実話怪談 野寺坊
かつて、わたしは横浜駅の近くにある美術スクールに通っていた。
何とか絵が上手くなろうとあがいていた、2018年ごろ。
急いでいた。
仕事も、今の奥さんになる人との付き合いもあり、少しずつ絵を描く時間がなくなってきていた。
仕事を辞め漫画家としてデビューしたいと思っていたが、全くうまくいかず、苦しんでいた。
デッサンに打ち込んで現実逃避している時間が救いだった。
ため息をつきながら万里橋付近を歩いていると。
その人がいた。
一目、僧侶かな、と思った。
だが、着ている服はボロボロ、肌は垢で真っ黒だった。肩からは巨大な数珠をぶら下げている。
彼は、運河に向かって、ずっとお教のようなものを唱えていた。完全に一人の世界、彼の頭の中だけの劇場が、この辺りに展開しているのだ。
そして、運河の神に向かって、何かを祈っているのだ、そう思った。
ホームレスと呼ぶにはあまりにも独創的すぎた。おこもさんとか、虚無僧とか…。
いや、もっとも彼を表現するのにふさわしいのは、野寺坊、だろう。
顔も、野寺坊そっくりだ。
特に悪さをするでもなく、自分の世界で満ち足りて、何者かに祈りを捧げる僧侶。世間では彼のことを狂人と呼ぶのかもしれないが、案外彼が祈りを捧げているから、大災厄を免れているのかもしれない。そう思う。
生きるために仕方なく働いているわたしは、何だか彼がうらやましくなってしまった。