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「憑依現象」に対する二つの視点

私は今、二つの本を読んでいる。

「夢とミメーシスの人類学(岩谷彩子)」と、「神に追われて 沖縄の憑依民俗学」だ。
 最初の本は、インドの商業移動民ヴァギリに対して、文化人類学的手法による調査を行なったその記録。
 二つ目の本は、神に憑依され、苦しみ、足掻き、やがて自分の道を見つけ出した「カンカカリャー」と呼ばれる「霊能者」達の伝記的著作。

 どちらの著作も、「神の憑依」が重要な題材として扱われている。

 移動民ヴァギリが宗教的儀式を行う際には、家長もしくはその親族にリネージ(氏族)神が憑依し、託宣を行う。

 沖縄県宮古島では、カンカカリャーと呼ばれる巫女(男性もいるが)にある種の神が憑依し、やはり託宣を行う。

 題材の構造はほぼ同じ、憑依現象だ。
 耳慣れた用語で言えば、シャーマン。恍惚状態になり、そこで訳のわからないことを口走る。それが、予言だったり、箴言だったりする。
 今の日本では、シャーマン的な存在を身近に感じることはないが、それでも色々なフィクションやネット記事を通じて、知識はある程度持っていると思う。

 だが、現象の構造は同じだが、アプローチの仕方が全然違う。

「夢とミメーシスの人類学」は、「憑依現象」が「実際に神が憑いているのか、それとも手品のようなフィクションなのか」は問わない。それよりも、「憑依現象」が、ヴァギリ達や、多数民族のタミル人達との関係をどのように変化せるのかに注意を払っている。
 つまり「憑依現象」が「社会の中でどのような機能を果たしているのか」が問題とされていているに過ぎない。

 一方「神に追われて」では、憑依現象はもっと生々しく描写されている。憑依は人と社会をつなぐ「装置」などではない。神が降ってきて、人生を狂わせ、あるいは人生を救い、また多くの人々を救う「生きた信仰」として描写されている。

 実は、私も小学生のとき、「カンカカリャー」のような経験をしている。「神」を名乗る男が脳みその中に入り込み、色々な命令をしてきた。どこを歩けばいいのか、コップを洗う回数、歯の磨き方、等々。
 だから、「神に追われて」を読んだ時、似たような経験をした人たちが登場し、非常に驚いた。

 だが、私は「神」の声を無視し続けて、今に至る。
 それが正しかったのかどうか、分からない。今は仕事や家事育児が忙し過ぎて、神どころの話ではない。
 それでも、人生のある時期、私は「神に追われて」いた。

 だから、「憑依現象」を客観的に見ることなどできない。
 それは、少なくとも私にとっては、自己の体験として、生々しく思い出されるのだ。

ちなみに、これは、少年時代の憑依現象をイメージして描いた絵だ。

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