RAFTができるまで。vol.28
~とーまさん編
靴屋さんでの先輩と後輩のそれから。続き。
そんなこんなでみんな辞めていくなか、これからを考え始めていた。
ボーナスはもらうとして💸笑
8月くらいに辞めようかなと。愛媛で野球しませんかの謎のオファーが来てて、2年くらいそういう生活もありかなぁなんて。愛媛の仕事とか見てみたりもしていた。
闇もいよいよ闇になってきていた、忘れもしない2019年6月2日。
3日の朝、想像を絶する連絡が入る。
あの日の朝の心境は今でも鮮明に覚えている。
前日、どうにかしてたら違う結果になってたんじゃないか…
スタッフ全員が泣いていた。
2日の夜、「おれ、ちょっとだけ売り場直して帰るから少し残るねー」と1人で残業していた先輩が帰りに事故にあった。
2日の夜、靴屋のグループLINEに「ここの電気の消し方わからないよー」というメッセージとムダなスタンプと。いつものやり取りがあって。
全員がいつも通りに返信して、いつも通りムダな笑いに溢れてて、返ってこなかったから無事に消して帰れたんだなくらいに思っていた。
全員があと1分早く返信していたら…とかあと5分遅く返信していたら…とか、売り場直すの手伝っていたら…とかどうしようもない後悔に襲われていた。
独立しようかなーの話もしていて、色々動き出そうとしていたときだった。
これから面白いことしようって毎日のように言っていたし。
訳が分からないし、「なんで?」ばっかり浮かんでいた。
展示会のシーズンで先輩のスケジュールはパンパンの時期。
どうにもならない放心状態で、詳しい状況も分からない中、お取引先様に1件1件連絡し、スケジュールの確認をして混乱しながらも冷静を装って1日が終わった。
終礼が終わって、解散したとたん、糸が切れたかのようにこれでもかという程に涙が溢れた。
人のことでこんなに涙が出るものか…という程に。。。
色んなことが頭を駆け巡るし、これからどうするかも考えないとだし、よく分からないまま朝が来た。
翌日からは店長、マーチャンダイザーしての先輩の業務もこなす日々。
メーカーさんに、こういうことやってもらってましたけど、引き続きやってもらえますか?とか。見えてなかった先輩の仕事の姿勢がいっぱいあった。
そんなことまでしてたんだ。とか。あの人はいつ寝ていたのだろう…と思いながら3ヶ月くらいがあっという間に過ぎていた。(あ!店で寝てた!!ダンボールの中とか脚立の上で!!笑)
元々すごい仕事してると思ってたけど、更に!!あの痩せっぽっちはどんだけ仕事してたんだ🤷♀️🤷♀️という尊敬が生まれた。
先輩の詳しい状況はわからないまま3週間位が過ぎた頃、お母さんがお店に来てくれて現状やこれからの可能性の話を聞く。
たくさんの管に繋がれてて見てて辛い…という話で。
「でもね、爪が伸びたりして…腕の傷も治ってきててね…生きようとしてるんだなって」
あー、頑張らないとな。先輩が戻ってこれる場所を守らないとな。
単純に、純粋に、ただ、そう思った。
そこからは本当に死ぬ物狂いだった。起きてる時間のほとんどを仕事に充てていた。周りが引く程に笑
1ヶ月半ほど経って、会社の社長と先輩に会いに行ける日が来た。まだ人工呼吸器に繋がれて話すことも出来なくて、とても痛々しい姿だった。
こっちを見て反応してくれていたんだけど、後々聞くと全く覚えてないとか…笑
それほど、壮絶な治療入院の時期だったんだろう。。。
お店は先輩の色を残しながら、精神を引き継ぎながら、新たな方法も模索しながら…また一緒に働ける日のことを思って打ち込んだ。。。
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今の先輩といえば、車椅子生活ではあるものの、おうちに遊びに行けばあの頃と変わらず馬鹿なことを言って笑わせてくれるし、あの頃と変わらないセンスで「鶯谷工務店」のオリジナルグッズを作り…。一緒にプロ野球を見ると2人でずっと解説して、相変わらず高校の頃のあの試合の何回の何球目の話をしている。
ヒロミさんが好きでDIYを始めたことをきっかけに、「八王子工務店」を模倣してキャップから始まりTシャツ、ロンT、サコッシュ、トートバッグ、ニット帽と色々作って周りに売り込んで楽しんでいる笑
そして、事故があってストップしていたスニーカーの企画を再開し、ブランドを立ち上げようとしている。
工場をどこにしようか迷っているところらしい。
志半ばだった事実は拭えないけど、また「靴」に向かい合ってお客さんに届けようとしている姿にパワーをもらい続けている。
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そんな事が裏にありながら、チョコプラの連勤記録(Yahooニュースになったやつ。笑)を抜き去り、とにかく走り続けた。
次回に続く。。。