「語りえぬものについては、沈黙するしかない」

これは、ドイツの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが著した「論理哲学論考」の最後の一説である。この一文は、著者の思考潮流と合わせて解釈される。私の考えも、ここで述べてみたいと思う。


一般的な解釈

ヴィトゲンシュタイン、特に「論理哲学論考」を著した前期のヴィトゲンシュタインは、言語というものは実在のものと対応して存在していると考えていた。だから、この著名な一文に関しても、「言葉は、それぞれ現実の事柄と対応して意味を持つ。だから、抽象的・形而上的な言葉は、それに対する現実を持たないため、語ることはできない」というような解釈がなされる。

言葉の意味とは?

現実・非現実問わず、この世に存在しうるすべての事柄を、何か綿菓子やスライムといった不定形なものの一塊であると考えてみる。無意味な音の連続が意味を持つとき、つまりは新たな単語が生まれるときは、この意味の一塊の中からその単語が表す部分を切り取って生まれると考えられる。これが繰り返されて意味の一塊は細分化されていくわけだが、意味の一塊は無限の大きさを持つ。時代が経るにつれて新たな若者言葉が生まれるわけだし、新たな研究や芸術によっても新たな概念が生まれるからだ。しかし、意味の一塊が有限かどうかは、大きな問題ではない。新たな単語が生まれるとき、意味の一塊は、「新たな単語の意味」と「それ以外」に分けられる。意味の一塊が無限であるとするならば、「それ以外」は、無限の大きさを保ち続けるし、有限であるとするならば「それ以外」は無限小の大きさに近づいていくだけだ。意味の一塊が、「ある意味」と、「また別のある意味」とで二分されることは決してないのだから、意味の一塊は消滅しない。

「語りえぬもの」とは?

「語りえぬもの」、すなわち「語ることができないもの」である。意味の一塊を考えると、語りえぬものとは、まだそれを表す言葉がない「それ以外」に該当しないだろうか。存在する言葉はすべて、それぞれにその意味を有するわけであるから、「語りうるもの」であろう。反対に今それに対応する言葉がない「それ以外」は、確かに存在しているだろうがそれを表す言葉は存在していない。だから「語りえぬもの」である。

「語りえぬものについては、沈黙するしかない」

語りえぬもの、すなわち、それを表す言葉のないものについては、それを表す言葉がないのだから沈黙するしかない、ということである。

後記

私は、哲学徒でもないし、論理哲学論考を熟読してるわけでもない。ドイツ語が堪能なわけでもない。この一文だけをよく目にして、この一文からでは推し量れないような解釈がたくさんあることに疑問を抱いていただけである。

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