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神のなさることは、すべて時にかなって美しい

好きな聖書箇所だ、とパッと思った。

洗礼を受けたい、と思うようになってからというもの、神様の言葉がよく耳に残るようになった。

洗礼とはなんぞや、とか、え?クリスチャンになるの?とか、疑問やツッコミは沢山あると思うけれど、それはいつの日かちゃんと記事にまとめるとして。

そう、実は数日前から、洗礼に向けての準備を始めている。日付は12月23日。この日に、私はクリスチャンになる。

だけど、重要なのはそれだけではなくて、きっと今のわたしに出来るのは、ノンクリスチャンがクリスチャンになるという一つのステップにおいて、一体自分にどんな心境の変化があるのか、どんな風に感じるのかを、ひとつひとつ、丁寧に残していくことだと思った。

1日目の今日は、教会で、以下のことを学習した。

・聖書について
・神の存在について
・人間の罪について

中でも人間の罪についての箇所が、1番大変だというふうに感じた。

ノンクリスチャンである私が、自分の存在自体を罪と認め、そして自分の行いに対しての罪も知り、それを悔い改めること。

今まで当たり前に行っていたことが、神のなさることの前では罪と知ること。

洗礼に向けて準備をするということは、自分のこれまで行ってきた罪について、深く、深く、向き合うことだと思った。

家に帰ってきて、そのまま倒れるように眠りについた。

目が覚めて、風に当たりながら、夕陽を見たいな、と思った。けれども飽き性の私は、ひとりでふらっと海に出かける用事もなく、再び眠りにつこうとする。

そこで、着信がなる。友達から、今すぐ海に来れないか?とのことだった。

神様に呼ばれている

なんとなく、そんな気がして外に飛び出した。夕陽は、いつもみている景色の方が綺麗だったかもしれないけれど、外に出れて、風を感じて、仲間のいる海に行ける。そんな当たり前のことが、なんだかどうしようもなく、幸せに感じた。

みんなでバレーをしたり、外で喋ったり、少ししてから携帯をふと見る。

あなたのことを祈っています。

クリスチャンの友人からのメールだった。
洗礼を受けると決めてから、幾度となく、クリスチャンの方々から、惜しみなく、頂くこの祈りの言葉が、わたしは好きだ。幸せな気持ちになる。

どんなに遠く離れていても、この世界に、自分のことを祈ってくれる存在がいる

それだけできっと、どんなことでも私は頑張れると思った。

眠りにつく頃、携帯を引っ張り出してこの文章を書きながら、今日1日についての考えを巡らせる。

やはり、ノンクリスチャンがクリスチャンになるために、乗り越えるべき試練は幾度となくある気がする。けれど、それらはすべて、神の計画によって行われることだと思った。

わたしたち人間が想像できる範囲を超えて、その計画は、私達が知る余地もなく、もはや、もっと大きな偉大な計画のもとに行われているのだから、私自身がこれ以上、うじうじ考えたり、悩んだり、立ち止まったりするのはやめよう、と思った。

自分の罪についても、そうだ。

起きてしまった事は、仕方ない。今更、過去には戻れない。それを罪と認める時、あなたを罪人として裁けるのは、教会でも牧師でもなく、神様であって、それは人ではない。

だから、人の言葉や人の言動に、振り回される事はないのだと思った。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい

今目の前にある課題に苦しんでいても
神様のなさることはどんなことも、すべて時にかなって美しい。
だから、苦しみの中にあっても、信じて歩んでいくことが、何よりも大切だと感じた1日目。

あしたはどんなことを学ぶのだろう
どんな風に思うのだろうか

疑問や質問、戸惑いや不安まで、しっかり残しておこう。いつの日か、同じように、洗礼を受けたい、と思うノンクリスチャンに出会う時、きっとこれを読むといいよ、とこのノートを渡せるように。

洗礼式まで、あと3ヶ月。どうか無事に、神様のご計画が実行されますよう、祈っていただければ幸いです。



あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。