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欺瞞で葛藤を解決することはできない

政治的な話から始まるのはお許し頂きたいのだが、「君が代」が愛の歌であると主張する人たちがいる。その主張には理がないわけではない。というのも、この歌詞が国歌として選ばれるまでは、古今和歌集のなかの一つの短歌に過ぎなかったのであり、それを親愛の情を示す歌として解釈することも可能だからだ。

「君が代」が正式に国歌として定められたのは結構新しく、1999年に施行された国旗国歌法による。だが、それ以前にも「君が代」は国歌として扱われてきた。すべてを法律で決める必要はない。例えば日本の公用語は日本語だが、それを定めた法律はない。法律で決められていなくても日本の公用語は日本語であると皆が了解している。国歌についても同じで、1999年以前も「君が代」は国歌だったわけである。

「君が代」が国歌となったのは、明治政府がこの歌詞を選んで曲をつけ、外交の場面で国歌として使うようになったことによる。明治維新によって尊皇攘夷派が政権を握り、それまでの幕藩体制を否定して新政府を樹立した。新しい政府というものは、すべからく自らの正当性を確立しなければならない。明治新政府は王政復古を正当化しなければならかなかった。その政策の一つが式典曲としての国歌の制定だった。であるからして、元の和歌の意味が何であるにせよ、国歌の歌詞の意味は、天皇による治世が永遠に続くことを願うことであるのは疑いようがない。

太平洋戦争の敗戦によって日本は新しい憲法を採用したが、国歌は変更されなかった。「君が代」の歌詞に戦前の封建的、覇権主義的な日本の有り様を重ねて批判する人たちがいるのは理解できる。いまは国民主権の世の中なのだから、国歌をどうするのか――そのまま「君が代」を使うのか、新しい国歌に変えるのかは、国民が議論して決めれば良いことだ。イギリスのように君主制時代からの God Save the King/Queen をそのまま使っているところもあれば、オーストラリアのように国民投票で別の歌に変えたところもあるのだから。

それはともかく、元の短歌が情愛を示す意味だからといって、国歌である「君が代」まで同じ意味であるという主張には無理がある。これからは愛の歌として解釈しましょうという主張を真っ正面からするならともかく、皇統の永続を願うという解釈は間違いだと主張するのは歴史的経緯を無視した欺瞞であるように思われる。

僕自身は国歌の歌詞には特段抵抗はないのだが、そこに軍国主義的なニュアンスを感じて抵抗を持つ人の心情も理解できるし、歌いたくないのに上からの指示で歌うことを強制されたら葛藤が生じるのは当然だと思う。その葛藤を欺瞞によって解消することはできないはずだ。

ところで、当然ここではそんな政治っぽい話をしたいわけではなく、12ステップの話をしたいのである。

12ステップには「神」が登場する。この「神」は特定の宗教の神を指しているわけではない。12ステップを採用したグループ(AAとかアラノンとか)は、自分たちは宗教ではないと主張しているし、それは実際その通りで、宗教ではない。メンバーに対して特定の宗教的概念を押しつけられることはない。

しかし「宗教ではない」という言葉は、宗教的要素を一切含まないという意味ではない。むしろ、宗教的要素が多分に含まれていると言っても過言ではない。さらには、AAや12ステップの成り立ちを知れば、それらの本質が宗教的な(少なくとも宗教と共通性のある)ものであることは疑いようがなくなる。

それでも、宗教的要素を受け入れるかどうかは、メンバー個人の自由である。AAなどの12ステップグループでは、宗教的な概念や実践が目の前に提示されるが、そうした概念を受け入れるか、実践に取り組むかどうかは、それぞれの人の自由な選択に任されている。だから、まったくそうしたものを無視してAAライフをエンジョイすることも可能である。12ステップのことを無視する人たちもいるし、(国歌の歌詞の意味をまるで考えずに「君が代」を歌う人たちのように)祈りの言葉の意味を考えずに皆と一緒に祈っている人たちもいる。それはまるで神社に行ったときに、深く考えずに柏手を打って頭を下げるのと同様の気楽さであるが、それが不真面目だと非難する人は誰もいない。

そもそもAAとかは単なる任意団体であって、嫌ならやめちゃっても何も不都合はない。強制されず、やるかどうかは自発的な選択に任せるという原則が守られているのだ。だから、AAなどに宗教的な要素が多分に含まれていても、特に不都合はないのである。

ところが、12ステップや12ステップグループの宗教性を否定する人たちがいるのである。これはやはり欺瞞だとしか言いようがない。なぜなら本質に宗教性がある以上、それを否定しつつ人を誘い込もうとするのは欺瞞でしかないからだ。

僕自身は(過去はともかく今は)AAや12ステップの持つ宗教性に抵抗はない。しかし、「神」という言葉や、祈りなどの実践に宗教性を感じて抵抗を持つ人の心情も理解できるし、「宗教ではない」と言われても信用できないと感じるのも当然だと思う。

僕がその人たちに言ってあげられるのは、AAや12ステップの本質には確かに宗教的なところはあるけれど、宗教的な概念や実践を強制されることはなく、あなたの自主的な選択に任されているのは保証されている、ということだ。実際にAAに行って見れば、そこにいるのは敬虔さを微塵も感じさせない俗人ばかりであるから、僕の言葉が間違っていないことは実証されるであろう。

もしどうしても宗教性を否定したいのだったら、12ステップから神などの宗教由来の概念を取り除いた別のステップを作れば良いのだし、実際にそうしたステップを使っている団体もある(たいてい数は12個より少なくなっている)。それが真正面からの取り組みというものだろう。

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