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『求道のマルメーレ』 #21 第七編 雨後の道の先(四)

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第七編 雨後の道の先(四)

「ではまず、その名と立場を簡潔に、ここに明かせ。」
 鋼が低く告げると、彼女は顔を上げてうっすらと微笑んだ。
「種族名をサンドラ。一九五一年、全神会議の決定で追放刑を下された、雷神の女王だ。」
 朗々とした返答に聴衆はどよめいていたが、鋼はそれに耳を貸してはいなかった。サンドラの目に宿った何かの正体を見極めようとすることに集中しきっている。
「なぜ戻った?」
 鋼が加えて尋ねると、サンドラはよくぞ聞いてくれたと嬉しそうに頬を高揚させ、上目遣いで鋼を見つめた。
「人類と他生物の協和共存について、ある提案をしに。」
 ピリピリと空気が震える。欠けた太陽が、空を塗りつぶす赤を色濃くしていく。寒気を押し殺し、鋼は喉に張り付く声をひねり出した。
「では問おう。何をもって、人類と他生物の協和共存とするのか。」
「人類を自然として許容できる状態に戻し、かつ環境破壊をもたらす規模の戦争を根絶する。これが定義だ。」
 よどみなく定義で答えたサンドラに、鋼は思いがけず浮足立った。
 司会者も行程も存在しない議論というのは多くの場合、混沌とした持論の押し付け合いになる。相互に発言は都合よく解釈され、持論を正当化するための材料とされるばかりで、結果として互いの主張への理解が深まることはまれだ。が、サンドラは今、鋼の問いの意図を正しく汲み答えた。初対面でこんなにも言葉が素直に通じたのは、鋼にとっては初めてだった。その上、定義の内容までもが、ほとんど鋼自身の発想そのままなのだ。運命とでもいうべきか、彼女との間においては、時間をかけて価値観のすり合わせをする必要を感じられない。
 サンドラの目が誰に似ているのか。その答えが思ったよりも早く判明して、鋼はうろたえた。鏡に映った自分の目だ。サンドラは自分とよく似た発想を元に、凶行への動機を展開しようとしている。
「……手段は?」
 鋼は声の震えを抑えて問うた。サンドラはその胸中などつゆも知らぬ顔でにこやかに放つ。
「僕は二つのことを遂げねばならないと考えている。一つは加速しすぎた科学技術の殲滅だ。もう一つは人類に、種の健全化を促すことだ。」
 またもや予想に近い返答を受けて、鋼の背中では獣が膨れ上がる。今や鋼と獣のどちらもが、サンドラの主張に興味を抱きだしていた。だが、さすがに警戒心まで失ってはいない。鋼は二度ほどまばたきをして前のめりになるのを堪えると、
「前者から詳しく聞こう」と呟いた。
 風が荒ぶ。太陽が刻一刻と痩せていく。ややあって、サンドラは息を吐くように話しだした。
「二〇世紀以降の急激な技術革新によって、人間は神まがいの力を手に入れた。そして、自らの認識範囲から遠く離れた地や、自らの寿命よりもずっと先の未来にまで多大な影響を及ぼせるようになった。つまり、自分の行動によって発生した結果を、見ないことができるようになってしまったんだ。以来人間は自分たちの姿を直視しなくなった。やがて自らの行いに責任を取ろうともしなくなった。集団に属することで個としての思考を放棄し、我こそは清廉潔白な正義たる強者であるという集団思考に依存することによって、人はついにどんな残虐な行為も厭わなくなったんだ。」
 サンドラのひそめられていた眉が束の間緩み、再び八の字に寄る。
「今や人類は、何の覚悟も実感もない指先の動き一つで、自分たちの平和だけでなく万の種を脅かすことができてしまう。その姿はもはや害悪に他ならない。だが、超知覚的な技術を殲滅すれば、人は自らの行いを顧みることができるだろう。地球そのものや他生物への関心を回復させ、同時に戦争を小規模化させられる。」
 サンドラの主張はやはり、飲み込むのに何の苦労もいらなかった。琥珀色の目に宿っていたのは、思考を放棄した人間への嫌悪感だ。同じ感情を知っている。だが鋼はそれを認めたくなかった。認めてしまったら、数々の凶行さえも受け入れることになるような気がして恐ろしかったのだ。だから愚かしくも、本心と乖離した質問を投げた。
「科学技術は動物的に無力な人類が進化した結果で、生存手段、あるいはその生態では? なぜそれが自然現象ではないと言い切れる。」
 すると、サンドラはわずかに目を見張った。そしてやがてクスリと笑う。悪あがきに気が付いたのだろう。サンドラの笑みは次第に、子供のいたずらをあえて見過ごすような苦笑に変わっていった。
「質問に質問で返すようですまないが、君は最先端のAIや精密機器なんかを、この幻想界で使いたいと思ったことがないだろう。それはなぜだと思う? 代わりに答えよう。必要がないからだ。たとえ神技がない人間だって、十九世紀までの技能で生活は十分豊かたりうる。それ以降の機械への依存はただの怠慢だよ。君は覚えていないのかもしれないけれど、僕は一五〇年の間、霊道から全てを見ていたから知っている。必要不可欠な知識と必要十分に徹する慎ましさがあれば幸福に生きることはできると、そう説いたのは君だろう、ニェフリート。」
 シアンブルーの瞳がしばたく。動揺を見透かすような目でサンドラは笑った。
「一例をあげてみようか。エレメント神の操作対象は、体内に取り込むことで決定されることが分かっているね。君たちも継続的に操作対象を摂取するよう教育されてきただろう。地神は長い年月をかけて地上の全ての鉱物を摂取してきた。だからそれらを操作する能力を有している。だが、合成樹脂を扱うことはできない。鳥が翼を得て幻想界にいることと同じように、合成樹脂が人類の存続に必要な進化であったというのなら、それは我々にだって必要なはずだ。誰かが幻想界で作り出し、地神はそれを摂取しているはずだ。だが現実には違う。つまり合成樹脂は、人類に必要な進化の結果ではないんだよ。」
 サンドラの笑みは、言葉を続けるにつれて陰りを増していた。憂いと哀れみの陰りだ。鋼にはその様が、俗世を見つめる神そのもののように思えた。
 サンドラが続けて言う。
「もし人類がもっと思慮深ければ、超知覚的な技術が発達しても問題はなかったろう。だが実際には、ホモ・サピエンスという言葉が皮肉に思えるようなありさまだ。今の人間の営みは、特権階級や現役生産世代にとって有益な部分だけが極端に速い。とても限定的で、盲目的なんだ。もはや彼らの社会活動は、光速を認識できる僕にとってさえ目まぐるしい。他者への配慮とも程遠い。それを君たちは、いまさら一体どうやって環境に適応させるというんだい?」
 伏せられていたサンドラの目が持ち上がって碧眼を射抜く。
 鋼は言い返すべき点がどうにも見つけられなくて、仕方なく顎を引いた。ずっと考えているつもりだった己でさえ、他者の想いにはひどく無関心だったのだ。数十年の経験しかない人間に、それも思考を放棄した者たちに、どうやって自らの無配慮を改めろというのか。そんな方法はとっさに思いつくわけがなかった。だからこそサンドラの主張は、確かにもっともらしい解決策のように聞こえた。
 ふと、陰りゆく空を視界の端に認める。太陽はもう、かなり欠けてきていた。
「……おおむね理解した。後者は……人類に種の健全化を促すだったか? 聞こう。」
 鋼が唸るように言うと、サンドラは不敵に笑った。どうやら反論できないこともばれているらしい。彼女の方が一枚も二枚も上手なように思えた。
 笑っていたサンドラの口が、一瞬力み、そして開かれる。
「西暦二一〇六年現在、地球人口は百億余りに膨れ上がった。だがもはや、その約八割は自ら思考を放棄した劣等種だ。かれらは第一に、他者への配慮というものが欠けている。だから、自らが数的有利である状況を保守するためならば、残った二割の優良種を迫害することもいとわない。かれらは第二に、非常に安易で怠惰であり、そして強欲だ。それゆえ優良種と比較して異常な繁殖力を有している。結果として、相対的にも絶対的にも、優良種よりも劣等種の方が平和を脅かし環境を消耗しているんだ。人類としてはこれ以上ない不健全さだよ。だから、歴史的あるいは後天的に劣等な人種を絶滅させる。ただ唯一、劣等種による後天的な劣等教育を阻止し、進化の可能性を持つ子供たちと、かれらを健全に育てうる歴史的に優良な人類を生かすことの継続のみが、言語を超越した相互理解、すなわち他生物との協和共存への希望なんだ。」
 こちらを捕え続ける爛々としたまなざしに怖気が走る。膨らみすぎて身を乗り出した獣の影は、必死になって鋼の背中にしがみついているようだった。サンドラの主張に同調しそうになる己を律するのに必死なのだ。鋼は静かに奥歯を噛み、わずかに眉をひそめた。
「お前はまた、優生主義を蒸し返す気か。それが今まで何度、人に残虐な発想を与え、おぞましい手段を取らせてきたか知っているだろう。」
 サンドラは再び苦笑した。
「種の健全化を求めるのは自然なことだろう? それは生物の本質だよ。ただ、二十世紀の優生思想には重大な誤りがあった。それは優良を一部の人間が定め、かれらが劣等としたものをかれらの手で排除しようとしたところにある。種の健全化を語るのに気を付けなければならないことはただ一つ。それは生き残った人間に、自分たちは優良だなどと思わせないことだ。そう実のところ、排他的で暴力的な共存の放棄を選択したかれらこそが、排除されるべき劣等種だったんだよ。」
 穏やかにそう言い放ったサンドラの小さな体が、次の瞬間、挑戦的に前のめりになる。
「だが、神は違う。例えば洪水が街を襲った時、気まぐれに人を生かす。その現象にだれが異を唱えるだろう。いいや、唱えられないね。なぜなら、そもそも水害であんなにも大勢が死ぬようになったのは、暴れ川の岸辺にすら住まなければならないほど人間が増えたせいだからだ。」
 強まっていく語気と共に、『塗壁』を押し広げるようにサンドラの体が力んだ。抑えつける水圧を高めながら、徐々に水温を下げる。
「それなのに、劣等種どもは洪水の意味も利益もろくに考えず、混凝土やら土嚢やら、その場しのぎの策で河川の氾濫を徹底的に封じ込んだ。だから本来循環すべきものが川に貯め込まれる。それに影響を受けて生態系が乱れ、その結果藻だの虫だの獣だのが増えれば、害だとのたまって薬で土地や川を汚す。それが人間だ。そのくせ愛着が湧いたとかいう身勝手な価値基準で生態系保護を語る。たまたま選ばれた一種を守るために、他の生物たちがどんな影響を受けるかもろくに考えず、自分は慈愛を施している清潔な人間だと思い込みたがるんだ。歪んだ正義感と自己肯定感を満たすために無口な自然を利用する。それが今の人間だ!」
 サンドラの少年のようだった声が一変して低く轟いた。獣が興奮してぶわりと大きくなる。その昂りに抑えられて、何とか『塗壁』を掴み、サンドラの前傾した体を引き戻す。鋼はかろうじて自制を保ちつつも、人間に対する不信と嫌悪が再燃し始めていることを実感していた。サンドラは一つ深呼吸をすると、『塗壁』の誘導に従って姿勢を正した。
「……とにかく、資源や良好な土地を取り合わなくて済むまで、そして思考を放棄して生きることが難しい程度まで、人類は数を減らさなければならない。そうでないと闘争は終わらない。恨みの連鎖とかいう感情論でもって戦争を語るやつらはとどのつまり、誰しもの中にある排他的な精神を認めようとしないんだ。己を正しく評価することもできない者たちに、他者への配慮の心など育ちはしない。神によって平等に与えられた試練をそれと知らず乗り越え、知恵の継続によって生き残った人類が、厳粛かつ堅実に躍進した先にこそ希望がある。今現在、優良種の中にごく少数ながら存在する超越種、すなわち最も相互理解に近い者たちが、ただ特異な人という評価から脱し、世代を超えてその能力をつないでいくことで、人類はようやく真の霊長として返り咲く。そして、生まれ落ちるこどもたちに、健全な未来を手渡すことができるようになるんだ。」
 そう唸ったきり、サンドラは押し黙った。
 あまりにも似すぎていた。鋼には彼女の憤りも、憎しみも、情けなさも、すべてが理解できた。サンドラだって、人間だったころからこうだったわけではないだろう。自らが忌み嫌う人間として生きていた頃は、間違っていると思いながらも社会に属すしかなかったはずだ。その屈辱が、鋼には痛いほどわかる。主張を形にして世間に出してみたところで、大衆は同じ言葉を復唱しつつも、自らを省み行動を変えることはしなかった。生涯かけて抗っても、世直しなんてできなかった。
 人はそうやすやすとは変わらない。社会は八割に牛耳られている。そんな八方ふさがりの状況にぶち当たってしまったら、神技という抗いようのない強大な力でならあるいはと、そういう発想が生まれてもおかしくはないように思えた。
 鋼は今や、サンドラに対する恐れより、同情に心を満たしていた。その唇が、静かに開かれる。
「一つ問おう。お前の主張の根幹は、今の人類が自然的でないという持論だな。では何をもって自然とする。強い生き物が弱い生き物を淘汰していくのは自然なことではないのか。」
 尋ねると、サンドラは先ほどまでの興奮から一変して冷静そうな顔つきになった。乱れて顔の前に垂れた髪を、頭を振って掃いのけ、言う。
「今の人間を捕食できる動物はほとんどいない。遺体にしたってもう埋葬する土地が残っていないものだから、そのほとんどが火葬だ。分かるだろう。人間は循環していない。生態系における強者とは全く意味が違う。奪い消費するばかりで環境にはほとんど何も与えないんだ。」
 サンドラはそう言うと、不意に顎をしゃくって霊道の方を示した。
「いい加減、霊道から目を逸らすのはやめて、現世界を直視してみるといい。コンベアのようなシステムにぶら下がっただけの、取り換えの効く人間が大勢いる。彼らは働きアリどころか、社会からすればただの歯車だ。壊れたら取り換えるというだけのパーツだ。あのような個として考えようとしない脳みそに、はたして限りある資源を消費するだけの価値があるだろうか。さらに悪いことにかれらは当然、自分が優良な貧困層から資源を奪っていることを自覚しない。自分では到底使いきれないほど多くの資源を病的に囲い込んで、端から腐らせていることにさえ気付いていないのさ。」
 琥珀色の瞳には嘲りが滲んでいる。サンドラは続けざまに苦悩の混ざった微笑をたたえて言った。
「すべては、死という現象が人間にとって遠くなったから始まったことだ。生物としての生きる努力と喜びを、今の人間たちは知らない。正しい命の価値を知らない。死や痛みに対する過剰な恐れ、あるいは美化や極度の無関心もそれと同じことだが、今の人間が死や痛みから隔絶されているからこれが生じるんだ。死はもっと現実的で身近なことだ。超常の救いなんかじゃない。痛みはもっと刹那的で必要なことだ。排除されるべきものなんかじゃない。そんな当たり前のことを、人間は忘れてしまった。」
 背中の獣の昂りが、同情のためにしぼんでいく。鋼は眉が切なく寄りそうになるのをグッと堪えた。それをサンドラが睨んで続ける。
「死を経験した我々には、地球の守護神としてその圧倒的な自然の力を用いて、人類が他種と同等に一個の星の上に立っているにすぎないのだという事実を知らしめる義務がある。不条理で無情な死という手段で、人類を啓蒙するんだ。そうでもしなければ人間は変われない。何せ人類史上一瞬たりとも、違いを受け入れ互いを認め合う世はやってこなかったのだからね。」
 そう言い終えたサンドラは、静かに口を引き結んだ。確かに彼女の主張を理解するのに、もうそれ以上の言葉は必要なかった。
 だが鋼は、唯一残された疑問のために口を開いた。
「そのために、神を殺したのか?」
 それだけがいまだに分からなかった。なぜこんなにも似た思考を持ちながら、サンドラは殺しという手段をためらわなくなったのか。自分でさえ踏みとどまったその一線を、なぜこんなにも策の巡る人物が超えてしまったのか。
 問うと、琥珀色の瞳は束の間、陰った。だが見間違いとも思えるほど速く、冷厳さを取り戻して答える。
「そうだよ。かれらは何を言っても、現状を見ようとさえしなかった。感情論で僕の意見を突っぱねるだけで、君のように順を追って聞いてくれることもなかった。かれらは歴史的あるいは後天的に劣等だったのさ。追放という拒絶しか、かれらには想像できなかったんだよ。」
 サンドラは寂しげに微笑を浮かべた。
「それにね。偶然にもここには、劣等種によって運命の下り坂に突き落とされたことのある者たちばかりが残っているんだ。毒ガスの兵器使用報告書で数字にされたキース。人親に騙され高値で売り飛ばされたフェイ姉妹。腐敗した社会に唯一の希望を奪われたエーテル。身勝手な遺伝子操作の末に差別され続けたソロモン。二つのレイシズムの間ですりつぶされ家族を失ったライナ。家名に縛られ良心を押し殺して生きてきたフエゴと、人に訴えるのがはばかれるほど些細な虐待を受け続けて育ったニェフリート。皆、劣等種に迫害されてここに生まれ返っているんだ。僕は全部見てきたから、君たちの苦悩の深さは知っている。たとえ今、僕の提案を一蹴したとしても、君たちの心には僕の言葉が残り続けるだろう。死という方法でしか相容れることができなかった二人には申し訳ないとは思うが、きっとかれらも、次世代を担う君たちの総意なら許してくれるに違いない。」
 その瞬間、鋼はパッと目を見開いた。
「二人だと? 四人ではないのか?」
 思わず問い詰めるような口ぶりになる。サンドラは大きな目をさらに大きくして鋼を見返した。
「四人?……あぁ、炎神の二人のことか。確かにゴーストをけしかけたのは僕だけれどね、殺せとは命じていないよ。なんだ、だめじゃないか。報告書に嘘を書かせるなんて。」
 そう言ったサンドラの視線が、鋼の左後方に向けられる。半ば自分以外の聴衆のことを忘れていた鋼は、瞬間的にそちらを振り返った。
 サンドラの見た相手は、背後に注意を向けた黒刃ではない。いつの間にか目を覚ましていたらしいエーテルでもない。目が合ったのはフエゴだった。鋼は直感的に、各地の『鯨波』の振動を止めた。
「……殿下。サンドラの発言は事実ですか。」
 鋼が問うも、フエゴは眉一つ動かさずにサンドラを見据えるばかりだ。感情が読めない。それが不意に、鋼を見た。
「ご冗談はよしていただきたい。外道の言う事でございましょう。」
 堅固な声音だ。背後でサンドラが笑った。それでもフエゴの表情は変わらない。
 だが、腕の中のエーテルが細い声で彼の名を呼んだその一瞬、わずかに呼気が乱れた。感情の読めない顔はそのままだったが、フエゴに限っては、そのわずかな乱れこそが動揺の表れに思えた。
 鋼はため息をつくと、心配そうな黒刃にサンドラを見張るよう訴えた。即座に黒刃が指示に従う。鋼は踵を返し、フエゴの方に向き直って告げた。
「フエゴ殿下。これは私の経験上の話で、人に説教できるほどのことではないと思っていますが、あえて言っておきます。一度膨らんだ罪悪感は、放っておくといつの間にか独り歩きしだすものです。独り歩きしたものをコントロールすることほど難しいことはない。悪化すると、いずれ罪悪感そのものを正しく認識できなくなる。そうならない内に吐いてしまうのが賢明です。」
 するとフエゴはわずかに俯いた。鋼が構わず続けて詰め寄ろうとした時、以外にも口を開いたのはエーテルだった。
「殿下、安心なさって。ニェフリート陛下は気遣いの出来る方よ。その証拠に、今、あのスピーカーは機能していない。ライナ王女殿下が真実を耳にすることはないわ。それに、あなたがどんな過ちを犯していたとしても、それを理由にあなたやライナを傷つけようとする者はここにはいない。だって、私たちは皆そういう生き物なんだもの。あなたの罪が炎神の落ち度になることは、決してないわ。それだけは、私が風神女王の名のもとに誓いましょう。」
 同意を求めるようにエーテルが鋼をみつめる。鋼は口をつぐんだままのフエゴをしばし見据え、深く息を吸った。
「水神女王の名のもとに、あなた個人の問題を炎神全体の問題として取り沙汰することはないと誓いましょう。」
 鋼の返答に、エーテルが表情を緩ませる。フエゴはやはり黙りこくったまま、しかしわずかに眉を寄せて唇を力ませた。
 それきり、フエゴはしばらく動かなかった。数呼吸分の間が風に流される。その後、やっと息を大きく吸うと、フエゴは眉を寄せたまま、伏せていた顔を上げた。
「先代炎神女王、メリッサを殺したのは、間違いなく私です。持っていた小刀で、彼女の首を掻き切りました。」
 のどを震わせながらフエゴは再び息を吸った。黒刃が唾を飲みこむ。
「私が家に着いた時、母女王はすでに澱に毒されていたらしく、次期女王であるライナを守るという執念に囚われておりました。当時ブルーノが息を引き取っていたというのは嘘です。母女王は生きたままのブルーノの背に火を放ち、その炎によって、すでにその場に存在しないゴーストからライナを守っていたようでした。私はブルーノが生き残るかもしれないというわずかな可能性のために、術者である母女王を殺しました。すぐに燃焼を止めましたが結局ブルーノは助からず、母女王の血と、おそらくはそれに混ざっていたのであろう澱を浴びた私は、母女王と同じ執念に囚われ、あのような結果に……。」
 張りつめた顔のフエゴに、鋼はしばし唇を引き締めた。
「……ライナに、次兄を殺したのは母女王であり、その母女王を長兄が殺したのだと、それを悟られないために嘘をついたのですか。」
 ようやくそう言うと、フエゴが首を折るように頷く。鋼がため息をつくと、フエゴは
「本当に、申し訳ございません」と続け、深く首を垂れた。
 彼の言葉尻が震えるのに堪らず顔をしかめ、『鯨波』の振動を再開させる。
「フエゴ殿下。今回のことについてあなたには罰則が与えられるでしょう。風神女王と水神女王を証人とし、真実は口伝とします。面を上げなさい。」
 言われるがまま顔を上げたフエゴは目元をわずかに歪ませ、鋼を見ながら礼を言った。
 鋼は素早く踵を返した。と、サンドラの細められた目が鋼を見つめている。悲しみと敬愛を含んだ微笑みだった。その口が、穏やかに開かれる。
「優しいな、ニェフリート。君は本当に優しい子だ。他人の痛みを率直に受け止め、いたわろうとする姿勢を持つことができる。やはり君こそ、万物を率いる神にふさわしい。人親の影響を強く受けてきちんと発揮できなくなっているだけで、君は超越種に最も近い力を、他者を他者として受け入れる力を持っているんだ。誇るべきだよ。そして、その力をもっと有効に示すべきだ。それが持つ者の義務、真に全うすべき使命であり、同時に君が生涯をかけて残そうと思った核心だ。……違うかい?」
 微笑を浮かべたまま首をかしげるサンドラの瞳には、ステンドグラスのような神々しい思慕が浮かんでいるように思えた。
 草花が揺れる。削れていく日の光が冷たくなっていく。それに伴って獣の熱が弱まっていくのを、鋼は感じていた。
 サンドラと自分は同一の思想を持っているようでいて、実はそうではないらしい。殺しの真相を聞いた時、それがあらわになったような気がした。サンドラが母女王とテオドロは劣等だったと言い切ったことに、それまでの主張の中では感じなかった違和感を覚えたのだ。
 鋼は知っていた。母女王は犯人がサンドラであると告げなかったことを。そしてテオドロは、追放されたはずのサンドラと相対しても、即座に逃げたり身を守ったりはしなかったことを。かれらには許そうという心があったはずなのだ。それは、自分を害する可能性のあるものを頑なに排斥しようとする人間の、愚かな無配慮とは違うものだ。かれらは劣等なんかじゃなく、通じ合うための良心を持った思慮深い人たちだったはずだ。
 ようやく分かってきた。サンドラは、母女王が亡くなる前の自分に似ているのだ。孤独に酔っていて、血肉を蔑んでいて、他者に不信感を抱いている。自分とサンドラを分けたのは、この人のためになら踏みとどまろうという、生き様を誇るべき相手の存在だけだ。サンドラは長く一人でいすぎたのだ。彼女はまるで、ある時離反した鏡の中の自分の、なれの果てのような生き物に思えた。
 影を揺らめかせて川を流れていく水が、滑らかに盛り上がっては川底に渦巻く。そしてまた緩やかに下っていく。鋼はうっすらと目を伏せ、ようやく息を吸った。
「……君の持論は極端だが、およそ正しいのだろう。この先の未来、今の人類が平和を成し遂げるのが望み薄だということには、きっと誰もが気付いていた。排他的で易い方へ傾こうとすることは、もはや人間の本能に等しい。それを認めてしまった以上、人間社会があらゆる闘争から解放されることはないのだということもまた、認めざるを得ないだろう。そんなふうに思って生きてきた私には実際、十代の頃からもうずっと、未来への希望なんていう他人任せでぼんやりとしたものへの期待はないよ。」
 藍色の柔らかい髪が、しっとりとした頬を撫でる。サンドラの視線が静かに刺さる。鋼は足を肩幅に開きなおし、サンドラのさらにずっと奥に広がる優麗な景色が、欠けた赤い太陽に照らされて染まっていくのを眺めた。
「だがね、私は君が思うほど崇高な存在でもない。私はきっと、よく知っているはずの人が理解不能な怪物に変わる瞬間が恐ろしくて、それを暴くために解剖医になった。だが、その美醜を暴いてみたところで、死人には進化する猶予がないと気付いた。だから医者をやめて画家になった。人々に対して、自らのありのままの姿を直視するよう訴えているつもりだった。でもその実、己の姿から逃げ続けていたのは私自身だったんだ。人の気持ちを考えなかったのは私自身だった。そんなやつの作品で世界が変わるわけもない。そんなことにも気付かず、不信感に支配されて生きてきた私はいまだ、神になりきれないちっぽけな人間なんだよ。」
 一時伏せられたシアン色の瞳が、持ち上がってサンドラを射抜く。
「だから、私は泥臭く不完全なままで進み続ける。一方的な虐殺なんかで幕を引かせてたまるものか。そんなのは神としての敗北だ。人間どもには正しく罪を背負わせる。そのためには、たとえこの身が滅びゆくほどの時間がかかろうとも、かれらには猶予を与えなくてはならない。私はそう思っている。……サンドラ、君の答えは確かに魅力的だが、私が進もうとしている道ではない。私の答えは少なくとも、今の君とは違うんだ。」
 そう告げた唇が、静かに閉ざされる。暗い影を滲ませてはっきりと言い切った鋼をしばらく見つめたサンドラは、実に悲しそうに顔を伏せた。
「そうか。……やはり君にとって、殺すことは易いことなのか。なるほどな……」
 束の間、サンドラの体を覆う『塗壁』に、もたれかかるような重みがかかる。
「……僕にとってはそれが、最も難いことだったんだよ。」
 サンドラがそうつぶやいた次の瞬間、空に紫色の閃光が一筋走った。

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オリヴィエ・ラシーヌ
この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、チップという形でお気持ちをいただけると恐縮です。