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『求道のマルメーレ』 #20 第七編 雨後の道の先(三)
第七編 雨後の道の先(三)
「……カイホウ?」
一拍置いて鸚鵡返ししたゴーストに、エーテルが歩み寄る。ゴーストは何やら考えるようにうめいていた。エーテルはそれを宥めるように腕を伸ばし、穏やかな風でゴーストの体を撫でた。
「そうよ。あなたを縛ったのは、私の過ちだった。だから——」
その瞬間、エーテルの言葉を遮って、ゴーストから流暢な言葉が発せられた。
「虫のいい話だ」と。
刹那、ゴーストの手がエーテルの頭部を掴み上げた。間髪入れず水蒸気を呼び寄せるも、ゴーストがエーテルの頸部に触れた指の力を強める方が早い。エーテルの手がゴーストの指をはがそうと抵抗するのを気にも留めず、先ほどの声は何度か続けて鋼にシーッと言った。動くなという警告らしい。声の主は、鋼のどんな攻撃より、自分がエーテルの首を折る方が早いと確信しているのだ。鋼はただ奥歯を噛み締めることしかできず、構えを解かざるを得なかった。声が再び指示を出す。
「風神霊道の前に川がある。中州のある所まで下っておいで。継承者以下が何人来ようと構いはしないが、君以外の王位権限者が来たらこの女を破壊する。いいね。」
長くしゃべられて気付く。その声はまるで少年のもののようだった。ゴーストは振り子で遊ぶように、暴れるエーテルを揺らしてみせる。
「やめろ。」
鋼が唸るとゴーストの手が止まり、声の主は含み笑いを漏らした。
ゴーストの手はエーテルの顔面を完全に覆っている。王位権限者の性質上窒息死はありえないが、澱を大量に飲み続けたらどうなるか分からない。鋼は奥歯を噛み、顔をしかめて放った。
「従おう。ただし、どんな形であろうと陛下の身に障害が残った時には、貴様の望みは何一つ叶わんと思え。」
エーテルが抗議するように呻く。声の主は了承する旨を口にし、続けて言った。
「僕を暴いてごらん、ニェフリート。」
その言葉を最後に、視界が暗転する。
瞼を開けた鋼は、ソファに座った自分の体を認識した。風神領域に『妖狐』の応用で作った水の依り代から、様々な感覚が帰ってくる。鋼はソファから飛び上がり深呼吸をすると、幻想界のいたるところにスピーカーのような『鯨波』を作り出し、一斉に呼びかけた。
「水神女王ニェフリートより緊急連絡です。只今ハルピュイアの高原に少なくとも一体のゴーストが出現し、風神女王エーテル陛下を人質に交渉を要求しています。ゴーストは交渉人として私を指名しました。つきまして、地神女王フェイ陛下には水神領域への一時的な侵入を許可し、陛下の使徒を用いて水神領域内の警備を、風神王キース陛下には炎神王女ライナ殿下の警護をお願いしたい。お二方、可能かどうかご連絡ください。加えて、炎神王子フエゴ殿下に、交渉への同行を命じます。風神領域に向かってください。」
大きな音に驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち森が揺れる。鋼は『鯨波』を空中にまき散らすと、すぐさま二階に駆け上がった。
無策で駆け付けるわけにはいかない。情報を整理して、何としてでも対等な交渉ができる状態にまではこぎつけなければ。鋼は保管庫の本棚から、女王の死から現在に至るまでを記録した日記の全てを取り出し、床に広げた。
素描と文字が駆け巡る。
西暦二一〇六年二月二十六日。略式継承者・使徒・堕神いずれかの命を受けた五例目のゴーストが、母女王を背後から氷柱で貫いて殺害した日だ。母女王は鋼が駆けつける間際まで誰かと会話をしていたが、それが誰であったかを語らず、ロケットを残して事切れた。
また、ハイラと名付けた五例目のゴーストは、鋼が絵日記を付ける姿に興味を示す。このことにより、ハイラが左利きであると判明した。
そして当時、エーテルは無人だった家の保管庫からジェダイトを盗み出していた。
西暦二一〇六年五月二十日。テオドロからの救援要請により、炎神事件が発覚。霊道内にて至近距離から向き合った状態で銃創を受けたテオドロは、『SAND』というダイイングメッセージを残して死亡していた。足跡や靴底からは砂漠由来の砂が発見されている。
また、炎神の拠点である家屋では、まず、首の切創に対しての防御創が見られないメリッサを、次いで炎神に囲まれて焼死したブルーノを、最後にショック状態のライナを発見。後のフエゴの証言によると、彼が家屋の火災に気付いて河川の調査から引き返してきた際、すでにブルーノは意識がなく、メリッサはゴーストと戦闘していたらしい。フエゴが駆け付けたことに驚いたメリッサの隙を突いて、ゴーストがメリッサを攻撃。首の切創はその時のものだそうだ。ゴーストは次にフエゴに襲い掛かり、フエゴは何とか逃げおおせはしたものの、気付かぬうちに澱に触れており、次第に正気を失ったとのこと。
また、鋼はライナを救出後、家屋付近の茂みに一体のゴーストを発見。しかしそのゴーストは女王命令を無視したため、王位権限者の命令でそこにいたことが分かっている。ただし、フエゴはこのゴーストについて、メリッサと交戦していたゴーストと同一個体であるかどうか分からないと証言した。
そして今日、西暦二一〇六年六月十四日。エーテルが風神霊道の管理を怠っていたことが判明。彼女が水神王子トワと呼ぶ大型のゴーストは、放置された風神霊道から出現したらしい。たどたどしいながらも意思疎通が叶っていたと思われるそのゴーストは、突如豹変しエーテルを攻撃。少年のような声で流暢に交渉を要求した。
と、そこまでを並べ、次に鋼は日記とは別のメモ用紙に、裏切り者の特徴を書き出し始めた。
一、 ハイラに命令を出した時点で、略式継承者・使徒・堕神のいずれかであること。
二、 母女王が自分には明かせないような人物であること。
三、 父王と兄王子の写真がはめ込まれたロケットに、関連のある人物である可能性があること。
四、 絵画に対する関心があること。
五、 左利きであること。
六、 ジェダイトに対する執着心があること。
七、 銃火器の扱いに覚えがあること。
八、 『SAND』に関連する人物であること。
九、 炎神領域にいた女王命令を無視したゴーストに命令を出した時点で、王位権限者であること。
十、 今日発見した大型のゴーストの一部であるか、あるいはその体を繰る能力があること。
十一、 少年のような声の人物であること。……
そこまで進んで、筆が止まる。鋼は万年筆を手放すと、額に手をやって眉根を寄せた。
情報を整理するだけならいい。だが、疑いと状況証拠によって裏切り者を特定しようとしてはだめだ。このメモだけに引っ張られてはならない。もっと違う要素から犯人を導き出さなくてはと、唇が小さくなる。
そう、エーテルにはトワを囲う理由があっても、神を殺す動機がなかったのだ。顧みるべきは事実の羅列ではなく、動機だ。死んだことのある者が、他人を殺すほどの動機。相当な恨みがないと説明がつかない。あるいは、大儀だと妄信できるほどの目的がなくては。どちらにせよ、とてもじゃないが正常な判断とは思えない。まるで頭がおかしいのだ。そんな狂人なんて、ゴーストと化したレギオンくらいしか心当たりがない……。
そうやって深みに落ちた瞬間、かんぬきが外れ、ドアが勢い良く開かれた。風除室を抜け、半ば四つ足になって階段を駆け上がってきた黒刃は、手すりを掴んで立ち上がると息も切れ切れに唾を飲んだ。
「エーテル陛下じゃ、ないのか。」
鋼が頷く。黒刃は肩を落として息を整え始めた。鋼がほんの少しだけ小さくなって、ぽつりと告白する。
「……根本的に間違ってたんだ。相手の心境を想像しなかった。不信感のために思考を放棄していたのは、誰でもない俺だったんだよ。」
碧眼がしばたいた。黒刃の息遣いの中に同情の気配が滲む。彼がいくつか歩み寄って、慰めるように名を呼ぼうとするのを遮り、鋼は続けた。
「でもね、俺、すごく大変な間違いをしたこと、ちゃんと覚えてるんだ。それを理解して、彼女に謝れたんだよ。自分が傲慢に盲進して人に迷惑かけたこと、ちゃんと理解して謝ったところまで、きっちりと覚えているんだ。」
鋼は呟きながら、ひとりでに踊り出した万年筆が、フェイからの要請の承諾を伝えるのを確認した。次いで黒刃から思い出したように、キースとフエゴの承諾を知らされる。黙り込んだ鋼はしばらく日記やメモを眺めていたが、不意にメモをぐしゃりと丸めてごみ箱に投げ捨てると、立ち上がって黒刃に向き直った。そのまなざしの中に宿った清らかな光に、黒刃はあっけにとられる。
「今日は、すごくいろんなことに気付かせてもらった。今は自分が正しく進めているような気がする。たぶんもう少しなんだ。もう少しのことで、怖いことの全部に向き合える気がする。そしたらきっと…………だからね、もうちょっとだけ、待っててくれる?」
力強い碧眼が、わずかな不安を宿して震える。黒刃は丸めていた目を何度かしばたき、切なげに微笑んだ。
「ずっと愛してるよ。」
穏やかにそう言われた鋼はもう、その言葉の意味を聞き返さなかった。
二人は炎神事件の時と同じように防御服に身を包み、互いに『蜥蜴』と『鯨波』をかけ合った。もう取り返しのつかないハイラという空席を教訓にして、黒刃は拳を開く。道の先と、人の良心に思いをはせて、鋼はピアスを身に付ける。束の間視線を交わした二人は穏やかに目を細め、次の瞬間、守るべきもののためにその瞳をみなぎらせた。
「行こう。」
鋼の言葉を合図に、二つの靴音が鳴る。
『妖狐』に照らされた霊道の中には、乾きざらついた空気が渦巻いていた。二人は互いに何も言わず、ただ近くに感じる相手の存在を確かめながら、砂混じりの岩肌を踏み進んでいる。
ふと、二人の行く先に、霊道の中を赤橙色に染める炎の揺らぎが見えてきた。まもなくそれに追いつくと、澱に覆われた霊道を前に右往左往しているフエゴの姿があった。追いかけてきた二人に気付いたフエゴが振り返って頭を下げる。
「おはようございます、水神女王陛下。この度の初動、実にお見事でございます。心からの感謝と信頼を申し上げます。」
フエゴは水晶と鉄鋼の飾りを身に着け、ベルトからはマキリを下げていた。
「こちらこそ、要請への応答に感謝します。到着が遅れて申し訳ない。お怪我は。」
「ございません。」
即座に返され、鋼は頷いた。
「殿下には、エーテル女王陛下の安全確保をお願いしたくお呼びしました。状況に応じて指示しますが、最優先事項は風神女王の保護だということを念頭においてください。」
「承知いたしました。」
フエゴが再び即答する。鋼はそれを確認すると、黒刃に目をやった。
「今なら引き返すことを許す。」
あえて厳かに放つと、黒刃は首を垂れたまま横に振る。
「お供させていただきます。」
フエゴの手前、分を弁えて言う黒刃に、鋼は息を吐くような声で返した。
裏切り者が王位権限者以外を歯牙にもかけない姿勢をわざわざ明言した以上、ただでさえ立場が弱いうえに左膝の負傷が完治していない黒刃を連れてくることが危険なことは分かっていた。だが、テオドロの死の真相を見極めたいという黒刃の心境を無下にして、安全であろう家に閉じ込めるというのは、ただの執着心だと思えたのだ。それは進むべき道ではないと判断した。だから連れてきたのだろうと、背中の獣が諭すように膨らむ。
鋼は切り替えるように目を強くつぶり、開いた。
「霊道を出たら術を展開するので、使徒に続いて乗り込んでください。川を中州まで下ります。殿下は左舷後方の監視を。前方は私が見ます。」
フエゴの了承を確認し、三人は風神領域へ続く方向に向き直った。『妖狐』とフエゴの炎に照らされた岩壁は、足の踏み場もないほどに澱で汚れている。
鋼はポーチから取り出した聖水の入った瓶の蓋を開けると、多量の聖水で岩肌を撫でた。途端に油のような臭いと煙で視界不良に陥る。それほど澱が密集しているのだ。鋼は即座にガスマスク状の『海月』を呼び、それぞれの口にあてがった。
「主様。」
ふと、黒刃が呼ぶ。二人が彼を見返すと、黒刃は伏し目がちに告げた。
「この煙の臭い、ハイラとまったく同じもののように思えます。」
フエゴは怪訝そうに鋼を見返したが、鋼はそれに構うそぶりもない。その代わり、うわごとのように忙しなく唇を動かし始めた。
澱とハイラが同じ臭いなら、ハイラの出現場所が正にここだと言えるだろう。ここで生まれたなら、すぐ目の前にある風神領域に飛び出してきそうなものだが、エーテルはあの巨大なゴースト以外を見たこともないと言った。ハイラはそうしなかったのだ。なぜか。それはつまり、そちらには出て行くなと命令した何者かが、時を同じくしてここに居たという事ではないだろうか。しかもその後しばらくの間、ハイラが左利きという癖を覚えるまでの長い間、命令者はハイラをそばに置いた。すなわちその時には、母女王キャロディル―ナを襲うように命じられる段階にはなかったという事ではないのか。
ふと思い立って地面を触る。先ほどから靴音に砂が擦れるような音が混ざって聞こえていた。摘まんだ砂粒を『妖狐』で照らし出し、よくよく観察する。と、その多くは角が丸みを帯びたもので、いくつかの粒は透けていた。砂漠の砂の特徴と、つまり、テオドロの足跡や靴底に残されていた砂の特徴と、一致する。
「陛下!」
その時、フエゴが悲鳴じみた声で呼んだ。鋼は瞬時にそちらを振り返った。黒刃が言葉にならない声で呻く音がする。鋼の唇は、怖気に耐えられずひきつった。
フエゴの炎に照らされて、岩壁の凹凸が浮き上がる。そこには巨大な女が、もといその壁画が、繊細かつ写実的に描き出されていた。鋼は震えた。その女というのが、母女王キャロディルーナその人だったからだ。しかもそれを描き出した筆跡が、左利きの特徴を有していたからだ。藤色の瞳でこちらを見つめ微笑をたたえた、青年時代の母女王の座した様が、高さ二メートルほどにわたって描かれている。しかもその腹部、ちょうどハイラが氷柱で突き刺した辺りが、丸く、真っ黒に塗りつぶされている。
不意にフエゴがえずいた。蒼い顔になって後退っていた黒刃がそれに気付き、それでも壁画から目を離せないままでフエゴの背中をさすっている。無理もなかった。この壁画からは、犯行を象徴する腹部の印を差し置いても、何か強烈な執着心のようなものが滲み出ていた。夢見がちで、愛憎にまみれた、嫌悪感の這い上がってくるような印象なのだ。見知った人で、しかも故人であるから、余計にその軽率さが拒否反応を誘う。
ハイラが絵に興味を示した理由がはっきりとしてきて、鋼はますます腕が粟立つのを感じた。母女王殺しの犯人は、確実にここにいたのだ。
だが、辺りをどう見まわしても、似たようなテオドロの壁画は存在しなかった。どうやら、犯人の執着はあくまでも母女王に向けられていたらしい。
そこまで思考してふと、さっきメモに書いたいくつかが自然と思い起こされた。どうしてか家にあったジェダイトへの執着。母女王が言い出せないような人物。そして、母女王がいつも身に着けていたロケットとの、なんらかの関連。
瞬く間もなく、鋼はロケットピアスを取り外した。口元を覆う『海月』を一瞬だけ解除し、ピアスに鼻を寄せる。するとわずかに、油性塗料の臭いがした。知る限り母女王に絵画の趣味はなかったし、鋼は水彩画しか描かないのに。
気付けば鋼はロケットの蓋を開けていた。写真のある面を睨むと、ガラスのはまった金の縁取りとロケット本体との間に、わずかだが隙間があることに気付く。鋼は水で額縁だけを摘まみ、本体から引きはがすように水圧をかけた。軋み変形しないよう、均等に引き上げていく。
と、それまで頑なに抵抗していた力が抜けた。額縁がポロリとはずれ、楕円にカットされた写真の切り縁が現れる。鋼は黒刃を呼び付けて額縁を持たせ、そっと写真を取り除くと、その手を震わせた。獣の影が膨れ上がる。
父兄を映した写真の下には、金属プレートに張り付けられた古い油絵があった。五センチ足らずのキャンバスに、微細な筆で、左利き特有の筆跡で描かれた人物が、琥珀色の目を細めている。ライトベージュの肌には青みがかった黒髪がかかって、蒼い陰影を落としていた。丸みの強調された線で描かれた女性像で、わずかながら母女王に似ているように見える。そしてその胸元には、ジェダイトのような薄緑色のブローチがあった。
鋼の頭の中に、次々と散文が浮かび上がった。奴は霊道に潜まねばならない存在だ。王位権限者であったことがある存在だ。こんなにも執着心を抱いていた相手を殺す計画を立て、さらにテオドロを至近距離で攻撃し、加えて炎神領域に追い打ちをかけるほど、慎重で徹底的な蛮行を行う狂人だ。
テオドロの腕に刻まれていた『SAND』の文字が脳裏をよぎる。あの文字に続くのが人名だとして、しかし残された文献にそんな名はない。
そこまでいけば、裏切り者が誰かという疑問の答えは出たようなものに思えた。あとに残るは最大の問題。すなわち、動機だけだ。
鋼は、興奮に震える指でロケットを組み直すと、疲弊を隠せない様子の二人の方に向き直った。その瞳は、二人とは対照的に爛々として使命に燃えていた。暴くという利己心ではなく、見定めようという決意のために燃えていた。
「急ぎましょう。私の考えが正しければ、目的は殺しではない。この犯行には、先があるはずです。まだ始まってもいない本懐が、これから果たされようとしている。」
その言葉に二人は顔を見合った。だが、一拍の間を置き、覚悟を決めるように唾を飲んで頷く。それぞれの顔つきには、凶行を止めようという強い意思が宿っていた。黒刃はきっと死者たちの尊厳のため、フエゴはおそらくライナの今後のため、そして鋼は道を拓き明日へ進むため。それぞれが風神領域に向かって駆け出した。
しばらく行くと、半固形化した水飴のような澱が霊道の出口を覆いつくしているのが見えた。ドアノッカーも完全に埋まっている。聖水で触れるも、どうやらうまく浄化できないらしい。鋼は二人を下がらせ、聖水の『鎌鼬』で霊道の出口を破壊した。
途端に霊道内に日光が射した。外へ踏み出し『手毬』を呼びながら辺りを見回す。
霊道の出口は、高山植物に覆われた斜面の中腹にあった。下方を見ると、悠々とした渓谷が広がり、そこを浅い川が流れている。対岸には森が広がり、そのずっと奥には蒼い峰々がそびえているのが見えた。空気は乾いているが砂漠地帯のようにざらついてはいない。
鋼は交渉場所に指定された中州を探すため日光を遮ろうとしたが、その時ようやく、太陽が欠けていることに気が付いた。よくよく辺りを観察すると、若干赤らんだ日の光に照らされて物の影が濁って見える。日食だ。何という奇妙なタイミングかと、鋼は肩をさすった。見慣れない光景に、膜が漂い出す時の視界が連想されて気味が悪い。
鋼はすくんだ臓腑の感覚を振り落とすように首を振り、中州を探して再度遠くを眺めたが、下流に向かって張り出た斜面にさえぎられて見つけることはできなかった。
『手毬』に乗り込んだ二人に続き、鋼は手綱を取った。谷には降りず、高さの利を保持して傾斜地を進んでいく。
しばらく行くと、徐々に傾斜が穏やかになってきた。そして渓谷であったものが平野に移り変わり始めた頃、中州が姿を現した。数えるほどの低木と生い茂る草花に染まった中州の中に一点、黒い大きなものと白いドレスが見える。
「ゴーストとエーテル陛下を見つけました。接近します。間合いの中に捉え次第、術を散開させるので、身を任せてください。それまでは周囲の警戒を。」
二人の応答を聞くや否や、鋼は『手毬』の速度を上げた。
間もなく、気を失ったらしいエーテルと、その髪を掴んだまま立ち尽くすゴーストの姿が鮮明に見え始める。
「散開します!」
鋼が叫んだ次の瞬間、『手毬』が分割され、それぞれが三角形の頂点となるように移動した。黒刃が右後方の対岸に立ち、左後方の平野ではフエゴが構える。ゴーストの正面に降り立った鋼は『手毬』を散らし、怯えたように吠えるゴーストと対峙した。ゴーストがエーテルを引きずって向かってくる間もなく、飛んで行った聖水の雨がゴーストに降りかかる。するとゴーストは咆哮と共に煙を上げ、姿勢を崩した。しかし、その巨体を維持したままでエーテルの方に倒れ込もうとしている。とっさに巨体を支えようと川の水を展開した鋼は、のしかかったその重量に目を丸くした。聖水に触れて通常なら気化するはずの体に、まだ質量がある。浄化した澱の内側にあったらしい外骨格のようなものに、展開した水が触れている。
水に支えられたゴーストの直下に横たわるエーテルの安全を確保しようと、フエゴが飛び出しそうになった。慌ててそれを制止し、鋼はゴーストの残骸をじっと見つめた。次第に煙が晴れて、ゴーストの外骨格が、もとい厚みのあった胴体部分に隠されていたらしい大きな卵型の物体が現れる。突如現れた正体不明な物体への驚きに二人はあっけに取られていたが、鋼だけは引き結んだ唇を震わせていた。
背中で膨らんだ獣が揺らいでいる。その落ち着きのない動きに促されるように、鋼は口を開いた。
「姿を見せろ……雷神の女王よ。」
その瞬間、鮮烈な閃光が走った。焼け付くような白い霹靂の後に赤紫色の残影が広がる。間髪入れず次々とまたたく空に、三人はたまらず顔をしかめた。だが雷に反して、鳥の声もないほど不気味な静寂が辺りを満たしている。
不意にその中で響きだした音を捕らえ、三人はほとんど同時に卵型の物体の方を注視した。音の正体が拍手だと鋼が勘付いたその時、卵のような物の表面に甲羅模様のような割れ目が走り、その中の一つの六角形が、バコンという音と共に飛び上がった。
途端に空を裂く閃光も、こもっていた拍手の音も止まる。吹き飛んだ卵の殻が地面に落ちて、ガォンと低く鳴った。卵に空いた穴からは蒸気が上がり、欠けた太陽の光がそれを赤く染めている。卵のような物を挟んで太陽と向き合っていた三人は、蒸気の中に立ち上がった小柄な影を見つけ、とっさに低く構えた。
「素晴らしい!」
突如、少年のような澄んだ声が影から聞こえた。影が両手を広げるのにしたがって、上がっていた蒸気が散っていく。
蒸気の切れ間から、卵のような物を踏みつけたデザートブーツと小麦色のマントが垣間見える。飴色の革手袋がごつごつとしたデザインのゴーグルを押し上げると、薄いそばかすのある生白い肌と琥珀色の大きな目が姿を現した。青みがかった黒いショートヘアが風に乗って揺れる。
ただ一つ、ブローチが割れているか否かを除いて、それはロケットの中の油絵そのものだった。琥珀色の目は鋼を捕らえると、演者のように全身で歓迎を表した。
「会えてうれしいよ、ニェフリート。聖水の扱いもお手の物とは、やはり早熟だね。」
そう言って柔和な笑みを浮かべ、卵から飛び降りて来る。急に距離を詰める少年とも女とも言い切れない姿に、鋼は身構えながら後退った。地面に降りた人物ははたと動きを止め、きょとんとしたのち寂しそうに笑う。
「そう硬くならないでおくれ。僕は君のいうところの裏切り者かもしれないけれど、君たちの敵ではないのだから。」
そう言うと、細身の体を伸びあがらせ鋼の後方を見た。そして二人にも見えるように両手を高く掲げる。
「分かるかな、諸君! 君たちは敵という言葉が、いかに狭義的で危険な記号であるか、理解しているだろう! 武装を解除しておくれ! 話し合いをしよう! 僕はそのために来たのだから!」
二人が怪訝な顔になってお互いに目をやり合うのを感じ、鋼は静かに、だが強い声で言った。
「エーテルを開放してもらう。」
「もちろん、約束通り五体満足で返すよ。すでに君と話す機会は得られた。これ以上連れまわすのも気を遣うのでね。ぜひ連れて行っておくれ。」
あっさりとそう放ち、黒刃やフエゴに向けて手を振っている姿に、鋼は声を低くし、重ねて尋ねた。
「本当にお前が、最後の雷神女王か……?」
すると、彼女は手を上げたまま頷く。鋼は数秒の間沈黙し、顔を上げると同時に右手を上げた。黒刃が構えを解く。そちらを見たフエゴも、少しためらうように脚を踏んだ後、両手を降ろした。
三人の攻撃姿勢の解除に、雷神女王が両腕を下げて応える。鋼は即座に手を振り捌き、『塗壁』を呼んだ。
「お前を今すぐ攻撃したり追放したりするつもりはない。だが拘束はさせてもらう。」
「構わないよ。口さえ利くことが叶えばそれで十分さ。」
『塗壁』を拘束衣のようにまとわせ、両腕を背後で固定し脚だけを自由にさせる。彼女が厳重だなと言って笑うのを無視し、鋼は黒刃にエーテルを保護させ、フエゴの方に合流させた。鋼の左後方で、エーテルを抱えてしゃがんだフエゴを黒刃がかばう位置取りになる。念のため、黒刃に地神神技での拘束を頼むと、雷神女王の太もも辺りまでが大地の中に沈み込んだ。
深い息が一つこぼれる。鋼はまっすぐに琥珀色の目を見つめた。その深い色は爛々とした輝きを抱き、一直線に鋼を見つめ返している。何かに似ている。どこかで見た誰かの目に似ている。だが、どうにも今は思い出せないようだった。
鋼は幻想界中にスピーカー状の『鯨波』を呼び、口を開いた。
「水神女王ニェフリートが問う。今から行われる尋問に対して、真実をもって答えるか?」
「もちろんです。犠牲となった尊い命と、何より未来を担う貴女方に誓います、女王陛下。」
彼女は至極真面目な顔でそう言ってのける。
「ではまず、その名と立場を簡潔に、ここに明かせ。」
鋼が低く告げると、彼女は顔を上げてうっすらと微笑んだ。
「種族名をサンドラ。一九五一年、全神会議の決定で追放刑を下された、雷神の女王だ。」
朗々とした返答に聴衆はどよめいていたが、鋼はそれに耳を貸してはいなかった。サンドラの目に宿った何かの正体を見極めようとすることに集中しきっている。
「なぜ戻った?」
鋼が加えて尋ねると、サンドラはよくぞ聞いてくれたと嬉しそうに頬を高揚させ、上目遣いで鋼を見つめた。
「人類と他生物の協和共存について、ある提案をしに。」
ピリピリと空気が震える。欠けた太陽が、空を塗りつぶす赤を色濃くしていく。悪寒を押し殺し、鋼は喉に張り付く声をひねり出した。
「では問おう。何をもって、人類と他生物の協和共存とするのか。」
「人類を自然として許容できる状態に戻し、かつ環境破壊をもたらす規模の戦争を根絶する。これが定義だ。」
よどみなく定義で答えたサンドラに、鋼は思いがけず浮足立った。
司会者も行程も存在しない議論というのは多くの場合、混沌とした持論の押し付け合いになる。相互に発言は都合よく解釈され、持論を正当化するための材料とされるばかりで、結果として互いの主張への理解が深まることはまれだ。が、サンドラは今、鋼の問いの意図を正しく汲み答えた。初対面でこんなにも言葉が素直に通じたのは、鋼にとっては初めてだった。その上、定義の内容までもが、ほとんど鋼自身の発想そのままなのだ。運命とでもいうべきか、彼女との間においては、時間をかけて価値観のすり合わせをする必要を感じられない。
サンドラの目が誰に似ているのか。その答えが思ったよりも早く判明して、鋼はうろたえた。鏡に映った自分の目だ。サンドラは自分とよく似た発想を元に、凶行への動機を展開しようとしている。
「……手段は?」
鋼は声の震えを抑えて問うた。サンドラはその胸中などつゆも知らぬ顔でにこやかに放つ。
「僕は二つのことを遂げねばならないと考えている。一つは加速しすぎた科学技術の殲滅だ。もう一つは人類に、種の健全化を促すことだ。」
またもや予想に近い返答を受けて、鋼の背中では獣が膨れ上がる。今や鋼と獣のどちらもが、サンドラの主張に興味を抱きだしていた。だが、さすがに警戒心まで失ってはいない。鋼は二度ほどまばたきをして前のめりになるのを堪えると、
「前者から詳しく聞こう」と呟いた。
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