クリスチャンになって、良かったこと
友達とクリスチャンになって、もうすぐ1年が経とうとしているなぁ、という話をしていて、ふと「クリスチャンになる前と、なったあと、変わったことはなんだろう」という議題になった。
そういえば、最近、そんなふうに神様への信仰について深く語ることがなかったなと思いながら(そもそもクリスチャンの人に会うことが久しぶりだった)、この1年の自分を、見つめ直すことにしてみた。
去年のちょうど今頃は、洗礼を受ける一ヶ月前で、平安の中に身をおいていたようにおもう。神様って本当にすごいので、「洗礼を受ける」と決めた其の瞬間から、溢れんばかりの恵みをめいっぱい受洗者に降り注いでくれる。その恵みをたくさん受けて、本当に幸せな日々を過ごしていた。
12月は、洗礼を受けた月で、不思議なものでちょうど其の頃はサタンの攻撃を受けながら、めちゃくちゃに苦しい日々を過ごした(これ、クリスチャン界隈ではあるある、らしい。この話はまた今度)あのときの苦しさといえば、なんとも言葉で表しづらいけど、まぁでも、もう一度は絶対経験したくないな、と思えるほどのしんどい気持ちを、洗礼を受ける直前まで感じていたように思う。
そんな12月23日が、私の受洗記念日になるのだけれど、そこからの1年は、まぁ「ひなどりが外の世界を知っていく」その第一歩になったかなと思う。やった活動を数えてどうこう…というのはあまり好きではないので、実績はおいて、一応マインドの話をすると。
神様という存在を知ってから、私はやっぱり、少し変われたのではないかと思う。苦しいことがあったとき、目の前にある苦しさだけではなく、それを起こした「意味」を考えられるようになった。
「神様は乗り越えられられない試練は与えない」とよく言うけれど、本当にそのとおりで、私達が日々受けるいろんな出来事は全て、神様からの試練だったりする。その試練をただ「辛い」と受け止めるのではなく、そこにどんな意味があるのかを考えられるというのは、例えば自分に意地悪をしてくる人に対しても、どのように向き合うべきかを教えてくれる第一歩なのだ。
完璧にできない、という声もあるだろうし、もちろん私だって、目の前に意地悪な人がいたら、今でもすごく悲しい気持ちになる。誰かに対して腹が立つこともあるし、もやもやした気持ちを吐き出せないまま、ため息をつく夜だって超えてきた。
だけれども、そこに「意味」を考えられるだけで良い、と思う。それを実際に行動に移せなくても、そのことによって神様に祈れるようになる、とか、その意地悪な人の背景を知ってあげようという気持ちになる、とか。
とにかく「むかつく」「悲しい」「辛い」というマイナスな気持ちや感情になる人や出来事にも、何かしらの意味があると考えられるようになった。だから、その気持に負けそうになることはあっても、その出来事に負けることは、ない。
そして、神様を知る前よりも、一人で全てを抱えなくなったのも変化としては大きい。
昔は起こる出来事はすべて「自分」に責任があると考え、落ち込んでいたけれど、自分に責任があることなんて本当はなにひとつない。神様との信頼関係の中で、祈る中で、自分は尊くて、尊い、ただひとりの神様の愛しい子供であると祈る中で、自分で自分を責めるようなことはしなくなった。
ある意味神様任せ、ということになるかもしれないが、でも本当にそうなのだから、それでいい。何があっても、神様は自分と共にいるということがわかったから、私は一人ぼっちじゃないんだと思えるようになった。
最後に、よく笑って、よく泣くようになったな、と思う。
実は、神様を信じ始める前の私は、なかなか人前で涙するということができない人間だった。泣くことはかっこ悪いと思っていたし、泣き方すら忘れていたような私が、教会で賛美歌を歌っているとき、自然と涙があふれるようになった。それは別に「泣きたい」という意思がないときでも同じで、自然と祈りの中で、本当に真理を知る中で、哀れみと慰めの恵みを受けるとき、涙が止まらなくなるのだった。
よく笑って、よく泣く。それが一番、人間らしい。
そんなふうに一年を過ごしてきて、「人間らしい」生き方ができるようになったと思う。ひなどりが一歩ずつ、大地を踏みしめて前に進んでいくその最初の一歩としては、すごく嬉しい変化だった。
クリスチャンになったおかげで?本当に?という人、ぜひ救われてほしい(笑)私みたいな経験をした人っていっぱいいるから(笑)たくさん色んな人の話を聞いて、本当に?と思う人ほど、いっぱいいっぱい、神様からの恵みを受けてほしいな、と思う。
そんなこんなで、今は福岡にいます。沢山の人の祈りや励ましの声、いつも本当にありがとう。全部、ちゃんと届いてるよ。
これからのビジョンについては、またどこかの記事で。
いつも心に平安がありますように。アーメン。