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中年美大生だった私が卒業論文の調査段階で捨てるのは惜しかったアイデアを書きなぐって、実際にミニFM局をつくることになった話(1)

 平成最後にぎりぎり卒業いたしました中年デザイナの山口です。
 若いころに女だらけの美術大学の短期大学に受験勉強半年で滑り込み、就職活動せず卒業と同時に親のすねをかじりまくり約4年程英国の大学へ。その後、レコード屋店員や大手企業で英会話教材つくったり、3Dやったり、武士(趣味)をやったりと、はたからみると「(アッコのモノマネするMr.しゃちほこ風に)あなたは何をされている方なの?」という。学歴・職歴の経験だけは(たぶん)豊富だと自負しています。

 表題の「中年美大生だった私が卒業論文の調査段階で捨てるのは惜しかったアイデアを書きなぐって、実際にミニFM局をつくることになった話」は、中年美大生をやっていた2018年の卒業論文の資料を集めていた時に見知ったミニFM局という個人発信メディアについて感銘を受けたことに始まってます。

 1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害・阪神淡路大震災が発生したとき、私はBBCのニュースで流れる光景を映画を見ているような感覚で見つめていました。ホームステイしてたクリア家のダイニングの冷蔵庫の上にあった14インチくらいの古いテレビには、ぐにゃりと曲がり横たわる高速道路、もくもくと町を焦がす黒い煙。こんなのは信じたくなかった。登校すると校内で唯一の日本人だったので「ご実家は大丈夫?親戚は無事なの?」と異口同音に尋ねられまくりました(幸い、関西方面の親戚は被害に遭わず)。

 さて、その震災とラジオがどうつながるんだよ、という話ですけれど、震災がおこったのは1995年。みなさん、通信手段は電話とお手紙、そしてポケベルくらいでしたよね。携帯電話は高くて一般にはあまり持っている人は少なかった。持ってる人は家電の子機くらいの大きさでした。インターネットも「パソコン通信」をやっている秋葉原パソコンオタクのお兄ちゃん達のものだったと記憶しています。
 では、マスメディアは?新聞、雑誌、テレビ、ラジオくらいでした。余震、火事とライフラインが断絶した状態で得られる情報は限られています。テレビでは震災についての報道はあるものの、被災者がほしい情報は得られません(東日本もそれは同じだったと思う)。そこで活躍したのが電池でも動くラジオだと言われています。「いま」「ここ」にいる自分が欲しい情報をくれるラジオはライフラインでした。話は戻って、場所は神戸です。情報が欲しいのは日本人ばかりではありません。はい、ここで登場します、ラジオ、そして、ミニFM。有志がミニFM局「ヨボセヨ」を使って外国語放送をはじめました。そこから多言語での放送を始め、今日ではコミュニティFM局「FMわぃわぃ」として放送を続けています。普通は局側から総務省にお伺いをたてて開局となるところが、「郵政省近畿電気通信監理局(当時)から、ミニFM局ではなく、一定出力の放送が可能なコミュニティ放送局として認可を得るよう要請」されて、ミニFMからコミュニティFMへと昇格(?)しました。(https://www.itscom.co.jp/safety/column/011/


 ミニFMは微弱な電波で放送を流すので、総務省の許可はいりません。阪神淡路の時はその機動性と手軽さで人々を救ったことに、中年の私はとても感動したんです。震災23年後に知った事実でした。
 この素晴らしいエピソードは、すでにたくさんの方々が論文や本にしてるし、自分の卒業論文「若者のラジオ離れの時期と背景」の主旨から外れている(だからやめなさい、と教授から釘を刺された)ので、採用を見送ったのであった。

「あーでも、このラジオに関するエピソードをみんなに知らせたい!」

 そんな中、FBで見つけた「鉄工島フェス・アイデアジャンボリー」募集の告知。ジャンボリーには鉄工島(京浜島)内を見学し、(なるべく)その見学したことなどを咀嚼して作品に昇華することがベターとされていました。初年度に観客(クラウドファンディングのリターン)として参加した時に防災広場(普段は野球場)で防災キャンプが行われていたのを思い出しまし「これだ!」と応募しました。

 この制作物で大事なのは
★人力で何処へでも行ける。(車で行けない場所も人力なら!)
★電池駆動。できればECOだとbetter(野外からでもOK)
具体的にはリヤカーのような人が動かせる箱の中にスタジオを作るというアイデアをイラストにして応募しました。(つづく)



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