけでなく人格や存在それ自体を受け入れてのものだった。
ヤグロー自身も、それを本心では理解していた。少なくとも黒蛇会の根城より<ホース&タイガー&リフ>にいる事の方がずっと長く、そしてここにいるときは疎外感を感じることがなくなっている自分には気づいていた。
「『我的人生、開心』、か。いつか、アタシも、そんな風に言える日が来るのかね」
迎え酒とともに血管を流れる仄かな希望が身体を優しく温めるのを感じながら、彼女は本来の自分の勤務時間が訪れるまでの間、再び寝床に入ることにした。
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