RAFTができるまで。vol.27


~とーまさん編
靴屋さんでの先輩と後輩。

先輩は高校野球部での先輩であり、靴屋での先輩。

15歳の頃から知っているとなると20年以上の付き合い。

まさか高校の先輩と一緒に働くことになるとは…。

今となっては先輩の台東区愛に押されて台東区民になっている。笑




父親が好きだったから野球生活は始まった。
小学生の頃、チームの監督をしていた親父。本人はやったことのないのにめちゃくちゃスパルタ指導を受けたし、中学では部活だけではなく、クラブチームに所属して上を目指していた。

今となっては、させるスポーツ間違えたなー。他のスポーツだったら金になってたかもなぁとか笑い飛ばされるけど、またチームに所属して野球をやることになったという話をすると、試合が決まったら連絡しろと言ってくる。

進学する高校は野球をするために選んだ。

千葉の男子校。

死ぬほど怒鳴られ、結構投げ飛ばされ、汗水流して野球に打ち込んだ3年間。

甲子園を見ながらチアとか居れば、うちも甲子園いけただろうなーとよく言っている🤷‍♂️🤷‍♀️🤷‍♂️🤷‍♀️

先輩とはそこで出会う。

同じく東京から通っていた先輩とは帰り道が同じだったりでよく話すタイミングもあって、気にかけてもらっていた。

1年のときから内野手として同じフィールドに立つ。足を武器にした感覚人間の先輩のセンスでする野球が好きだった。

1番、センターの先輩が3年の春、練習試合の打席でデッドボールによる、怪我…。

春の大会は先輩の背番号「8」を着て外野手として試合に臨むことに…⚾
責任重大!!
そして、先輩の穴埋めを任された嬉しさと。

夏の大会には復帰して同じフィールドで全力で戦った。

未だに「あの大会の何回の打席の何球目であそこに打ててれば」とか「あいつのあのバントがどうだった」とか、鮮明に当時のことを話しているふたりをみると、やべーな。と思う。笑

「❶❷」のこの部分。↓↓↓
とりあえずギプスは取れたものの、ボールは投げられない日々が続いた。

フラーっと立ち寄った上野。
そーいえば、先輩、靴屋で働いてたよなーっていう感じで挨拶がてら覗いた靴屋さん。

丸坊主が茶髪になった野球部の先輩。
「こんにちはー。お久しぶりです!」

リハビリしながらのバイト生活をすることになった話をすると
「そうか。じゃあうちで働けよ」

…とまぁ、なんとも軽ーい形で靴屋生活が始まった。。。

それが、先輩との再会。

大学生の頃からその靴屋さんでバイトをしていた先輩はマーチャンダイザーとして、お店の管理をしていた。

再会のその翌年、チェーンだったお店が独立することになったりで、取引の条件面とか…また1から構築する。

上野に3店舗だけの小さな会社。最初の頃はお客さんだけでなく、どのメーカーさんにも相手にされず、売りたいと思った商品を全然仕入れられないし、話すら聞いて貰えない時期が続くも、高校野球で培った精神力でコツコツとアプローチを続け、何人かの営業さんの心を掴み、またそこから少しずつ人脈を広げ、商談をする為に結果に拘って仕入れと販売を行い売り場を作る。

そんな痩せっぽっちの背中を見て学び、誘ってくれた気持ちに応えるべく自分で勉強したり、先輩スタッフに聞いたり。シューフィッターや販売士の資格も取る。

売り場ではふわーっと立ってるだけに見せて、誰よりも仕事をしている人だった。

メーカーさんと靴の企画をしたり、シューフィッターとしてお客さんに寄り添い、足に合う靴選びをしたり。
リピーターさんは多く、信頼を得る接客をしていた。

インソールで改善出来ることもあるからとフリーのオリジナルインソールをハサミとカッターと接着剤で作り「これで楽になったら、ちゃんとしたこの形のインソール買ってください」とか。

店のテレビで甲子園を見てゆるゆるとしている隙間に、たくさんのお客さんとたくさんの足に向き合ってきた知識と経験をここぞとばかりに出してくる。

店のスタッフはいつもそれを見せられていた。

この売場(レイアウト)飽きたなと呟き、裏から大量にフックを持ってきてガラッと雰囲気を変える。

新しいレイアウトに変える時、いい靴がワゴンにはいるとき。笑

スタッフはそこが狙いだと知っていた。

「ふるいち、ここどうする?この順番でいいかな?」

「はまちゃーん、ここの隙間気になるからPOPで埋めといて」

「じょにー、これ、ワゴンにいくらだったら売れる?」

「とみー、来春、どの色ならいける?」

「やま、女の子はどっちが好きかな?」

数字にこだわり、結果を出し続けていた人だった。先輩が商品、店舗在庫を管理するようになってから前年比100%を切ったことがなかった。

スタッフの長所を生かし、得意なことやワンランク上の挑戦をさせてくれる。
売り場作りや商品選びにもオシャレスタッフの意見をどんどん聞く。

働いててとても楽しかったし、スタッフの連携もよく取れていた。
…連携を取れるように手助けをするのが「ふるいちの仕事」だった気もする笑

お互いに足りない部分がよく分かっていたつもりだし、少しの衝突もそれなりにあった。
でも、いいバランスで仕事が出来ていたと思う。

店側やお客さんだけでなくメーカーさん、代理店さんにもメリットがあるような売り方、買い方をしていて、小さいお店なのにいい商品がいいお値段で入ってきていたし、そのままのお得感でお客さんに提供することを徹底していた。

なので「特価商材が入ってくるよ」のタイミングも靴を買うタイミングだった。

そして、どんどん家の靴箱は足りなくなり、家の玄関は倉庫化していく。。。笑

「接客」にも熱のある人だったので、メーカーさんにお願いして商品レクチャー会を開いてもらうこともよくあった。たぶん、そんなこと靴屋さんとしてもなかなかない機会で、だからこそお客さんに伝えたい!!という気持ちのスタッフが育っていった。

買って欲しいよりは伝えたいという気持ちが先行した販売員を作り続けていた。

スタッフにはそれぞれに顧客がいたし、「他じゃ靴買わない」と言ってくれるお客さんもよくいた。

それが先輩が作ってきた靴屋さん。

そんな現場は楽しい靴屋さんの裏には大きな闇があった笑

それが原因でたくさんのいいスタッフが辞めていった。

そのたびに先輩は守ってやれなかったとか、もっとやり方なかったのかなとか悔しそうにしていた…。

いい雰囲気を作っても不可抗力で人の流出を防げない感じとかもあって、やり切れないなぁって部分もあったと思う。
靴の企画とかデザインとか色んなお取引先様と色んな仕事をして、いつかは独立✨✨って話もし始めていた。

その中にいつも、「ふるいちは役職何がいい??」「ちゃんと履歴書持ってきて!」とかいって、古市ありきで考えてくれてることが嬉しかったし、その気持ちには応えたいという気持ちで働いていた。

…長いけど、まだまだ続きそうだから、とりあえずここまで。笑

次回に続く。。。

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