大学と専門の二刀流②

【大学から専門校に至るまで編】

前回の続き。
さっそく本題へ入るとしよう。
なぜやりたいことだけで生きていきたいと強く願い、叶えたいと思ったか。そのとある出来事について。
ここからは普段の僕の口からは出ないダークな内容が含まれます。
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ある日、友達がこの世からいなくなった。
驚きも悲しみも虚しさも悔しさもいろんな感情が溢れた末、
一周回って無になった。
小学校、中学校が同じで高校、大学は別々だった。
親友とまではいかないが、本当におもしろいやつで上京してたまの帰省のときにも遊んでいた。
一緒にいると僕も周りもたくさん笑っていた。
大学時代に彼が東京にいると聞いて何回か遊ぼうと連絡があったがめんどくさがりな僕は適当に予定があると流すこともあった。
今思うと悔いしか残らない。
なんであの時、どうして僕は。
そんなことばかりを考えてしまっていた。
お互い乃木坂46が好きでお互いの推しメンがダブルセンターを勤めた
「ひと夏の長さより」という曲は長い年月が経ってメンバーがたくさん入れ替わった今でも一番大好きな曲だ。
突然のことでお通夜に出られず、葬式のみの参列となった。
葬式には同じ大学でよく一緒にいた友達と東京から地元長崎へ向かった。
斎場に行くまでは普通に話していたが、車で向かっている最中にその曲を流し始めた途端、僕が涙が止まらなかった。
さっきまであんなに談笑していたのにだ。
それほどまでに僕の中では特別な存在だったのだろう。
葬式中のことは正直あんまり覚えていない。
ただ、僕以上に仲が良かった彼の親友が泣きながら弔辞を読んでいたこと。
葬式が終わってから「終わったね」とスッキリしたことくらい。

思えば彼は人生を凄く楽しんでいた。
正直、僕が引くくらい僕の家で騒ぐし、推しにはめちゃくちゃ貢ぐし、ハイブラマンだった。
けど本当に楽しそうで幸せそうで理解はされないだろうけどそれでも推しへの愛や魅力を語り、とにかく笑っていた。
僕は羨ましかったんだと思う。
と同時に僕は『本当にこのままの人生でいいのか?』『これで満足のいく人生だと言えるのか?』とまた自問自答を繰り返した。
だから僕は決めた。
「やりたいことだけで生きていきたい」と。

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【専門校に繋がるお話】


「やりたいことだけで生きていきたい」
これがあまくないし、誰もがそうできるわけじゃないしどれほど難しいことかくらいはわかっています。
撮影・編集、バイト、他にも僕なりにできることはいろいろやっていました。
月日が経ち、ある日、東海オンエアのサブチャンネルを見ていた僕はバンタンクリエイターアカデミー(以下、クリアカ)を知ります。
コメント欄では散々言われていたけどそんなものはどうでもよく、僕はクリアカについて調べました。
方向性と合っていたし、提携企業は有名企業が名を連ね、100%現役プロ講師というスタイルに僕は興味が湧きました。
編集を学ぶだけならYouTubeにいくらでも載っているけど僕が求めたのはそれだけじゃない。
一言で言うと「人脈」です。

当時の僕の頭の中は、
・僕がパーソナリティとして他のメンバー(バンタンでは学生をメンバーと呼ぶ)や講師陣と収録する。これによってネタが尽きることはほぼない。
・編集力も付くから普通のラジオとは違った色の動画を生み出すことができる。
・仮に数字を出せれば提携企業に対してアピールでき、さらなるチャンネルの拡大化が可能なのでは?

と、こんな感じだろうか。
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もちろんYouTube1本で生活するなんてことは想定していなく、編集案件でお金を稼ぐということも少しだけ視野に入れていました。
すでにそれらのイメージがあったのであとは行動に移すだけ。
ただここでいくつか壁が立ち塞がりました。
まず一つ目は親への説得です。
シンプルに学費の問題があり、大学まで出してもらっているのにさらに専門に行こうとするのだ。
うん、いいよ。で済むわけがない。
反対はあったものの僕の考えや想いを伝えなんとかクリアしました。
もう一つの壁は入学のタイミングです。
クリアカを知ってから入学までのスパンが短すぎました。
学費の準備の問題もあり、入学を1年遅らせることにしたのです。
なので本当は1期生で入学するところを2期生での入学に変更せざるを得なかったということがありました。
じゃあ、入学するまでのその1年間は何をしていたかって?
これからの話す内容とはまた別の話になるのでまた別の機会で話しましょう。
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別軸での入学までの期間は編集体験やオープンキャンパスなど参加できるイベントにはとにかく参加していました。
これにも理由があります。
まず、編集技術に関しては入学してから学ぶのと入学前に基礎を学んでおくのとでは入学してからの成長具合がレベチだから。
先にある程度押さえておけばわからない表現方法があったときの質問の質がかなり変わり、身に付くスピードも早い。
そして自分にとって1番の学びになるのがアウトプット
マウントとは思わないでほしいのだが、編集に関しては入学した段階で他よりも先に進んでいるから必然的に「教える」ムーブができる。
ということを想定していたのでとにかく編集体験には積極的に参加していました。
編集体験時は本当にわからないことだらけだったのが懐かしい。

そして「とにかく覚えてもらうこと」
これは入学してからのアドバンテージにかなり影響すると踏んでいたからです。
個人の意見強めですが、
例えば今見ているみなさんが仕事を振る立場の人だと仮定しましょう。
編集案件の依頼したいけど技量はみんな同じくらい。
こんなときみなさんならどんな人に仕事振りますか?
僕なら知った顔で人間性も理解していて、コミュニケーションもきちんと取れる。
そんな人だと思います。
ということはその人のことを覚えていないとこの考えにはならいのかなと思います。
先ほども言った通り講師は現役プロ講師で、
メンバーとは比にならないほどいろんな人と顔を合わせているので、その日のイベントで印象に残ったとしてもしばらくしたら忘れていることもあります。
だからこそ顔を覚えてもらうためにイベントに参加しまくっていました。
イベントが終わってからも先輩方や講師・広報の方と話す時間を作っていたのでそれも効果的でした。
という感じで入学までの立ち回りを長々とお話ししましたが、
狭い領域での口コミは絶大なことも理解していたので、顔を覚えてもらえていると立ち回りがくっそ楽でした。
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長くなりましたが、
僕の人生にとってのターニングポイントがいくつもあったのがわかったと思います。
とある出来事が僕を大きく変える”きっかけ”になりました。
「ひと夏の長さより」にはこんな歌詞があります。

”ひと夏の長さより
  思い出だけ多すぎて
  君のことを忘れようとしても
  切り替えられない”

おそらく本来の歌詞の意味とは違う捉え方ですが、
僕にとっては亡き友を連想させます。
ただ、このまま立ち止まってても何も起きないし何も変わらない。
そんな人生は僕が強く願い、叶えたいことからかけ離れてしいます。
だからこそ、僕にとって正しいと思う努力で結果を出すことがクリアカで求められることだと思いました。
もっと上手く伝えたいけど難しいね。

次回は専門校時代編です。

YouTuberではなくなぜ映像クリエイターになろうと思ったのか。
そのきっかけについてクリアカでの立ち回りとともにお話ししたいと思います。


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