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『求道のマルメーレ』#13 第五編 砂城の亡霊(三) 

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第五編 砂城の亡霊(三)

 いかほどか時間が過ぎていた。やっとのことで、獣はガラス玉のような青い瞳をしばたいた。四肢を振るい、山のように背骨をしならせて上体を起こすと、辺り一面がもうもうと煙っている。手のひらを突く細かな石粒は、薄積もりの雪のように床を覆っていた。
 獣は横たわっていた場から少し歩み、微かに光るトルマリンを見つけ出した。一つくしゃみをし、ブローチを摘まみ上げる。そして何とか外套の襟を留めると、曲がっていた背中が伸びてゆく。
 束の間、呆け、我に返った鋼は辺りを見回した。周囲の暗さに目をしばたき、おぼつかない口調で『雨蛙』を纏う。部屋の隅には、引きちぎられ歪んだシャンデリアの骨組みがうずくまっていた。
「……黒刃ぁ?」
 姿を捕らえられないことに堪らず名を呼んだが、返事は来なかった。
 こうしてはいられないと立ち上がり、全身を襲った謎の痛みに顔をしかめながら、砂利に汚れた服の裾を掃う。だが鋼は服の固い感触に気付き、革手袋と外套の存在に気付いた。辺りに気を配ると、どうも気温が亜寒帯のそれとは違う。
 それでやっと、鋼は深々とため息を吐いた。眠ってしまったとは思えない以上、気絶したのだろう。その証拠に、今まで自分が何をやっていたのか全く思い出せない。いつものことだった。試しに手袋をめくってみると、右手の甲には「女王選別中」の文字が滲みながらも残っている。日記に書き出すことで定着した母女王との別れの日までは健在だったが、女王選別への足取りは、まるで濃い霧の向こう側に隠れた星のようにおぼろげだった。
 ポーチを漁っても、聖水の小瓶に照らされたメモの束に、自分が気絶した原因らしきことは記されていない。仕方なく転がっていたランタンを引き寄せた鋼は、そのガラス面が一つ割れてなくなっていることに気付き、ひどく悲しそうな顔を浮かべた。
 とりあえず広間を出てみると、左手に向かって廊下が続いている。漂う水蒸気の感覚が示す道に従って、鋼は歩きだした。地面に落ちている澱を見つけてはそのたびに清めながら、肉体の輪郭を床とすり合わせる。何度も開閉されるスナップボタンがバカになってしまいそうだった。
 そうやってしばらく行くと、塔の中であるかのようならせん階段にたどり着いた。ねじれた壁に隠れた暗がりの底から、怨念じみたとどろきのようなものが這い上がってくるような気がする。
 たっぷり一呼吸分立ち尽くした鋼は、思い切って踵を返した。正体は分からなかったが、直感的に何か嫌な予感がしたのだ。壁に手をつき石積みをなぞりながら来た道を戻る。と、あるところまで凹凸の目立つ石造りだったのが、金属板のような平面に変わった。鋼は立ち止まると幾度か平面をノックして回り、その中央に人一人がやっと入れるような幅の隙間があることに気付いた。即座にランタンに溜まっている水を引き出し、『鎌鼬』で鉄を裁つ。薄い金属がたわんで倒れる音が響いた。
 一歩近づき隙間の様子を窺うと、何やら懐かしい匂いがする。これならば先ほどの階段よりはよっぽど気が軽い。鋼は金属の断面で傷つけないように外套を手繰り寄せながら、わずかな隙間に入り込んだ。
 横歩きで隙間を進む。十歩あまり数えたところで周囲が開けた。嗅いだ覚えのある匂いが強まる。
 鋼は水分子の感覚を行き渡らせ、四方を探った。入ってきた隙間以外に開口部はないようだ。だが小部屋らしき空間の壁はどこまでも石造りで、天井や床に至るどこにも、先ほどの金属の壁のような違和感はない。仕方なく足を踏み出してみると、靴底に乾いた音を感じた。紙の潰れる音だ。
 しゃがみこんで靴底の紙片を拾い、ポーチの中の聖水瓶にかざす。白い横長の札のような紙には、濃い色のインクで一言、
「覚悟を示せ」と記されていた。
 視線を上げる。すると部屋の真ん中に突如として、得体の知れない大きな塊を感じ取れた。
 匂いがまた一段と強まる。鋼は眉を寄せ、天井から吊られたその塊に向き合った。ツタのようなものが絡みあっているように思える。だが聖水の小瓶では全体を照らせない。
 鋼はため息をこぼすと半歩後退った。息を止め、鼓動を止める。束の間、瞳の表面に滲みだした雫が波打った。重力に逆らって水滴がまつ毛を上り、その先端でピンとはじかれる。ころころと空中を転がりながら登った聖水は、さながら月光のように辺りを照らした。
 鋼は正体不明な胸のざわつきを撫で沈めると、塊に歩み寄った。初めて呼んだ聖水の扱いの容易さに感心の息を吐きつつ、ツタの細部を観察する。
 その正体はすぐに分かった。つい半年前に見たのとほとんど同じだった。蛇だ。抜け殻のような乾ききった蛇皮が、いくつも絡み合っている。
 次の瞬間、鋼は弾かれたように両手で塊をかき分け始めた。重なり合った蛇の死骸が粉々に崩れて辺りに舞い散る。懐かしい匂いの正体に近付いていく。
 と、不意にかきむしる手の動きが止まった。指先が今までのむくろとは別の感触を捕らえている。鋼はその輪郭に手を這わせ、抱えたものを力いっぱい引きずり出した。勢いあまって尻を地面に打ち付ける。だが鋼はその痛みを気にもかけず、腕の中に見入った。
 匂いが強まり鼻をつく。鋼は乾いた口で唾を飲むように喉を膨らませた。男の裸体だ。色白で黒い髪の男。温度がなく、軽い。
 視線を進めると、男には下半身がなかった。獣に食い破られたような腹膜と、砕けた第四腰椎が空しく横たわっている。鋼は血に濡れたそれらが、空中で波打つ聖水に照らされ蠢くように思える様を、それはもう食い入るように見つめた。爛々と光る目を見開き、まばたきも忘れて鼻を鳴らす。
 しばらくそうやって微動だにしなかった鋼は、不意に目を細めて男の背中に手を当てた。
「大丈夫。きっと最後までやってみせるよ。」
 そう言って笑う口の隙間から覗いた真っ白い犬歯の先は、まさしく獣のものだった。
 青白い体をそっと床に降ろす。無数に散らばる蛇の骸が、吹くはずもない風に吹かれて転げまわっている。蜃気楼のように立ち上がった鋼は男の体からやっと目をそらし、直立して前方を凝視した。
「覚悟を示せと、言ったな。」
 発声と共に漏れ出た水蒸気が、気流に乗って流れる。地下水脈のせせらぎが、手に取るようにわかる。鋼はブローチを外した。そして外套を勢いよく脱ぎ去った。重い外套がバダリとはためき、石の床に倒れ込む。
 トルマリンのブローチを握った右の手が、止め金具から伸びる金の針の切っ先を左の耳たぶに突き刺した。血の粒が一滴、肩の上に落ちてシミを作る。器用に片手で針をフックに収め、鋼はそのまま、手を振り捌くように右に投げた。
「今、この時の覚悟なんかが、今後百年の統治にとって何の意味をなすと言うのか。日々移ろうのが世であり生であるのだ。それらを統べる神が一つ所に固執して何になる。一時の覚悟に縋り、闇雲に一貫性を保つことは、今後一切の進化をしない者のすることだ。流転する世を統べる王の所業ではない。」
 石壁に反響し、音が重なり合う。トルマリンが月光のような雫のもとで強く輝く。
「これより先は、水神女王ニェフリートが築く。道を開けよ!」
 声は波紋のように広がった。その瞬間、眼前のすべてが砂のように崩れ落ちた。人工的に積みあがった石壁が、自然の混沌の中に飲み込まれ消えていく。
 宙に浮かんだ聖水と左耳の痛みと、脱ぎ捨てられた外套の折り目だけが現実だった。いつから幻覚が始まったのかも、知っているような気がするのに思い出せなかった。
 深い吐息が水蒸気と戯れる。鋼はゆっくりと手を伸ばし、泥の滲んだ外套を掴んだ。そして水分子が示す先に向かって再び歩き始めた。
 鋼が振り返ることは、二度となかった。

 火の粉が爆ぜる音に、鍋の蓋が揺れる音が混ざる。黒刃はキッチンに向かい、煮えたぎる鍋をかまどから逃がした。タラとアサリがトマトスープの中に見え隠れする。部屋中を満たすやや酸味のある香りに、だがしかし黒刃は心ここにあらずといった風だった。何せ鋼が出発してから後、床に就いていない。極夜に乗じて自分をごまかし続けているのだ。
 その時、ノック音が響いた。黒刃は即座に表情を一変させ、ミトンを脱ぎ捨てると小走りで部屋を横切った。風除室を抜け、玄関扉を勢いよく引く。
 だが期待に反して、視線の先に鋼はいなかった。代わりにテオドロが立っている。彼がやけに前傾姿勢なのを不審に思うのも束の間、その背にはぐったりとした鋼の姿があった。
「久しぶりだね。」
 微笑んでそう言ったテオドロに、口ごもりながらも挨拶を返す。しかしどうにも二の句が継げない。鋼とテオドロを交互に見やって言い淀んでいるとテオドロが苦笑した。
「女王陛下がひどくお疲れのようだったのでね。意識はあるみたいだけれど、ずっとうわごとを言っておられるんだ。」
 それを聞いて、黒刃はやっと眉を開いた。姿勢を正し、残された気力で口を開く。
「日頃よりたびたびあることですので、そちらはご心配には及びません。お手間を取らせてしまいましたこと、主人に代わりお詫び申し上げます。」
「いやいや、ご無事で何よりだよ。」
 そう返しながら、テオドロが黒刃に背を向ける。黒刃はすかさず鋼の弛緩した体を抱えた。確かにうわごとを言ってはいるが、ショック状態ではないようだ。またわずかに黒刃の表情が緩んだ。背中をさすってやると、次第にそれも落ち着いてくる。
「それじゃあ、私はおいとまするよ。お大事に。」
 黒刃が顔を上げると、そう告げたテオドロは静かにはにかんだ。それをすかさず引き留めて言う。
「形見を直していただきたいと、主人が申しておりました。お時間が許すようであれば、ぜひおもてなしさせていただきたいのですが、いかがでしょうか。」
 鋼を抱えたまま目を伏せると、テオドロが右手を挙げた。
「いいや、せっかくだけれど、あいにく私はもう鉱物以外は口にしないんだ。気持ちだけ受け取るよ。君は私より女王陛下のお世話を優先しなさい。頼みは今ここで聞こう。」
「承知いたしました。急ぎお持ちしますので少々お待ちください。」
 会釈して言うと、テオドロが快く頷く。黒刃は家に入るとソファに鋼を横たわらせ、テーブルの上の包みを取った。再び玄関に戻ると、テオドロが赤くなった鼻の付け根を摘まんでいる。黒刃は申し訳なさそうな顔をして、振り返ったテオドロに包みを開けて見せた。
 厚手のハンカチに包まれたそれは、鋼に握りしめられて歪んだペンダントチャームだった。テオドロが若干表情を曇らせる。
「……ロケットか。」
 黒刃は黙って頷いた。テオドロはハンカチごとそれを受け取ると、曲がった金の表面を布越しにゆっくりと撫で始めた。
 雪が音を吸って、互いの呼吸とこすれるハンカチの音だけが聞こえる。押し黙っていると、不意にテオドロの方から声がかかった。
「何か、彼女のいないところで聞きたいことがあるね。言ってごらん。」
 黒刃が首をすくめる。視線を手元にやったままのテオドロは黙っていたが、黒刃は言葉を選ぶ間ずっと詰問されているような気がした。
「……その後、何か朗報はございませんか。」
 何かを抑えるような声音で言うと、テオドロは一瞬黒刃を見やった。一拍、心臓が跳ねる。テオドロは息を漏らすように言った。
「どうして今更、そんなことを聞くんだい。」
 声が低い。黒刃はますます首を引っ込めたくなるのをグッと堪え、代わりに俯き気味に唇を波打たせた。
「その、申し上げにくいのですが、レギオンのゴーストに襲われ昏倒した際、元主人に……フィーネ様に呼び起されたような気がしてならないのです。」
 途端にテオドロの手が止まった。その間に耐えられず恐る恐る視線を上げると、嫌に張りつめた顔と視線が合う。黒刃はまずいことを言ったと思い、訂正しようと口を開きかけた。
 しかしそれをテオドロの声が阻んだ。
「どの時点でだい。森か、霊道か。」
「は、目覚める寸前でしたから、霊道かと存じます。」
 するとテオドロは束の間思考を巡らせ、短く
「そうか」と言った。
 そして再び手元に視線を戻す。黒刃は置いてけぼりを食らったような顔で上目遣いをした。だがテオドロは頑なに顔を上げない。
「悪いけれど、これといった朗報はないよ。」
 しばらくして結局、彼は黒刃を見ようともせずにそれだけを言った。
 底冷えする静寂が続き、黒刃が身震いを起こす。テオドロはようやく柔和な笑みを浮かべて顔を上げた。
「直ったよ。このでっぱりを押したら蓋が開くと思うから、伝えてもらえるかい。」
「承りました。ありがとうございます。」
 ぎこちない心境に愛想笑いを作り、ロケットペンダントを受け取る。一方のテオドロは何事もなかったかのような顔で黒刃を見た。
「いつかまた来るよ。」
「はい。ぜひご子息ご令嬢殿下ともご一緒ください。」
 返すと、テオドロは軽く振った右手をそのまま黒刃の肩に置いた。
「フィーネのことは気にしなくていい。君には荷が重い。私に任せなさい。いいね。」
 右手が強めに肩を掴む。黒刃は静かに首を縦に振った。テオドロが微かな含み笑いを漏らす。その右手が肩をポンポンと叩いて離れ、再び小さく振られた。
「それじゃあ。」
 テオドロが踵を返す。後ろ姿に一礼し、黒刃は彼の背中をしばし見送ってから家に入った。
 入ると、暖かい湿気が冷えた体表を撫でる。部屋を満たしているはずの料理の香りは、ほとんど意識から抜け落ちていた。
 縮こまってしゃがみこんでいるハイラの横を素通りし、ソファに横たわった鋼の前に膝をつく。鋼は先ほどと変わらず、何かつぶやきながらどこか虚空を凝視していた。
「鋼、おかえり。おつかれさま。」
 硬く握りしめられた礼服の外套を手放させながら語り掛ける。詰襟を緩め手袋を取り払い、くたびれた革のブーツを脱がすと、腫れあがり所々血の滲んだ両足があらわになった。その傷を洗って消毒してもなお、鋼はピクリともしない。黒刃は慣れたように鋼を抱き起こして座らせると、テーブルの上に手を伸ばした。
「……休む前に、全部出しとこうな。」
 引き寄せたノートを広げ、鉛筆を一本、鋼に掴ませる。
 瞬間、鋼は倒れ込むような勢いで筆を振り捌いた。見開きの右側に散文を書きなぐり、合間に左側にスケッチを描き連ねていく。そうして浮かび上がった男の無残な姿に意識を奪われていた黒刃は、にじり寄ってくるハイラに気付くのが遅れた。紫色の手がテーブルにかかった瞬間、思わず飛び上がり威嚇音を発する。
 途端、筆音が途切れた。慌てて振り返ると、鋼が両手を顔の横に掲げながら前後に体を揺らしている。耳をすませば、それまでうわごとだったものが「かかなきゃ」という音の繰り返しになっている。
 黒刃はハイラを警戒しながら鋼の正面に回り込み、そっと手を伸ばして藍色の髪を撫でた。
「ごめんな、びっくりしただけだよ。大丈夫。」
 そう言ってしばらく宥め続ける。と、鋼は微かに震える両手を転がった鉛筆へと伸ばし、ぎこちなく握ったかと思えば再びスケッチを描き始めた。
 黒刃は束の間、安堵の表情を浮かべ、しかしすぐ隣に座るハイラを居心地悪そうに睨んだ。されど本人は黒刃の心情などつゆも知らぬという風で、鋼の描く絵に見入っている。
「……勝手にしろ。」
 黒刃は渋い顔でそう言い放つと、鉛筆と紙を一枚、ハイラに突きつけた。ハイラは少しの間呆然と差し出されたものを見つめ、のそのそと受け取ると床で鋼の真似をし始める。
 左手に鉛筆を握った姿に黒刃はひどくやるせなくなって、胸の中を掻き回されるような心地を味わった。過去と現在の信頼の間で、板挟みになって動けなくなる。
 筆音の二重奏の中、黒刃は微かな鼻音と共に唇を噛んだ。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。