
『求道のマルメーレ』 #23 最終話 第七編 雨後の道の先(六)
第七編 雨後の道の先(六)
血が通っていなかった心に、人を信じようとする気持ちが流れて痺れるようだった。全て見過ごしてきていた。愛は存在しないから見つからなかったんじゃない。私が拒んだから、見えなかっただけだった。寄り添おうとしてくれたものを、私は今まで当然のこととしてあしらってきたのだ。
川のせせらぎの中に、再び空色の渦が見えた。黒刃を包んだ水の上で、いくつもの雨粒が虹色のビー玉のように転がった。碧眼が潤んで、右目を塞いだ血を洗い流す。
そうして告げるべき言葉は、選ぶまでもなく自然とこぼれ出た。
「……黒刃。長い間、待っててくれてありがとう。今までずっと、愛してくれてありがとう。」
やっとわかった。ただそこに在るということ、存在を許すこと、それこそが愛だ。真実の愛に満ちた楽園は、初めから私と共にあった。鋼の両の目から温かい雫があふれ出す。
痺れていた心は、鋼にちょっと息を詰めさせて、ようやくその言葉を口にすることを許した。
「私も君を、愛してる。」
そう言って口付けると共に、鋼の右の手首は切り裂かれた。溢れ出た血液は水に受け止められて、いつかと全く同じように黒刃の傷口へと注がれていく。だが鋼はもう、自分の出血量を測らなかった。なんとなく、そんなことはもうどうでもいいような気がしたのだ。すでに死んだ身であるというのに、自分の器の中とか外とか、そんな大して意味のないところに線引きを作る必要を、鋼はもう、あまり感じていなかった。
「帰ってきたかったら、いつでも帰っておいで。私はいつまでも、君の居場所を開けておくから。」
黒刃の体にわずかながらぬくもりが蘇ったのを確認すると、鋼は彼に微笑みかけて立ち上がった。そして手首の傷から血を滴らせたまま、それを気にもかけない様子で踵を返した。
雨粒たちが形作った『雨蛙』に支えられて、足が一歩前に出る。踏みしめた大地は足をそっと押し返した。勾配を登る感覚のない脚を、水と土が握ってくれるから進んでいける。分かっているつもりでいたその感触が、さらなる高みへと鋼の体を押し上げていく。
「愚かな王子だ。いまだに戦わなければ何も得られないと思っているな。戦って守れるものなど何もない。君はひたすら失うだけだ。」
サンドラの冷たい声が、やや遠方から風に乗って届いた。フエゴは肩で息をしている。
「情動がだめなら、次は君にしよう。理論なら彼女は動くと、君もそう思うだろう?」
高い方を見上げて歩を進めながら言うサンドラとの距離は、音もなく、だが徐々に詰まっていく。フエゴは低い声で言い返した。
「王不在であろうと継承者は生まれる。ニェフリート陛下が今更、対になった男女という固定観念にとらわれて愚行に至るとは、私には到底思えぬがな。」
強く蹴り掃われたらしい片足を引きずって、フエゴが山の上へ後退っていく。それに向かって、サンドラは大人の男のような乾いた笑い声をあげた。
「では、君の次はエーテルにしてみようか。僕だって神が絶えることは望んじゃいないが、ニェフリートがそんなに頑固なら仕方がないかもしれない。果たしてエレメント神の存続にかかわる脅しを受けた時、彼女は何を取るのかな?」
サンドラはそう言うと、今度は少年のように笑っている。息を詰めて奥歯を噛み締め、フエゴはわなないた。
「外道が……仮にも女王であったことがあるのなら、これ以上その位をッ——」
その瞬間、怒気のこもったフエゴの声が止まった。フエゴと対峙していたサンドラが、頭だけでゆっくりと振り返るのを感じる。立ち止まった拍子に、獣の影と両腕が揺れる感覚があった。吹き付けた山おろしに、伏せていた目を開く。
開かれた瞳は、その瞬間、眩しいほど鮮烈なシアンブルーを辺り一面に振り撒いた。きめ細やかな肌の上に、鮮血が脈動に応じて流れ出ている。光背のように背負われた太陽の輪が、鋼の周りで波打つように舞う水滴の表面を照らした。その様は威風凜然として、まさに神と称するにふさわしいほど神秘的だった。
「……ようこそ、神の世界へ。」
息を呑んだ直後、サンドラは溶けるような声でそう呟いた。フエゴがその背中に向かってマキリを抜くのを、鋼が手を上げて制止する。サンドラはそれをさして気にも留めず、その場に膝をついた。
「さぁニェフリート。我らが無慈悲な水神よ。救いの呪言を仕わせたまえ。」
そう言ったサンドラの両腕が、縋るように前へ出る。だが、鋼はただ目を伏せて、いたたまれなさそうに口を開いた。
「すまない、サンドラ。……私はまた、大きな間違いを犯したんだ。」
鋼はそう言っただけで、特に何をするでもなく立ち尽くしている。次第に掲げられたサンドラの腕が下がり、肩が落ちた。サンドラの落胆が怒りにすり替わるのは一瞬だった。
「間違いを犯した?……いいや、君は今まさにそれを継続しているじゃないか。なぜ責務を全うしないんだ。未来を変えることは、君が過去の君自身にできる最大の償いだろう。」
そう、眉を寄せて詰め寄る。だが鋼は少しも動じずに返した。
「違う。一番の償いは寄り添うことだ。愛することなんだよ、サンドラ。」
サンドラの表情が怪訝に染まる。鋼はそれがあまりきちんと見えていないのか、当たり前のことのように続けた。
「私は母女王を殺されて、ハイラを許そうとした。それなのに、黒刃を傷つけられて、君を殺そうとした。それは贔屓だ。愛なんかじゃない。私は黒刃を正しく愛するために、君を許そうとするべきだった。」
鋼がそう言って詫びると、サンドラの額は見る見るうちに赤くなった。その表情はまるで、暴力性と臆病さに苛まれた夢の中の少女のようだった。サンドラは唸るように低い声で抵抗した。
「君はそうやって、かつて己が抱いた恨みや憎しみを、正しくないからと言って否定するのか? 愛する者を傷つけられておきながら、許すべきだからと泣き寝入りするのか? そんなことをしたって、劣等種どもはつけあがるだけだ。君の許しをありがたく思ったり、それを受けて償おうと思ったりはしない。」
強く振り捌かれた手袋から、工業油の臭いが漂う。サンドラは肩をいからせて鋼を睨みつけていたが、対して鋼は苦笑した。尋問の時と正反対の状況に、サンドラは若干うろたえるように眉を痙攣させる。
「そりゃあみんな、物事を都合よく解釈して利用するものだよ。長く生きてきた私たちからしてみれば、生きている人間は皆、未熟なはずじゃないか。かれらは世界を正しく知らないだけだ。見えないところにも命はあるんだって、愛はそこら中に溢れているんだって、知っている私たちが教えてあげればいい。かれらには変わる猶予があるけど、すぐに変われるわけでもないんだよ。誰かを思いやる方法を知らないで生きてきた人々に、今すぐ変われないのなら死ぬべきだっていうのは、ちょっと乱暴なんじゃないか?」
苦笑したまま小首を傾げると、鋼は息を継いで続ける。
「この世のどこにも、根っからの悪人なんていないさ。みんな臆病なだけなんだ。君だってそうだろう? 君が先代水神女王やテオドロ陛下を殺したり、黒刃を傷つけたりしたのは、君が悪人だからじゃない。追い詰められていたからだ。私たちが君に寄り添わなかったからだ。君の目的は、誰かを傷つけることなんかじゃあないんだ。……だから君には、許そうとする心を受け取る権利があると、私は思う。」
ゆっくりと話す鋼に、サンドラはじれったそうな表情を浮かべていた。地団太を踏み出しそうなほど、忙しなく体を揺すっている。鋼は、いつだか感じたことのある耐えがたい焦りをぼんやりと思い出して、サンドラを哀れに思い始めている自分に気が付いた。
「君は、何をそんなに焦っているんだ、サンドラ。教えてくれ。水神の呪いなんかに頼らずとも、何か別の方法を見つけられるかもしれない。」
そう穏やかに尋ねると、サンドラはしばらく苛立たしそうに口元を力ませていたが、ふと、その力を抜いた。それでもなお、その瞳には毒々しい憎悪が宿っている。だがそこには同時に、焦りによる心もとなさも存在した。憐憫の情が膨らむ。
「……本来、循環に存在しなかったものを、劣等種どもは他に捨てるところがないからと言って、自分たちの目に入らない海や大地の下に押し込んだ。だが、薄めようが細かく砕こうがゴミはゴミだ。大して害が見当たらないことが分かったからって、雑排水を薄めて注射する愚か者はいないだろう? だが劣等種どもは、そんな分かり切った愚行を物言わぬ自然に押し付けて何も感じていない。それどころか、見えないところに押しやったゴミが、他の環境にどういう影響を与えているか知ろうともしない。」
サンドラは苦しそうに眉を寄せて、縋るように続けた。
「わかるだろ? 神が異常に早く衰えていくのは、ほとんど全部人間のせいなんだよ。もう限界なんだ。このまま劣等種が数的有利である状況が続けば、いずれ神は継承者が育つより前に朽ちるようになり始める。次の世代の時にはすでに手遅れかもしれない。もう猶予はないんだよ! この代が絶対防衛圏だ。この代で諸悪の根源は断つべきなんだ。すべては未来のため。あんな世界に産み落とされる、哀れな子供たちのためだ。やり遂げてくれよ、ニェフリート。君は僕と同じはずだ。崇高な理念のためならば手段を惜しまない、素質ある人間のはずだ!」
泣き叫ぶようなその声は、もはや悲痛そのものだった。思いがけず瞳が潤む。
孤独に追い込まれて、もう幾分の猶予もなくて、足止めしようとする相手は全部消さなくてはいけなくなったんだろう。鋼はますます彼女が哀れに思えて仕方なかった。いつの日か、頭の中に描き出した悲哀の生き物に、サンドラは似ている。人間に似ているのだ。矛盾だらけで、罪深くて、臆病な生き物。やはりサンドラは、どこまでいっても自分にそっくりなのだ。
何と返すべきか、どうやったらサンドラをこれ以上追い詰めないで済むのか、沈むように考えて、鋼はやっと口を開いた。
「……ありがとう、サンドラ。君は私たちを気遣ってくれていたんだね。……でも私にはもう、そういうのはいいんだ。自分の心身を守るために誰かを傷つけるのは、もうやめにしたいんだ。だって、この体はただの器で、外界との線引きにすぎないだろう? この線引きがあるから私は私だというわけじゃない。私には私の生き様がある。それでいいんだ。手や足を欠いたって、目や耳が利かなくなったって、きっと黒刃は私を愛してくれる。この世界は私に寄り添ってくれる。私はもう、それで十分なんだ。」
鋼が満足そうに言い切ると、サンドラの顔は唖然として、その後ひどくこわばった。
だが次の瞬間、サンドラは表情の一切を欠落させ、何かをぼそぼそと口早に呟いた。どこか遠くに焦点を投げていたその瞳が突如、鋼に照準を合わせる。と、同時に立ち上がったサンドラは細く長く息を吐き、両腕を鋼に向けて構えた。
「君は、母女王の痛みを正しく理解していない。思い知れ。彼女が劣等種どもにどんな苦しみを負わされて生きてきたか。」
サンドラの背後にいたフエゴがとっさに小刀を振りかざそうとするのを、鋼はやはり右手で制止した。サンドラの胸部から、何かがこすれるような音が聞こえると同時に、何かを蓄えるような高音が渦巻く。
「警告。第一保護対象、新水神女王への荷電粒子砲の使用を検知。該当者ニェフリートを第四プラン遂行のための重大な障害と認定。過半数の支持を認め、発砲を決定する。」
そして今度ははっきりと、サンドラがそう呟いたのが聞こえた。
刹那、サンドラの両手が勢いよく握られるのと同時に、音のない電撃が二人の間を走った。熱を帯びた光が雨粒と水蒸気を押しのけて通る。だが鋼は身をかわすでもかばうでもなく、ただそれが迫ってくるのを感じて待っていた。
閃光が胸の真ん中を打つ。衝撃が間髪入れず背中を突き抜け、鋼は二歩三歩とよろめき、後退った。
「陛下!」
フエゴが高く叫ぶ。
されど、撃ち抜かれた胸からは血の一滴も流れ出ない。鋼の体は少し揺れただけで、まるで石を投げ込まれた水面が元の静けさを取り戻すように、一瞬前と変わらぬ形を保っている。サンドラは目を見開き、即座に鋼の頭部に照準を合わせ直し、次弾を発射した。
確かに着弾音が響く。だがやはり鋼は数歩後退りするだけで、右の額以上の損傷を感じさせなかった。何事もなかったかのように上げられたおだやかな視線に、サンドラがたじろぐ。フエゴはマキリを取り落とし、だがそれに気付かない様子で呆然と鋼を見つめていた。
鋼は何気なく打たれた辺りを触ると、唯一深手を負ったままの右の額を指差して言った。
「サンドラ、君がここを貫いてくれたおかげで、私は自分と世界との境目がよく分からなくなったんだよ。そしたら、自分の中のあらゆるものが、循環の中にあったことに気付けたんだ。」
見開かれたままのサンドラの瞳が鋼を見据えている。鋼はしばしそれから目をそらし、震える右手を顔の高さに挙げた。手のひらに残っていた『雨蛙』の粒を転がし、親指で撫でる。
「だったら今の体を構成するものって、果てしなく巡る循環の中の、たった一場面に過ぎないだろう? それはもはや、『私のもの』じゃない。だから今この瞬間の形に固執する必要もないんだ。私が私であることを保ってくれる本当の輪郭は、私に寄り添ってくれるもの。共に歩んでくれるものなんだよ。愛が私の輪郭を縁取っているんだ。だからね、君のその砲だって、別に拒むべきものというわけじゃない。突き抜けて走っていくだけだ。好きにさせてあげたらいいじゃないか。あの子はただ、まっすぐ走っただけなんだから。」
手のひらから雫を落とすと、鋼はゆっくりとその手を降ろした。その碧眼が、まっすぐにサンドラを見据える。
サンドラは半歩ふらつくように後退り、その場にペタンと座りこんだ。仰々しいゴーグルを首まで引き降ろすと、サンドラはうわごとのように何やら呟いている。
舞ってきた雨がサンドラの髪を伝い落ちた。皆既点を超えた太陽が、再び強く光り出す。しばらくしてサンドラは、脱力するように首を垂れ、ため息をついた。
「……僕の計画は、もう君には必要ないのか?……僕は君たちを守るためには、殺しも仕方ないんだと思ったのに。君にはそれが、必要なかったのか。」
魂の抜けたようなその口ぶりには、どこか危うい感じが漂っている。鋼は思わず付け足して言った。
「失ったものは多いよ。死んだ者の無念も、残された者の悲しみも憤りも、すぐにはれるものじゃないだろう。でもそれは、他者を配慮せずお互いを信じなかった者たちすべての罪だ。確かに実行犯は君だ。それでも、君をそれほどまでに追い込んだ神と人間にも責がある。これは、君だけの問題じゃないんだ。」
鋼の頬を伝った血が、顎先から一粒滴る。サンドラは俯いたまま呆然としていた。しかししばらくして彼女は、意を決したように強く息を吸い込み、口を開いた。
「僕が言っているのは、そういうことじゃない。……もう必要ないと言うのなら、ニェフリート、どうか僕を殺してくれ。僕は自己破壊ができないんだ。」
その予期せぬ言葉に、鋼はとっさの返答ができなかった。山おろしが高山植物の枝葉を撫でて、ざわざわと音を立てさせる。サンドラは小さくうずくまって告げた。
「僕は、雷神女王サンドラによって作り出された機械人形だ。サンドラは雷神の第一王子だった。けれど、神技覚醒時の暴走で母女王を殺してしまったんだ。彼は贖罪のため、性別を偽り、最後の女王としての職務を全うする事を選択した。」
淡々としたその語り口に、足の力が抜けそうになる。鋼はグッとそれを堪え、唾を飲んだ。
「だが女王就任後、彼はすぐに気付いたんだ。人間によって汚染されるエレメントのことに。それによって自らだけでなく、愛する親友がやせ細り老いていくことに。神技の継承にタイムリミットが発生し始めていることに、彼だけがいち早く気付いたんだ。だから、問題への根本的な解決策を発見できる頭脳と、それが思いつくまでの間、汚染されるエレメントの影響を受けない体を作ることに必死になった。だが、僕を作ることに明け暮れて職務を怠るようになった彼に、全神会議は不信感を募らせた。人間の活動を否定するような発言が目立ちだしたことがきっかけで、彼はついに狂人と断定され、追放の手が迫った。それで彼は霊道に逃げ込んで時間を稼ぎ、どうにか自己進化プログラムの形成までこぎつけて、初期型の僕にインプットした。最終型が地球の限界に間に合うことをただひたすら祈って。……これが雷神の本当の歴史であり、僕が生みだされた所以だよ。」
そう言って、サンドラは冷笑した。サンドラの体に染みついた工業油の臭いも、体内に水の反応がないことも、全部そのためだったのかと腑に落ちる。
「でも、もう無理だ。もう耐えられない。この計画の動機を否定されてしまったら、僕はただの人殺しだ。僕は今や、サンドラの本懐に背いたことになった。守るべきだった人を殺し、救うべきだった人を傷つけたんだもの。……どうか僕を許さないでくれ、ニェフリート。プログラムが許可しない。頼むから僕の代わりに……僕を壊してくれ。」
サンドラはそう言って、鋼に水神の呪いを放つよう迫った時と同じくらい強く縋りついた。よく見れば確かに、その頭髪は異常に規則正しく植え付けられていた。汗の出ない肌も、異様な拳の硬さも、サンドラの語ることと矛盾しない。しかし、鋼に縋りつくその様だけは、機械というには無理があるほど感情的に思えた。無配慮な人間への怒りも、神殺しを語る前の一瞬の陰りも、今までの挙動のどれも不自然だとは感じなかった。なるほど、本物のサンドラはよほどそこにこだわったのだろう。機械らしい機械なら、もっと早く作れただろうに。
きっとそれはサンドラが、否、この子が独りぼっちにならないためだったのだろうと、鋼には何となく思えた。神がこの子に対して、まさに人間らしい扱いをすることを願って、無理にでもこの子を人らしく設計したのだ。自らが味わった孤独を、この子が知らなくて済むように。鋼にしてみれば、少しでもその可能性があるのなら、その遺志に報いない理由はなかった。
鋼は力なくへたり込んだ小さな体の前に膝を着き、言った。
「逃げ出したいくらい苦しいというのなら、君が今対面しているのは、きっと償おうとする苦しみだろう。なら私に君を殺す理由はない。罰する権利もない。私には君が機械人形じゃなく、人に見える。臆病で罪深い人そのものに見えるんだ。だから、もうサンドラの命令にも縛られなくていい。ただ、その苦しみに向き合ってごらん。」
鋼が口を閉ざした数秒後、サンドラは虚ろに顔を上げた。そして鋼の目を見た。琥珀色の目の中心で、瞳孔がぴくぴくと動く。次第にその目に、潤滑液だろうか、透明な液体が滲み出てきた。眉根がキュッと寄って、引き結ばれた唇がわななく。
その時、サンドラの目からどっと雫があふれ出した。表情がぐしゃりと歪み、嗚咽が漏れ出る。その合間に謝罪の言葉が紡がれ、そのたびにサンドラは拳を握りしめた。まさに少年のような泣きじゃくりようだった。
鋼がその丸まった背中に手を伸ばす。
「分かった? それこそが、君が向き合うべき償いの苦しみだ。焦らなくていい。君が許そうという心を受け入れられる日まで、私は君を見捨てない。」
そう言って、鋼は手の中のジェダイトの欠片をサンドラに見せた。そしてしゃくりあげているサンドラの手袋を取ってやると、生白い手の上に欠片を乗せる。
「これは君に託すよ。これからは、切り捨てる方法を一人で考えるんじゃなく、繋いでいく方法をみんなで考えよう。伝えていこう。今地上を生きる人々に、私たちの全てを。」
鋼がそう言って笑いかけると、サンドラは何度か頷いた後、唸るような泣き声を上げて縮こまった。
いくらか輝きを取り戻してきた太陽が、ほんのりと暖かく、優しく鋼を包む。鋼は立ち上がると、背後に立ち尽くしているフエゴを見やった。
「……独断ですみません。不服でしょうね。」
若干いたずらっぽく言うと、フエゴはぐっと何かを堪えるように顎を引いた。たっぷり三秒は熟考して、ようやくその重い口が開かれる。
「……私には正直、陛下の御考えが分かりません。ですが……やつを私刑に処しては、ライナに顔向けができません。それに、苦しみに寄り添える者でありたいと、約束したのです。」
そう告げる力んだ唇には、今まで滲んでいた諦観とは別の、強い意志が感じられた。
「……通じ合う心にたどり着くまで、共に歩みましょう。」
そう返して、鋼は息をつくように笑った。
川のせせらぎが、渓谷の中から聞こえてくる。そこにサンドラの嗚咽が混ざる。どこかに身をひそめていたらしいエーテルが、フエゴに呼びかけられ、山の向こう側から姿を現した。鋼に目を止めた彼女が懸命に走り寄ってくるのを眺めながら、鋼は物憂げに空を仰いで、深い深いため息を吐いた。
突然、視界が開けた。大地からはるか遠い空中を舞う意識に、あぁ気を失ったのだと気付く。だが確かに、軌跡は残っていた。うなじから伸びたもう一つの頭と、心に渦巻く恐れの存在を確かめ、鋼は愛おしそうに目を伏せた。
伏せた目を開けると、漂う意識の眼下には海に浮かぶ孤島があった。沖でクジラが潮を噴き上げている。その飛沫に虹がかかって、海面を彩っている。
ふと太陽のように輝く黄色い花が地表に咲き乱れているのを見つけると、意識は大地へ急降下していった。柱状節理の石段が見えてきて、そこから丘に向かって小道が伸びている。鋼は小道の中ほどに降り立つと、花畑の中をくるくると踊りまわった。ただひたすら、大地をくすぐるようにステップを踏んで舞っていると、獣が背中から飛び出して花畑を走り回りだす。その背中には、夢の中の少女がしがみついて、無邪気に笑っていた。
鋼は穏やかに微笑んで、振り返り、顔を上げた。そこには霊道の入り口があった。鏡面のように光る結界に、自分の姿が映り込んでいる。鋼はそれを見据え、一瞬だけ顔をしかめて目を逸らしたが、やはりまっすぐに見据え直した。そして、霊道のずっと奥に繋がる、混み合った世界に思いをはせた。
ちゃんと届くだろうか。そんなふうに悩んでいると、いつの間にか隣に座っていた獣が右腕に寄り添った。左手を、夢の中の少女が握った。鋼はしばし呆け、束の間笑うと、瞳の澄んだ青さを霊道に向ける。
そして鋼は静かに息を吸い込み、ただ一言を波打たせた。
「……私は最期まで、君たちを待ち続ける。」
いいなと思ったら応援しよう!
