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『求道のマルメーレ』#12 第五編 砂城の亡霊(二)

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第五編 砂城の亡霊(二)

「気を付けて行っておいで。」
 右手からテオドロの声だけが聞こえる。あまりに強い光にあてられて見えないその姿の方に目をやり、鋼は光の射す方に向き直った。手で作っていたブラインドを上げる。
「行ってきます。」
 その声と共に、黒いブーツが一歩、亀裂の中に踏み込む。純白の外套が光の中に溶けこんだ。
 すぐさま、ゴォン、と低い音を上げて背後で扉が閉まる。伏せていた目をゆっくり開けると、日差しと共に乾いた熱風が鋼を襲った。砂の粒が顔に叩きつけられる。吹雪のそれとはまた違う、熱を持った痛みが尾を引いた。
 見渡す限りの砂漠に、生命の痕跡はない。糞や足跡はおろか、骨や繊維に至るまでもが、どこにも残されていなかった。
 小麦色の砂地にブーツが食い込んでいく。風にあおられた外套が体に巻きつく。不要になったランタンを消すと、鋼は目をつぶり、水分子の分布に集中した。
 湿度が低い。地下水脈はあるが、のたうつ龍のように形を変え続けている。さらに感覚を伸ばし地下と地上とを探していくと、霊道の気配が感じられた。かなり後方だ。しかも、入り口が地中深くに埋まっているらしい。
 鋼は目を開けた。そして霊道のある方へ向かおうとして、両の足が砂に埋まって動けなくなっていることに気が付いた。流砂だ。遠方に集中するあまり見落としたらしい。ブーツの中はまだ無事だが、それも時間の問題だろう。
 鋼は靴の下に水の塊を作ろうと意識し、目を丸くした。ひどく反応が鈍いのだ。これほど少量の水からなる泥は、不純物が多すぎて掴めないらしい。かといって、空気中に支えになるようなものを作ることもままならないほど、辺りは乾ききっている。
 鋼は顔をしかめると、ひざを折って泥の上に横たわった。泥は比重が高いから沈むことはない。さらに外套の端を手で持ち、体重を分散させる。吹いた熱風に運ばれてきた砂が、外套の上に乾いた音をたてて散らばった。鋼はもがかないように踏ん張りながら、右足を持ち上げようと力んだ。が、異様に重い。まるで誰かに足首を掴まれているかのようだった。強い日差しを浴びてひりつく肌に、あてつけがましい恨みのような熱を感じて、鋼は少し青ざめた。
 乾燥地帯の主である雷神のドワーフ族は、一五〇年も前に滅びた種族だそうだ。過激思想に囚われ狂人と化した最後の女王は、継承者を残すこともなく、全神会議の審議の末に十戒で追放されたらしい。だがそれ以上、鋼は雷神の顛末をほとんど何も知らなかった。過激と判断されたその思想の内容はおろか、最後の女王の名前さえ知らない。調べてみようにも、文献の一つも残っていないのだ。追放刑に処されたからというより、その思想が原因なのだろうが、おそらく関連文献は廃棄されている。当時、会議に出席した者を探しまわることが情報を集める唯一の手段だったが、今やそれもままならない状況だ。母女王を殺した裏切り者の存在が明らかになった以上、慎重に行動しなければ、手の内を明かすことになりかねない。なんにせよ、後世にその真意のかけらも残すことができなかったのだから、最後の雷神女王はさぞ無念だっただろう。鋼はそういう恨みのようなものが、照りつける太陽の中に潜んでいるように感じたのだ。
 やっとのことで引き上げた右足を投げ出し、しばらく踏ん張って左足も引っこ抜く。じりじりと焼かれた額には大粒の汗が浮かんでいた。慎重に沼から這い出し、安全地帯で体を起こすと、衣服にへばりついた泥を叩き落とす。
 気付くと、先ほど入ってきた霊道の入り口は、幻のように跡形もなく消え去っていた。鋼は鋭く息をつくと、霊道に向かって歩き出した。払いきれなかった泥がやたらと重い。外套の内側の紺桔梗は、流砂から這い出す間に熱を蓄えてしまったらしかった。うなじから耳にかけて生暖かい風がなぶるせいか、目指すべき霊道の方に集中しにくい。
 ズ、ズ、と足音が連なる。足を差し込む角度によって、砂地はさまざまに形状を変えた。ある時はアスファルトの上り坂のようで、ある時は腐葉土の下り坂のように変化する。ブーツの中でずれるつま先やらくるぶしやらは、次第に痛むようになってきた。だが『手毬』を作る水分は、この辺りにはない。いくら廃れた土地とはいえ、地下水脈を無理やり引っ張り出すのも気が引ける。
 開始直後だというのに、すでにかなり追いつめられている感じがした。強い風と流砂のせいか、砂漠が見る間に姿を変えて惑わす。空から降り注ぐ太陽光線と足元からの照り返しが、死神のように高笑いしながら鋼を睨んだ。頭の奥が煮えて、その中から現れた獣が呪詛を垂れ流して、注意を奪おうとしているのが聞こえ始める。
 鋼は奥歯を微かに鳴らした。ただ暑いというだけで苛立ちを沸き立たせている自分が不快で、進むべき道よりも余計な勘繰りと妄想にかまけている自分が情けなかった。そういう自己嫌悪が一斉に襲ってきているのに、ここには逃れるすべがない。焼けるように熱いブーツを前へ前へと押し出すことの繰り返しばかりで、荒廃した砂地の上にも、雲一つない空にも、気を紛らわすものがない。
 視界の端が鮮明に唸った。鋼はただ一人、冷笑とも苦笑ともつかない不気味な笑みを浮かべ、ふらつきながら足を運んだ。

 もう何度目のことか、乾いた口の中をごまかすために唾を飲む。汗や呼吸の具合には何の不調もないのに、鋼の目元はひどく赤らんで隈までできていた。コートの白い面を外側にして頭に巻いたことで少しはマシになった獣の声も、さすがに止まる様子はない。流砂のせいで休息も取れず、二日間歩き続けた足には血豆ができて潰れていた。太ももは痛みを超えて痺れを感じ、関節痛は背中にまで到達しつつあった。それを熱が焼いている。
 ザ、ザ、ザ、と踏み出すべき角度を覚えた足が一直線に軌跡を残す。されどその後を追う風がすぐさま道筋を消してまわった。成果が見えないことへの焦燥感は、耐えがたいほどのどをひりつかせるものだ。獣を背負った鋼にはなおさらだった。
 と、突如目の前が暗くなった。大きな影の中に黒いブーツが踏み込む。燃えるように暑かった大気が急に冷気に置き換わったことに気付き、気が遠くなるような心地でゆらりと頭を上げた鋼は、いつの間にか地上に顔を出していたらしい霊道の入り口をぼーっと眺めた。
 薄茶色の大地にぽつりとシミができたように、不似合いなグレーの岩が積まれている。鋼は震える手で髪をかき上げ、額を岩肌に押し当てた。冷たい。獣の荒い息が、徐々に収まっていくように感じる。
 しばらくの間そうしていたかったが、つま先や霊道は徐々に地中に埋まりつつあった。少しばかりではあるが冷めた頭を振り、鋼は霊道に足を突っ込んだ。結界は張られていなかった。
 水神の霊道とは違い、その中には石段があった。塔の中であるかのようならせん階段が地下深くへと続いているが、壁や足元に灯りはない。鋼は蝋がこびりついたランタンに二晩通してかき集めた夜露を押し込んで『妖狐』とした。小さな明かりだが歩くには十分だ。
 ふと振り返ると、霊道の入口が徐々に沈んで、まだ泥になっていない砂がさらさら音をたてながら入ってきている。鋼はそれから逃げるように階段を下りだした。吹き抜けるところがなくて停滞した空気が、肌に絡みつくようだった。
 階段を下れば下るほど気温が下がり、湿度が上がっていく。地下水脈も近い。まだ石壁に生えた苔などは見られなかったが、鋼はようやく一息ついた。立ち止まりこそしないものの深く呼吸をし、いかっていた肩をおろす。頭に巻きつけていた外套もきちんと着直し、ブローチを止める。と思いきや、指が滑って取り落してしまった。石段にブローチがぶつかる音が数回高く響く。
 あ、と駆け出そうとした足が、一歩を踏み出す前に止まった。姿勢を正し、目を伏せる。鋼は水分子の感覚を研ぎ澄ませ、人為的な曲線と直線の融合を探した。小石の混沌とした表面をいくつか数えながら、肉体を置いていった感覚だけが階段を下りる。
 丸く輝く輪郭を捉え、パッと碧眼がまたたいた。結構下まで落ちたものだと、ゆっくり階段を下ってゆく。と、不意に水たまりを踏むような音がした。それが嫌にべたつくのに気付いて鼻をスンと鳴らすと、なるほど、異臭がする。
 鋼はベルトのポーチから淡く光る聖水の入った小瓶を取り出し、コルクを外すと中身を澱の水たまりに垂らした。聖水と接触した部分から煙が上がり、のどの奥に絡むような刺激臭が漂う。鋼は少し咳き込んで、靴にも聖水を振りかけると瓶をポーチに戻した。
 放っておけば、ここもそのうちゴーストが出るだろう。鋼はそう思い、雷神の管理領域の一部を風神が引き継いでいることを思い出した。ただでさえ広大な大地を王なしで管理しているのだ。エーテルには注意するように言っておかなくてはなるまいと、ポーチから筆記用具を取り出しメモを取った。ポーチのポケットにメモを収め、スナップボタンをパチンと鳴らす。
しばらく下ると、湿度の高まりとともにせっかく大きくなってきていた『妖狐』の光が急激に弱まった。入口が完全に塞がってしまったのか、外から屈折して届いていた光も息絶えたのか。どちらにせよ、もう光は得られないだろう。ランタンを持つ手を下げた鋼は、『雨蛙』を使って石段の輪郭と靴底の輪郭をすり合わすように歩き出した。
 そうしてやっと、目的の段までたどり着いた。ふとらせん階段の外側まで感覚をいきわたらせると、その段がちょうどひらけたフロアに続く踊り場だったらしいことが分かった。床の輪郭を伝っていくと、石像のようなものがいくつか立ち並んでいる。四肢や首がない不完全なものが多く、鋼は蝋燭の予備を持って来るのだったと少し後悔した。
 唯一ほとんど欠損のない像の足元に、トルマリンのブローチが転がっている。鋼はその、どうやら女性像らしい足元でかがみ、ブローチを取ろうと手を伸ばした。
 瞬間、像の素足がにゅっと伸びてブローチをかすめ取った。ぎょっと目を丸くした鋼を置き去り、ブローチを拾い上げたらしい足音が軽快に逃げていく。とっさに鋼が左手を引き寄せると、走っていた像はギャッと悲鳴を上げて転んだ。ブローチがまた転がる。
 と、今度は首のない者が転がったブローチを掴んだ。右の手を引く。ぐんと引っ張られた石像の体が転び、石膏が割れるような派手な音がした。それと別に、軽い音が床を滑っていく。
 転がったブローチを水の感覚が追いかけた次の瞬間、背後から伸びてきた白い手が鋼を抱きかかえるように押さえつけた。体勢を崩した拍子にしたたかに尻もちをつき、持っていたランタンも床に落ちる。鋼は思わず左の肘で背後の者のわき腹を叩いた。固い音と強い衝撃が走り、一瞬遅れて痛みが脊椎を駆ける。『雨蛙』でもう一打と思ったその時、足音が全方位からひたひたと忍び寄ってくるのに気付いた。その中で両足のある者が一人、ブローチを奪っていった者の倒れている方へ走っていく。
「塗壁!」
 とっさの叫び声に呼び止められ、すべての音がびたりと止まった。鋼の体を押さえ付けようとしている腕の動きも止まり、水蒸気の流れさえ鈍く停滞する。
 鋼は深く息を吐くと、上を仰ぎ見て呼吸を止めた。鼓動も止まる。すると、艶やかな葉の上にたまる夜露のように、鋼の下瞼に涙が溜まりだした。シアンブルーが、溶け出した絵の具のように水滴を染める。重力に逆らってまつ毛を登った雫は宙へと舞い上がり、湖底から浮かんでいく気泡のように空中を転がった。
 鋼が止めていた息を吸うと、浮き上がった雫は聖水となり、月のように輝きだした。広間が淡く照らし出される。
 その瞬間、鋼はひどく青ざめ、恐れに負けて全てをあらわにしたことを悔やんだ。息を呑んだ拍子に、のどの奥が震える。
 鋼を取り囲む石膏像たちの間から見える、ブローチを奪おうとした首のない石像。罵倒ともとれる持論と共に部屋を満たした強いたばこの臭いを知っている。鋼を取り押さえようと抱きついた石像の両手は、重度の火傷でぐずぐずにただれていた。肉が燃える臭いと断末魔を知っている。思い出せない何者かが刻み付けたトラウマの感覚を、その正体が分からないのに、絶対に知っている。
 突如、怒号のような雷が霊道を直撃した。亜光速で走り抜けた電流が地面を伝う。殴られたような衝撃に、鋼は意識が遠のくのを感じた。とっさに呼吸法で意識を取り戻し、ぐらぐら揺れる頭に顔中を歪めて目を開ける。すると今度は、眼前わずか十数センチ先を、見知った人間たちのデスマスクが取り囲んでいた。
 か細い悲鳴と共にますます吐息が荒げられ、がたがた震えだした碧眼が真正面を向く。束の間、石膏の手が仮面群をかき分けて向かってきた。こわばった頬を包んだ冷たい手の持ち主を仰ぎ見ると、それはあの唯一完全な女性像だった。だが、それが救いの女神などではないこともまた明らかだと、見覚えのある指の形と明け透けな裸体が物語っている。写真のように違和感のある蒼白な顔は、おもむろに口の端を吊り上げた。
「何をいまさら怖がるの? 逃げないで、思い出してよ。」
 録音したような聞きなじみのないその声に、鋼は硬直し、こぼれそうなほどに目を見開いた。その瞳の中の深淵が、震えるように開閉を繰り返す。
「あぁ、そっか。思い出し方も分からないか。」
 そう言いながら、石膏は鋼の頬を押しつぶすように手を寄せた。脳まで波打たせるような鼓動と頭痛に飲まれる。目を白黒させて意識的な呼吸を数度繰り返した鋼は、しかし唐突に咳をこぼした。予期せぬ奇妙な咳と汚れた地面という結果を結び付け、それが胃液だと判断するのにかなりの時間を要する。脳全体がホルマリンに浸かったようだった。
「なにも吐かなくてもいいのに。」
 石膏がそう言って笑う声が、液体の中で響くように聞こえる。
「可哀そうな君が忘れたことは、確かに俺も覚えていない。でもね、罪深い君が忘れたと思いこみたいことは、代わりに俺がはっきりと覚えている。」
 鋼を覗き込んだ真っ白い眼球は、ゆっくりとまばたきをした。
「だから手伝ってあげる。罪の清算をするんだよ。大人たちを蔑み恨んだことも、父王を蒸発させたことも、孤独と厭世に酔いしれたことも、無垢な生き物をなぶったことも、全て。救いも責めも意味もないシーソーみたいに上下動するだけの人生において、無情にも自分を大人にさせてゆく時の流れに絶望した少女が、いったいどうやって大人になったのかを——」
「だまれッ‼」
 その瞬間、鋼の怒声が石膏の言葉を叩き切った。興奮した荒々しい吐息が、噛みしめられた歯の隙間から噴き出す。目と眉を歪ませ、まがまがしい灼熱の殺意に身を投じて、シアンブルーの一睨が石膏を刺した。
 すると石膏像は聖母のように微笑んで、肋骨に指をかけるように自らのみぞおちに手をやった。そしてそのまま、腕を開いていく。胸骨が砕ける音に鋼は思わず首をすくめた。尻をついたままわずかに後退ると、まもなく石膏の腹が裂け、内側で何かが光る。
「無責任も、暴論も、偽善も、虐待も。君を絶望させた大人たちの所業全てを、君はやってのけた。君は今、幼き自らが恐れた大人の姿そのものに。」
 石膏の言葉が終わると同時に割り開かれた腹の内側を見るまいと、鋼はとっさに目をつぶった。だが、声のこだまに脳を揺さぶられ、両の瞼を内側からこじ開けられる。
 石膏の腹腔内に据えられた鏡に映った、煮えたぎる怒りに支配された瞳と相対した次の瞬間、鋼はもはや、悲鳴を上げざるを得なかった。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。