Syamu復活騒動から社会保障社会福祉を受けたがらない弱者について考える
※今回はより多くの人に見てもらうためにアライさん界隈口調はなしなのだ。
最近、一部界隈での人気を集めたyoutuberが復活した。その名をSyamu_gameという。人気を集めたと言っても彼の活動が評価されたのではなく、むしろ滑稽に見えたり世間知らずな言動を眺めて嗤い合うという陰湿な界隈から目をつけられただけである。異性への執着が激しい性格を利用されて晒されたのち2014年引退。2019年再デビューを果たすも彼の自己中心的な性格はより悪化しており、面白がって見ていた層もそっぽを向きやがて消えていった。そして2022年、再び復活を果たしたのだ。
悪人に利用され続ける弱者
彼を一度目の引退に追い込んだのはオフ会0人報告動画を見て面白がった例のアレ民、そしてネカマである。
一度目の復活では「代理人」を次々と交代し東京を放浪したが、そこでもいじめ同然の扱いを受けたりしていた。そして今回は全国ニュースにもなった迷惑youtuberへずまりゅうが後援となっている。少なくともへずま氏が純粋にsyamuを応援したいからと衣食住をサポートしてるわけではないことは自明である。
彼は一般常識やコミュニケーション能力が著しく欠如しており、例のアレ民からは侮蔑の意を込めて知的障害者と呼ばれていた。こうした言葉の使い方は私は大嫌いだが、実際彼は今回の復活後にあげた動画にて「B型作業所に週一で通ってた」と明言している。行政による認定区分や障害の種類は不明なものの、医療関係者がサポートを必要とすると認めた存在なのは事実であろう。
欲望と自己愛の亡者は誰も擁護しない
しかし、syamu_gameを庇い彼を支えようという人は私の観測範囲では皆無である。障害者差別という大きな概念から不快感を示す人はいても、syamu本人には誰も味方はいない。ひとえに彼の言動によるものである。
格下と判断した者には強く出る
格上と判断した者にはダンマリする
自分の能力を過剰評価するだけに留まらず、その尺で他人を見下す
過失を注意されても反省の態度がなく同じことを繰り返す
女性に異常なまでの執着を示し危害を加えようとする
こうした彼の性格については、旧来の例のアレ民から「発達・知的障害によるもの」とみなしがちであり、そしてそれも含めて嘲笑してきた。最も今回の復活では「笑えないラインとなった」などの理由で離れる人も少なくない。
これに対し嫌悪感を示しているのが最近syamuを詳しく知った人、それも障害当事者や家族、社会保障社会福祉に長ける人々である。
「syamuだけを見て障害者の本質がこれだ、なんて言わないでほしい」
「syamuの性格が悪いだけであって障害者を差別する言い訳をするな」といったものである。
どちらにせよ「syamuの言動は極めて自己中心的であり、嫌悪の対象である」という認識は両者共有しているようだ。
syamuは福祉では救えないのか
syamuの逸脱は復活の度に悪化しており、今回は特に「社会福祉につなげるべきだ」という声を多く耳にする。しかし社会福祉に長ける人ほどこの問いにはNOと回答している印象を受ける。
それはsyamuがB型作業所を「地獄」と表現し、何度痛い目を見ても動画配信をやめないからだろう。救いの手を払い除けた以上、彼の愚行権を侵害するわけにはいかないという立場だ。
私はその結論を出すには時期尚早と考える。人間関係の不和や労働の種類により作業所が合わない当事者はたくさんいる。そうした人は別な作業所を探す、作業療法以外のアプローチで社会復帰を目指すなど色々な方法が取れたはずだ。悪化する自己中心的な言動から見て心理療法も禄に受けてないのだろう。もっとできることがあったのに…と分野は違えど社会保障社会福祉に携わるものとして悔しさを感じる。
もちろん、福祉関係者だけの責任ではない。そもそも彼が早めに障害受用できていればこんなことにはならなかったのである。大阪府内偏差値最低の高校に押し込んでまで彼を「普通だ」と言い張った親はその贖罪を果たしていない。病院には連れていったものの丸投げし、syamuの福祉アプローチに対する訴えに耳を貸さなかったあるいは言わせない空気を作り出していたとしか考えにくい。こうして親にも福祉関係者にも心を開かず引きこもりで孤独なままのsyamuはインターネットの悪人を選び、そこでの指摘にも「自分は、知的障害者ではありません」と言い張り玩具化に拍車をかけたのである
救いを拒む弱者にどう向き合うべきか
救いの手を払いのける弱者は私も知っている。生活保護を拒むホームレスだ。彼らは「体が動くうちは」と社会保障を拒み、空き缶を小銭に変えながら冬も寒い路上で寝ている。なぜ拒むか、長い路上生活でコミュニケーション能力が衰え、ケースワーカーや同居人とトラブルになるからという理由もある。だがこうした人たちに共通するのは「自分たちは保護受給者と違い自立している」という他人を見下しての自己愛である。syamuの「能力を過信し格下と判断した者への横柄な態度」にピッタリ重なってしまうのだ。
「変わらなくても」福祉につなげるだろうか
こうした人たちへのアプローチは「声をかけ続ける」ことだ。路上生活を続けるにしても食事や生理的なもので支援を必要とするので交流は続く。そこで見捨てないことで彼らが頼りたいと思った時にすぐ対応できるようにする。
syamuの動画配信を止めされる権利は親や福祉関係者にはない。でも彼が通院を続けていたら、訪問看護を受け入れていればまだ可能性はあったのではないかと思う。
私は今まで彼らに「変わること」を期待していた。声をかけ続けることで「考えを改める」と思っていたのだ。実際そういう人も少なくない。現役時代自己責任論を振りかざしていた人も「間違っていた」と頼りにきていた。
では、考えが変わってなかったら?syamuは金銭的な支援を受けても、食べ物を奢ってもらっても当たり前のような顔をして「ありがとう」も言わずヘイトを稼いできた。
彼が今までの言動を反省することもなく福祉の力を借りようとしたら?と考えてみている
私は国民の当然の権利である福祉を受ける権利について、対象者に反省や改心を期待していたことを実感し、恥ずかしくなってしまった。当然の権利が保障される世の中でありますように。