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『求道のマルメーレ』#14 第六編 命の形(一)

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第六編 命の形(一)

 木陰にはところどころ雪の名残があったが、大地は夏にむけて準備を始めていた。目に沁みるような新緑が、太陽に向かって手を伸ばしている。
 土の付いた鍬を家の壁に立てかけて、黒刃は鹿肉のサンドイッチを食べていた。柔らかいロースト肉に絡んだコケモモのソースが、肉汁と混ざって溢れ出る。頬に付いた紅色を拭いながら、黒刃は満足げに頬を緩ませた。
 丘の東の方から、雪解け水が集まってできた小川のせせらぎが聞こえる。平年通り六月になれば、丘一面にルピナスの紫が咲き乱れるだろう。
 今年は鋼と花見をするのは叶わないかもしれない。黒刃は崖へ続く平原を眺めながらそんなことを思った。今回の公務では南部一帯の訪問に出て、帰宅が実に二週間ぶりだ。次は北部を目指すと言っていた。それが島の最南端に位置する家からどれほどの旅路になるのか、行ったこともない黒刃にはわからない。
 それでも黒刃は、太陽のかけらをばらまいたような平原の輝きが待ち遠しかった。真っ白いネグリジェを着て、黄色い花畑の中を裸足で舞った鋼の姿がいまだに忘れられないのだ。待つことの寂しさよりも、待てることの喜びが勝っていた。
 最後の一口をたっぷりと味わい、日向に足を突き出すような伸びをする。できたばかりの畝をぼんやり眺めているうち、黒刃は瞼が重くなっていくのを感じた。呼吸が深くなって、首が少しずつ垂れていく。
 その時、丘の上で何かが光った。黒刃はパッと目を開けてそれを凝視した。波打つ球体の上半分が尾根から顔を出したのを認めた瞬間、端材で作った椅子から立ち上がる。
 『手毬』はいつもと同じように、地面から少し浮いたまま丘を駆け下ってきた。乱反射で散らばった光が、早くも丘に色とりどりの花を咲かせたかのようだ。黒刃は畝の間を通って、彼女から見えるところまで進み出た。
 ちょうど『手毬』が小道に着く。途端に水の球が解け、中から鋼が飛び出した。その後ろを、のそのそと出てきたハイラが追いかける。黒刃を見つけるなり手をぶんぶん振り回して顔をほころばせた鋼に、手を上げて応えた。次第に足音が早くなる。
 あっという間に近付いてきた鋼は両手を広げ、飛び込むように黒刃に抱きついた。衝撃を回転で受け流すと、鋼のカーディガンの裾がはためく。鋼は黒刃の胸に耳を押し付け、脈動を確認するように黙り込んだ後で、はにかみと共に顔を上げた。
「ただいま!」
「ん、おかえり。」
 背中を軽くたたけば、鼻にかかる笑い声を漏らす。その頭を撫でていると、追いついてきたハイラが首を突き出してそれをのぞき込んできた。付いて来いと言われた通りにしているだけだろうとは分かっているが、思わず顎を引いてしまう。
「……ハイラ、二歩後ろに行け。」
 はっきりと発音すると、ハイラは少し間を置いて、正確に二歩後退った。疑り深くそれを睨み、しばらくしてから鋼に視線を戻す。
「今日は? ゆっくりできそうか?」
 何事もなかったかのような声音で聞くと、丸くなった碧眼が視線をあっちこっち泳がせた。そして、黒刃に向かって目を細める。
「書類まとめたら、今日は休もうかな。明日は霊道の見回りに行くから、朝はそんなにのんびりできないけど。」
「分かった。先入って作業してて。終わったら戻る。」
 黒刃が畑の方を指差して言うと、鋼は手を伸ばして彼の髪を撫でた。いつものように黒刃の頭がしな垂れる。
「頑張ってね。『蜥蜴』いる?」
「いや、もう力仕事はないから平気。」
「ん、じゃあ後でね。」
 黒刃の下げられた頭から鋼の手が離れていく。黄色い瞳がそれを追いかけ、流れで鋼のこめかみに口付ける。嬉しそうに伏せられた藍色のまつ毛に目を細め、鋼の背を押して黒刃は小さく手を振った。鋼が笑顔で手を振って応じると、ハイラがその後を追う。
 途端に黒刃はムッとして、とっさにそれを呼び止めた。ハイラが立ち止まり、フクロウのようにその首だけを黒刃に向ける。
「こっちを手伝え。」
 やれやれとため息をつき、黒刃は手を招いた。ハイラの頭がしばらく考えるように左右に揺れ、その眼孔が許しを請うように鋼に向く。
「いいよ。黒刃に従って。」
 鋼がそう返すと、ハイラは水でできた義手をぶら下げて、畑に向かう黒刃にのそのそと付いていく。黒刃はそのたどたどしい足音に少しの同情と若干のいら立ちを覚え、ほとんど無自覚に唇を力ませた。

 月明かりを頼りに、手入れの行き届いた爪が頬にかかった黒髪をはらう。くすぐったそうに呻き声を上げてなお眠る黒刃を、鋼は実に愛おしそうに眺めた。
 ふと壁掛け時計を見ると、時針がもう五時を差そうというところだ。その直下の張り紙には自分が昨日の夜に書いたはずの「五時、起床せよ」の文字がある。
 名残惜しそうな顔を浮かべた鋼は、黒刃を起こさないようにそっと掛け布団の中から抜け出た。瞬間、背筋を悪寒が這い上がる。大げさなまばたきを何度かして、枕元のカーディガンを羽織った鋼は、ベッドから降りようと四つん這いで布団を横切った。木製のフレームが微かに軋む。
 右手が黒刃をよけて通ったちょうどその時、黒い寝間着に包まれた左腕が鋼のわき腹を抱え上げた。バランスを崩しベッドの上に逆戻りする。気付けば眼前にあった胸に抱き寄せられ、鋼は思わず頬を緩ませた。
「おはよう……もう時間?」
 たどたどしく紡がれた音が頭上から聞こえる。頷くと、黒刃は鋼の髪をゆっくり撫でた。深い呼吸に合わせて黒刃の胸が上下するのが、布団越しにもよくわかる。
「まだ眠いんでしょ。いいよ、無理に来なくても。」
「いや、起きる。一緒に行く。……一分待って。」
 ぐずぐずと返事をする黒刃に、鋼は
「はいはい」と言って上体を起こした。
 黒刃の体を乗り越えて、コップ一杯の水をあおる。再び注いだ水をベッドサイドテーブルに置くと、鋼は水差しの横に置いてあった金色のロケットを手に取った。ペンダントからロケットだけを取り外してピアスに加工したものだ。蓋の縁を指の腹でなぞっていると、やっと起き上がった黒刃が覗き込んできた。
「中身、何だったの?」
 そう問われて、鋼は小首を傾げる。
「あれ? 見せてないっけ。」
 間抜けにもそう言うと、黒刃は頷きながらコップに口を付けた。鋼は困り顔を浮かべてチャームの右側にある突起を押した。カチリと精密な音がして蓋が浮き上がる。
 蓋を開けると、月明かりに照らされてうっすらと中身が見えた。金の額縁に押さえられた、モノクロのツーショット写真だ。微笑みを浮かべる短髪のこどもと、波打つ髪を三つ編みにして流した男が佇んでいる。黒刃はそれをじっと見つめた。
「こっちの人、誰?」
 尋ねる指先が左側の男を示す。その彫りの深い顔立ちと力の強い目を、燃えるような赤いブローチを、鋼は確かに覚えていた。
「俺の父様。炎神王だったから、メリッサ女王陛下のお兄様だね。」
「そうか。たぶん直接は会ったことないな。」
 黒刃がそれだけ言って、大きく伸びをする。その姿に鋼は目を丸くして、飛び付くように言った。
「男の子の方、誰だか知ってるの?」
 黒刃が両腕を上げたまま鋼を見下ろす。そしてそのまま何度かまばたきをして息を呑んだ。
「冗談だろ。」
「誰、この子。」
 つんのめって聞くと、黒刃は苦い顔をした。しかし鋼は引かなかった。しばらく見つめ続けると、黒刃がようやく気まずそうに目をそらす。
「……お兄様だよ、鋼の。」
 そう言われた瞬間、鋼の気迫は栓の緩んだ風船のようにしぼんだ。黒刃が続けて言う。
「彼は神技が覚醒する前に現世界で事故死してしまった。だから幻想界にはいないんだ。」
「……神技未覚醒児なら、なんで種族の違う彼と面識があるの。略式継承者になるまで、他種族との交流はしないものでしょ?」
 鋼は唇に力が入るのを感じた。黒刃は少し言い淀んだが、やがて口を割った。
「順当にいけば、俺の元主人の婿王になるはずだったんだ。フェイ様とフィーネ様は、ほらその、『異心同体』っておっしゃってたけど、二人で幻想界に来てしまったから色々ごたついて……前地神女王陛下のご提案でお顔合わせが早まったんだよ。」
 鋼は情報の渦をいなすために息を吸い込んだ。その額に、無意識に右手が伸びる。こめかみを薬指が這い、親指が眉間に差し掛かった。
 神技未覚醒児の事故死。文献を漁って見当たらなかったのはそのためかと眉根を寄せる。神技を持たない者は神ではなく人であるがゆえに、幻想界において一切の権限がない。つまりハイラに命令を出すことはできない。鋼は頭の深いところに刻みながら、記憶力の限界を感じて唇を噛んだ。
 みぞおちに渦巻いた焦燥感に獣が目を覚ます。なぜ母女王は、最期に誰と会話していたのかを言わなかったのだろう。脅されてか、それともかばうような相手なのか。ロケットを渡した真意は、一体何なのか。そもそも女王殺しの動機は怨恨か狂乱か、はたまた天誅なのか。何も分からない。情報が少ない上に、すでに何かの記憶を失っている気さえする。
 その時、不意に鋼の顔が上がった。水蒸気が揺れる。黒刃は一階から鳴り始めた筆音に気付いて立ち上がった。とっさにその袖を掴み、黒刃を待機させる。鋼は水のステップに乗ると音もなく部屋の端まで滑り、吹き抜けから一階を見下ろした。
 ちょうど真下にローテーブルが見える。ハイラは『雨蛙』に包まれて、静かに暖炉の脇で座っていた。テーブルの上で筆音を鳴らしているのは万年筆だ。窓から射しこんだ月光が、ひとりでに動くその影を長く伸ばしている。
 鋼は黒刃を手で招きながら足早に階段を下りた。追ってくる足音を聞きながらテーブルに駆け寄る。万年筆はその中心にある金属のリングを軸に激しく暴れながら、木目の上に文字を書いていた。

——私たちは年を取りすぎてしまった 森が燃えている こどもたちを救ってくれ——

 そこまで書き切って、万年筆は跳ねあがり床に落ちた。
 即座に鋼が振り向く。
「熱帯だ。正式な要請とみなし、私も救援に行く。トレーニング用のボディスーツと難燃性のジャケットに着替えて、救急バッグも持ってきて。」
「了解。」
 矢継ぎ早に伝えると、瞬間的に二階へ飛び返った黒刃に背を向けて、鋼は干してあったベルトポーチをひったくった。中に小瓶をいくつかとスケッチ用具を詰め込む。
「鋼!」
 呼びながら黒刃が、ボディスーツを一着投げて寄こす。鋼は空中を舞ってくるスーツを水で手繰り寄せる間にネグリジェを脱ぎ捨てた。スーツを纏うと、関節のよれを整えてコルセットで体幹を絞める。ロケットペンダントのピアスを左耳に刺し、洗面所のクロゼットからは女王服を引き出した。純白のシャツに胸元飾りのジャボを取り付け、その根元にトルマリンのブローチを留める。
「これでいいか。」
 階段の上から振って来た声に振り向いた鋼は、黒刃の消防士のような風貌に首を縦に振った。
「状況が分からないから、水は多めに持っていって。」
 頷いた黒刃が階段を駆け下りる。鋼は黒刃から受け取った革製の救急バッグを背負い、勢いよくオオカミの毛皮のコートを羽織ると、暖炉の横でしゃがんでいるハイラに向けて、自分たちが帰宅するまで侵入者を警戒して待つように命じようとした。
 だがハイラを見返った瞬間、鋼には、ハイラがふっとこちらを仰ぎ見たように思えた。いや間違いなく、まるで人間と同じように、どうしたのと首をかしげて鋼を仰ぎ見ている。
「……ハイラ、一緒においで。」
 鋼はとっさに手を招いた。途端にバックパックに水を詰めていた黒刃が、ぎょっとして振り向く。
「危険なんだろ。お荷物になるかもしれないし、置いてった方がいいんじゃ……」
 だが鋼は、至極当たり前のような口調で言った。
「いいの。試験データは全部報告済みだし、また癖が見つかったとしても、それがここでの生活由来か裏切り者由来か、もう見分けがつかない。それに、ただ閉じ込めて家に置いてたって、彼、何もできないままだ。機会があるなら、いろんなものを見せてやらなくちゃ。」
 ペタペタと足音をたてて鋼のもとに歩み寄ったハイラは、いつもと寸分たがわぬ猫背で鋼の次の命令を待っている。重たくなった鞄を背負った黒刃は何か言いたげに唇を動かし、やめた。
「『蜥蜴』と『鯨波』お願い。」
 鋼が命じると、黒刃が静かに従う。こめかみに指を当て、いつものように明瞭に口を動かした黒刃の指先は少し冷たかった。鋼がその手を取る。そして黒刃の目を見つめると、彼の薬指に爪を立てた。爪痕に沿って皮膚に赤みがさす。
「いいね。」
「……あぁ。」
 鋼はぎこちない表情を浮かべる黒刃の手を離し、革の手袋を両手に着けた。ランタンに押し込んだ『妖狐』が光る。
「行こう。」
 鋼の硬い靴底に続いて、足音が二つ鳴った。

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