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『求道のマルメーレ』 #22 第七編 雨後の道の先(五)
第七編 雨後の道の先(五)
一時伏せられたシアン色の瞳が、持ち上がってサンドラを射抜く。
「だから、私は泥臭く不完全なままで進み続ける。一方的な虐殺なんかで幕を引かせてたまるものか。そんなのは神としての敗北だ。人間どもには正しく罪を背負わせる。そのためには、たとえこの身が滅びゆくほどの時間がかかろうとも、かれらには猶予を与えなくてはならない。私はそう思っている。……サンドラ、君の答えは確かに魅力的だが、私が進もうとしている道ではない。私の答えは少なくとも、今の君とは違うんだ。」
そう告げた唇が、静かに閉ざされる。暗い影を滲ませてはっきりと言い切った鋼をしばらく見つめたサンドラは、実に悲しそうに顔を伏せた。
「そうか。……やはり君にとって、殺すことは易いことなのか。なるほどな……」
束の間、サンドラの体を覆う『塗壁』に、もたれかかるような重みがかかる。
「……僕にとってはそれが、最も難いことだったんだよ。」
サンドラがそうつぶやいた次の瞬間、空に紫色の閃光が一筋走った。
刹那、付近の『鯨波』と『塗壁』が弾け飛んだ。くぐもった呻き声を漏らして顔を上げた鋼の目には、雷撃でえぐれた大地から踏み出してくるサンドラの姿が映った。
「残念だよ、ニェフリート。自分なら君と分かり合えるはずだと思った僕自身に、僕は今、とても落胆している。」
そう言いながらゴーグルをかけ直し、サンドラは足を肩幅に開いた。小麦色のマントがはだけ、その下の白い七分袖のシャツが欠けた日を受けて赤く染まる。黒刃は背後の二人をかばうように低く構えた。エーテルの肩を支えたフエゴが、両手首の腕輪をギリギリまで近づけている。サンドラを拘束すべく呼び続けている『塗壁』が一向に応えようとしない感覚に、鋼は脈が速まるのを感じた。
サンドラは目を固く閉じ、懺悔するかのように天を仰ぐ。
「あぁ運命よ。お前はどうして、これほどまでに残酷なんだ。」
紡がれる言葉に合わせて、掲げられていたサンドラの両腕が正面を向いた。束の間、乾いた音と共に、その両の手が素早く握られる。
瞬間、サンドラの腕の間を無音の閃光が爆ぜた。その直後、パンという高い破裂音のようなものが背後で聞こえた。生暖かい水分子が音源の辺りから勢いよく飛び散る。反射的に『金継ぎ』が飛び出した。ようやく応えた水の感覚が覆ったものの輪郭に、鋼の碧眼が見開かれる。フエゴが何事か叫んだ。それとほとんど同時に、『金継ぎ』で繋がれた体がよろめき、尻もちをつく。聞き覚えのあるうめき声と浅い呼吸音が鼓膜を揺すり、脳を巡った。誰がどこを負傷したのか、その抗いようのない事実を、水分子たちが突きつける。
めまいと共に、景色が前転するような錯覚が鋼を襲った。頭蓋に深い音が鳴り響く。濃い霧のような膜が視界を覆う。
「水神の能力は水分子を操作すること。その間に紛れ込んだ不純物を除去することではない。理解したかい? 君は、雷神である僕の前に無力なんだよ。」
サンドラがそう語るのが、膜の向こうにぼんやりと聞こえた。
「彼の肝臓と腎臓を破壊した。僕があの傷を覆う水を再び電気分解したなら、彼が助かる可能性は急激に低下するだろう。医者である君が、彼を助けられないなんてそんなことはない。力を使えニェフリート。水神の呪いを唱える以外、彼を僕から守る方法はないぞ。君の声を知覚するすべての命の時を止めることが、君にはできるんだ。エレメントが互いを浄化するまで待てば、劣等種はいずれ体力を取り戻した自然に淘汰されるだろう。」
朗々と放たれる言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら、鋼は自分が息をしているのかどうかさえはっきりさせられないでいた。現実が遠ざかっていく。取り乱した獣は、闇雲にもがくばかりで引き留めてくれそうもない。黒刃もいつものように連れて帰ってはくれない。もう指の一本さえ、動こうとしない。
「ニェフリート‼」
その時、エーテルが名を叫んだ。その声に脳が振動し、鋼は急激に現実へと引き戻された。途端に、黒刃の元へ駆け寄ったフエゴがサンドラを怒鳴りつけているのが聞こえてくる。うなじの延長線上で上下する肩を確かに感じた。荒ぶ息が肺から上がってくる。全身の毛を逆立たせるように影の輪郭を尖らせて、獣が膨れ上がっていく。
鋼は即座に『鯨波』を呼び、フエゴとエーテルの耳を密かに覆った。
「フエゴ殿下。……サンドラを、会話に集中させたままで聞いてください。」
叫び問答をしていたフエゴが、耳に直接響いた声に驚いてわずかに反応する。だが次の瞬間、彼は先ほどまでの怒りを完璧に演じきった。鋼が続ける。
「あれの有効射程外に逃げればこちらの勝ちです。私が言葉を放ったら、エーテル女王陛下を連れて逃げてください。私の使徒のことは置いて行って構いません。」
矢継ぎ早にそう言って、今度はエーテルに語り掛ける。
「エーテル陛下。連れ戻してくれてありがとう。私も、私の間違いを正します。だからどうか、見守っていてください。」
フエゴの怒声に紛れて、微かにエーテルの返事が聞こえた。
二人分の『鯨波』を解き、最後、黒刃の耳に『鯨波』を呼ぶ。その浅く緊張した呼吸が、束の間緩んだように思えた。だが、わき腹をグッと押さえた手の間から赤い鉄の臭いが滲み出ている事実は揺るがせない。
鋼はわずかに黙し、やがて唾を飲み込むと『鯨波』を震わせた。
「……黒刃、俺をここまで連れてきてくれて、ありがとう。ずっと一緒だよって言ってくれて、ありがとう。」
背後の気配に視線を投げることは叶わない。だが鋼は恐怖を押し殺し、互いの間に垂れ下がる重い契約の鎖を両手で掴み取った。
「俺も君とずっと一緒にいたい。君を信じてる。だから、もう終わりにすることにしたんだ。……うまく言えなくてごめん。あともう少しだけ、待っててね。」
『鯨波』の振動が止まったそのすぐ後に、弱々しくも微笑む息遣いが聞こえたような気がした。
獣の影が膨らむままに、鋼の足が肩幅に開かれる。宣誓のように上がった右手の親指からは、一筋の血が流れていた。血に赤く染まった唇が息を吸う。
「我がニェフリートの名のもとに、我が第一使徒に対する使徒契約を解く! この時、この場、この身に応えよ!」
弦を弾くような声が響いた瞬間、鋼は鎖が崩れ落ちるのを感じた。即座にフエゴがエーテルを抱え、全速力で逃げていく。
鋼は煌々とした碧眼を見開き、唖然とするサンドラに向き合った。
「一つ、礼を言わなくてはならないな、サンドラ。お前のおかげでやっと決心がついたよ。」
これ以上ないほど穏やかな鋼の声音に、サンドラが緊張からか唇を舐める。鋼は大胆に一歩、間合いを詰めた。
「生死は自然でなくてはならない。管に繋いで生きていることにしようとか、契約で財産として縛ろうとか、氷漬けにして延命だとか。そういうもの全部、むしろ命をぞんざいに扱う行為だ。その儚さを無下にして、価値を見誤らせる行為だ。私は医者であっても呪術師ではない。水神であっても死神ではない。領分を心得るのも務めだと、お前は私に気付かせてくれた。」
二歩、三歩と次々に足が前に出る。
その時、川の水が回転しながら鋼の体を覆いつくした。もはや抑える気のない獣の唸り声と、赤い唇から漏れる呼吸音が重なる。
「だからこそ私は水神女王として、神殺しの罪でお前を裁くために全神会議を招集すべきだろう。」
鋼の口が大きく広がり、犬歯の切っ先が現れる。羽織っていた毛皮が、獣の牙のような指に振りほどかれて宙を舞った。
「だが! 黒刃を傷つけたお前を、俺は許さない‼」
怒声にサンドラが顔をしかめた直後、鋼は飛びかかるように大きく間合いを詰めた。サンドラが勢いよく後退る。
「困った子だよ。」
そう呟いたサンドラがマントを脱ぎ捨てた瞬間、音のない雷が上空を切り裂いた。川辺に横たわった『金継ぎ』と、体表を覆っていた『雨蛙』が弾け飛ぶ。だが加速はすでに終わっており、ささやかな空気抵抗以外に鋼の体の回転を止めるものはなかった。
サンドラは後退をやめ、重心を後足に乗せた。鋼のかかとが沈む。右手を前に構えができる。
次の瞬間、サンドラは左手を突き出した。鋼の右手が内側からそれを払って進行方向をずらす。接触した手首が摩擦で熱くなる。鋼の体が、サンドラの開いた懐に入った。
鋼の前足に体重が乗る寸前、左のわき腹に鋭い衝撃が走る。バキ、と体の内側から鳴った音を無視し、鋼は全身の回転に任せて左手の掌底をサンドラのみぞおちに叩き込んだ。サンドラの体が後方へ吹っ飛ぶ。だが手ごたえがない。目視できないほどのスピードでわき腹を蹴られ、その反動で掌底が当たる直前に逃げられたのだ。
ゼンマイを巻くように左手を外旋させ、あるべき位置に戻す。折れた浮骨が内臓に刺さっていないことを触診で確認し、鋼は息をついた。
さすがは光速に対応できる雷神というべきか、とにかく速い。しかも服の下には、何か固い甲冑のようなものを仕込んでいるらしい。それが小柄な体というハンデを補うのに十分な破壊力をもたらしている。さらに、雷撃の後は数秒間にわたって水が反応しない。その上、水分子に対する知覚が影響を受けているせいか、サンドラの体内に水分を発見できない。外側からの拘束も内側からの攻撃も不可能だ。となればやはり、体術で仕留めるほかない。
蘇った水の感覚で真っ先に『金継ぎ』を呼び、黒刃の体から流れ出る血を止めた。だが無情にも、その体温は着実に低下し始めていた。
日の光が弱まる。瞬く間に鋼の重心が縦回転し、そのエネルギーを地面に押し出させた。『雨蛙』の補助を得て飛び出した足先が地面の上にらせんを描く。地上のフィギュアスケートさながらの回転が反応速度限界まで肉体を加速させる。指先から水滴がほとばしる。
「ドワーフの呪いよ、応えろ‼」
瞬間、サンドラの声が空気をつんざき、閃光と同時に雷鳴が地面を叩き割った。亜光速の衝撃が脳天を突き抜ける。鋼の目が見開かれた。走馬灯に漂った暗い砂城での幻覚に備え、双頭の意識が一点に研ぎ澄まされる。
電撃の呪いに飲まれた鋼の首が、意識を失うとともにのけぞるや否や、入れ替わりに獣の意識が鋼の体を駆け抜けた。サンドラの腕が前に据えられる。ザリザリと何かがこすれ合わさる音と、エネルギーを蓄えるような独特の高音を、獣の意識が捕らえる。
鋼の体が地面の際まで重心を落とし、這いずるように地面を蹴った瞬間、閃光が頭上を走り抜けた。風を孕み膨らんだシャツが、その衝撃波によって破ける。間髪入れず、鋼の体はサンドラに飛びかかり、爪を立ててその頭を押さえつけた。牙のような『氷柱』が首にかかろうという時、惜しくも両脚の蹴りが向かってくるのに反応して飛び退る。
着地した途端にあばら骨が軋み、その痛みで鋼の意識が目覚めた。水に支えられていた上体が急激に起き上がり、二足歩行に戻る。我に返ったシアンブルーの瞳がしばたいた瞬間、しかし、その奥のあらがいようのない空洞が真っ黒く光った。今日の出来事を書き起こす前に気絶した鋼には、今がいつなのかも、目の前にいるのが誰なのかも、全てが分からなくなっていた。
虚脱感が全身の筋肉を弛緩させようと暴れ出した。前腕と同じくらいに意識が痙攣する。
次の瞬間、豪速の正拳突きが鋼の顎に向かって伸びた。跳ね除ける手が一瞬遅れ、逸らされた軌道は額の右側に着地点をずらす。眼前の琥珀色の瞳が大きく開かれる。
まもなく、足まで伝わる衝撃と同時に、鋼の体と意識は宙を舞った。
見渡す限りの闇が、眼前を覆いつくしていた。冬のただなかのような凍える空気に白むはずの息も、わずかに紫がかった闇に塗りつぶされて消えていく。おぼろげに見える自分のまつ毛以外、他に何も見当たらなくて、鋼はゆっくりと上体を起こした。
突き刺さるような冷気に思わず肩をさすると、女王服の毛皮のコートが見当たらない。落ち着かずにうなじを撫でると、じんわりと暖かいぬくもりが冷えた右手を癒した。ぬくもりが移った手を口元に寄せ、なんとか立ち上がって歩き出す。当てはあった。ひどく遠いところから、誰かが何か唱える声がする気がしたのだ。
その声は、歩くにつれて次第にはっきり聞こえるようになっていった。一定の言葉をずっと繰り返している。少女の声のようだった。決して穏やかとは言えない、荒い息のような声だ。
だが、なぜか鋼には、それが恐ろしいものだとは思えなかった。むしろどこか懐かしいのだ。知っている言葉で繰り返される単純な文章は、聞いた覚えさえある気がする。そんなことを思いつつ、自分の靴音も聞こえない闇の中、どんどん声の主のもとに近づいていく。
『——る、……てやる、』
神経質そうな少女の声に、誘蛾灯のように招かれて歩み寄った。そうしてやっと聞き取れた言葉に、鋼は唇を薄く開けた。
『殺してやる』
不意に、吐息が漏れる。気付けばしゃがみこんだ少女が目の前にいた。途端にその声はピタリと止まり、左右少しだけ濃さの違う焦げ茶色の、張りつめた目が鋼を振り返った。
瞬間、少女は雄叫びのような悲鳴を上げると、両腕で抱えていた法典を振りかざした。細い腕から投射されたそれはほとんど空中回転せず、そのまま鋼の右前頭部に叩きつけられる。痛みというよりも衝撃が大きく姿勢を崩させた。額を切ったのか、生暖かい血液がぼたぼたと滴り落ちる。
少女は、そうしてようやく自分がしたことの結果を理解したらしかった。腰が抜けたかのような姿勢で喘ぎ喘ぎ後退っている。鋼は右手で額を押さえ、少女の前に進み出た。するとすぐさま、少女が必死になって呪文を垂れ流す。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいッ』
さっきの言葉とほとんど変わらない意味の音を連ねながら、少女は小さく縮こまった。そのどうしようもなく矮小で殺気立った姿に、どうしたことが、胸がひどく苦しくなる。ヒイヒイと言って震える少女の前に膝をつくと、鋼は壊れ物を触るようにそっと少女を抱きしめた。しかしその瞬間、ヒュッとのどが鳴り、少女の呼吸が止まった。
『やめて。お願いだから、俺を体温でほださないで。愛してるなんて、そんな呪いを言わないで。』
そう言う幼い声が、これ以上ないほど乱れる。言われるがまま、背中を覆っていた腕を解くと、鋼はふと、震える少女の心境を鮮やかに思い出して、ただその場に座りこんだ。
「……そう、だよな。そこまでいったらもう、とことん失望させてほしいんだ。だって、わずかに残った期待が、また私を苦しめる。かれらに期待した良心に反して突如としてやってくる些細な暴力が、針が薄氷を穿つようにして心のヒビを広げていくんだ。」
ホウとため息を吐くと、少女が嗚咽と共に頷く。ひどく小さく噛み殺すような泣き声に、鋼は懐旧の念に駆られた。
膝を抱えた鋼の背中に、獣のぬくもりが寄り添う。鋼が少し身じろぎすると、少女は反射的に警戒して顔を上げ、途端に悲鳴を上げた。だがいくら騒いでも獣はただそこにいるだけで、襲ったり迫ったりしてこないのだと気付くと、少女は居心地悪そうにしながらも居ずまいを正す。しかしそれでも鋼の背後を睨み続けているものだから、鋼は苦笑を漏らしてゆっくりと立ち上がり、少女に背を向けて座り直した。少女は鋼の挙動を警戒して身を引いていたが、その華奢でなだらかな背中と対峙するなり、深く息を吐いた。
数秒は経ったであろうか。しばらく二人は黙り込んで動かなかったが、ふと、少女の手が鋼の背中に触れた。こどもの手だというのに、まるで血が通っていないかのように冷たい手だった。少女は鋼の背中の熱に、一度は鋭敏に反応して手を引っ込めたが、ややあってから再び触れると今度は離れようとしなかった。それでもなお、暗闇の中で何をするでもなくじっとして待っていると、少女がまた少し近づいてくる。そして、少女はついに鋼の背にもたれかかり、黙って鋼の肩に頭を預けた。少女の肌を伝った冷たい涙が肩口を濡らしていく。
鋼は潤んだ目元を密かに拭い、つぐんでいた口を開いた。
「ねぇ……私に時間をくれないか。覚えていたいんだ。今日も、明日も。過去のことも。」
そう切り出すと、少女は何に怯えてか、その身を縮める。
『でも、きっと傷つくよ。あんな姿になるくらいなら、俺はずっと子供のままがいい。俺は、俺みたいなのを生まれさせたくない。』
俯いた少女の唇が突き出るのが、鋼には何となくわかった。不満や不安を感じた時の、自分の癖だ。
「その気持ちを、忘れたくないんだ。覚えたままで進みたい。」
鋼がそう言うと、少女はますます不安げに俯いた。涙がたくさん流れてきて、肩口のシミを広げる。
『進むって、一体どこへ……? 逃げるところなんて、もうどこにもないのに。』
少女の唇は、痛々しくわなないた。
その言葉を受けて、鋼の心臓は強く鼓動した。その瞬間、全身を温かく心地よいものが巡った。これはいったい何だろうと、しばらく考えてみる。と、おぼろげに何かが思い出せてきた。霞んだ記憶の中で、女が涙を流している。エーテルだ。エーテルの頬を涙が伝っている。するとなぜか、鋼の目にも涙が溜まり出した。痛みのない涙が自然と流れ出て、頬を伝い、手の上に落ちる。
そうして鋼はようやく、体を巡ったものの正体を思い出した。それは、誰かを信じようと思う気持ちだった。頬を伝った涙は、許そうとする心と償おうとする心が通じ合った証だった。今日の軌跡だ。もしも膜の向こうに逃げていたら、知ることのできなかったものたちだ。
鋼は、少女がその小さな身に抱える逃げ場のない苦悩に思いをはせる。立ち上がる気力をそぐ絶望と、立ち向かうことそのものへの恐怖が、まるで檻のように重厚に覆いかぶさってくるのだ。自分だけが不自由だと錯覚してしまうその檻の中では、孤独がさらに心をむしばみ、絶望と恐怖を強大な魔物へと変貌させていく。少女一人では、到底歯向かえない魔物へと。
だからこそ鋼は、自分に言い聞かせるような口調で呟いた。
「……今あるどこかに、逃げるんじゃない。進むんだ。本物の楽園まで、自分で道を拓いて進むんだよ。自分で自分の意思を支えて、心が納得する道を歩くんだ。きっとそれが私にとっての、生きるってことなんだ。」
そこまで言った鋼の首が、ふと後ろに倒れる。座ったまま暗闇の空を眺め、鋼は息を吐いた。
「でも、それには軌跡が必要だ。自分で自分を背負うには、確かに自分を知っていなくちゃならない。間違いも、後悔も、みんな必要なんだ。だってそれが自分の素形(すがた)なんだもの。それを受け入れられるようにならなくちゃ。それを、大事にできるようにならなくちゃ。……だから、覚えていたいんだよ。」
少女が鋼の視線を追うように、何もない空を見上げたのが分かった。今や獣のぬくもりも、少女と鋼、それぞれの体にじんわりと広がっている。それを認めると、鋼は静かにその場に立ち上がり、しゃがんだ少女に手を差し出した。
「これは私たちだけの契約だ。簡単に破れる約束なんかじゃない。だから、私も対価を払い続ける。覚えていることを許してもらえる間ずっと、君に恩を返し続ける。」
不意に、それまで存在しなかった風が吹き始めた。一面の暗闇が穏やかに溶け、隙間から大地が覗く。少女はなびいた藍色の髪を見上げ、シアンブルーの瞳に見入った。額からの血に濡れた赤い唇が紡ぐ。
「今まですまなかった。もう二度と、君たちを無視したり置いて行ったりしない。どうか、私と一緒に生きてくれ。」
細められた碧眼が、まばゆく輝いて辺りを染めた。闇が晴れ、一筋の軌跡が姿を現す。
風が藍色の髪を揺らした。視界が赤くて、ひどく狭い。けれど、背中にそびえる獣の影が、鋼の意識を小突いていることはわかった。それに、教えてもらったぬくもりが全身を巡っていることも、鋼にははっきりとわかっていた。
水の感覚を追い掛けると、いつの間にか雨が降っていた。しばらく向こうには、微かに息をしている黒刃が横たわっている。鋼はわずかに安堵の息を吐いた。『金継ぎ』も最後に呼んだ時のままで、腹部の傷をしっかりと覆っている。一方で、サンドラは近くにいないようだった。きっと、エーテルやフエゴを追って行ったのだろう。
鋼は一つ呼吸をすると、痙攣する四肢に精いっぱいの力を込めて立ち上がった。岸辺のぬかるみに足を取られながら、黒刃のいる方に歩いていく。力の入らない足に『雨蛙』を纏って、一歩ずつ進んでいく。しばらくの間そうやって進み続けて、鋼はやっと黒刃の元にたどり着いた。右目は流血に汚れてあまり役に立たなかったが、それでも、左目が黒刃の眠ったような顔を映してくれる。
「ただいま、黒刃。」
耳元で語り掛けても、彼の弱々しい息に笑みが混ざることはなかった。鋼は構わず微笑み、その青白い額に口付ける。
「雨降ってて寒いよね。あったかくしようか。」
そう言うと、鋼は川の水を呼び寄せて黒刃の体を包んだ。人肌より少し温かいくらいの水で、冷えた体を覆いつくす。重力から解放されて、黒刃の体の緊張が幾分か和らいだような気がした。
ふと、水の布団の中で何かが光る。よく見ると、それは割れたジェダイトの欠片だった。取り出そうと思って水の布団の中に手を入れると、水は手を避けて渦を巻く。と、もうすっかり細くなった太陽に照らされて、その中に一瞬、空色の渦が見えた。母女王の髪の色を思い出して、鋼の口が薄く開く。割れたジェダイトを掴み取ると、手を避けた水がまた空色の渦を巻いた。
水の中から手を引き抜くと、指先を伝った雫がビー玉のように光って落ちる。落ちた雫は、水の布団の上を表面張力に任せてくるくると転がり、黒刃の心臓の前で弾けた。ふわりと工業油のような臭いが漂う。鋼はまた、ハイラのことを思い出して息を呑んだ。空気中の水蒸気が、わずかに肺に流れ込む。
不意に鋼の頬に雨粒が一つ当たり、流れ落ちた。額からの血と混ざった水は顎を伝い、首筋を流れ、鎖骨の上に溜まった。おのずと空に意識が向く。すると、天から降りて来た雨粒たちは、次々と黒刃を包んだ水の上に落ちては、パチパチと音をたてて踊った。今まで見えなかったものが見えるようになってきたような気がして、思わず声が漏れる。
今までずっと気付かなかった。いや、むしろ知りながら信じなかったのだ。鋼はそう思い、呆然として空を仰いだ。チョウトンボの羽の色や雪山の匂い、鳥の歌声や玉ねぎの甘み。そして、波打ち際に立った時、足にじゃれつく砂と塩水。そういうものは皆、ずっと私のそばにいたのに。
母女王が死の間際に言った言葉が、ふと脳裏に蘇る。彼女は
「これからはずっとそばにいる」と、そう言った。
それから愛を告げたのだ。不完全であったとしても、確かな愛を教えてくれた。ずっと悪者にしていたけれど、獣だって、今までずっと一緒に歩いてきてくれた。あの夢の中の少女も、私がこれ以上傷つかないようにと身を隠しながらも、ずっと一緒に生きてきてくれていたのだ。
血が通っていなかった心に、人を信じようとする気持ちが流れて痺れるようだった。全て見過ごしてきていた。愛は存在しないから見つからなかったんじゃない。私が拒んだから、見えなかっただけだった。寄り添おうとしてくれたものを、私は今まで当然のこととしてあしらってきたのだ。
川のせせらぎの中に、再び空色の渦が見えた。黒刃を包んだ水の上で、いくつもの雨粒が虹色のビー玉のように転がった。碧眼が潤んで、右目を塞いだ血を洗い流す。
そうして告げるべき言葉は、選ぶまでもなく自然とこぼれ出た。
「……黒刃。長い間、待っててくれてありがとう。今までずっと、愛してくれてありがとう。」
やっとわかった。ただそこに在るということ、存在を許すこと、それこそが愛だ。真実の愛に満ちた楽園は、初めから私と共にあった。鋼の両の目から温かい雫があふれ出す。
痺れていた心は、鋼にちょっと息を詰めさせて、ようやくその言葉を口にすることを許した。
「私も君を、愛してる。」
そう言って口付けると共に、鋼の右の手首は切り裂かれた。溢れ出た血液は水に受け止められて、いつかと全く同じように黒刃の傷口へと注がれていく。だが鋼はもう、自分の出血量を測らなかった。なんとなく、そんなことはもうどうでもいいような気がしたのだ。すでに死んだ身であるというのに、自分の器の中とか外とか、そんな大して意味のないところに線引きを作る必要を、鋼はもう、あまり感じていなかった。
「帰ってきたかったら、いつでも帰っておいで。私はいつまでも、君の居場所を開けておくから。」
黒刃の体にわずかながらぬくもりが蘇ったのを確認すると、鋼は彼に微笑みかけて立ち上がった。そして手首の傷から血を滴らせたまま、それを気にもかけない様子で踵を返した。
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