見出し画像

『求道のマルメーレ』#15 第六編 命の形(二)

前回    目次    次回

第六編 命の形(二)

 聖水の淡い光が足元を照らす。濡れた岩肌の突き当りには、燃えるたてがみを持つ馬が象られたノッカーが据えられていた。その生きているかのような丸い瞳が三人を映す。鋼は四度、ノッカーを叩きつけるように打った。
 びしりと岩肌に亀裂が入る。煙たさと死臭がわずかに漂うや否や、霊道内の空気が急激に吸い込まれた。瞬間、隙間の向こうから爆炎が押し寄せる。
 鋼は即座に亀裂を水でふさぎ、『海月』で自分と黒刃の口元を覆った。そこからクラゲそのもののような触手状の管を伸ばし、内側にフィルターを設けた吸気口を足首に固定する。さらに霊道内の正常な空気をくるむようにして、大きな『手毬』を作り出した。
「ハイラと一緒に乗って。酸素が限られてる。呼吸ができるところまで一気に抜けるから、無駄遣いしないようにして。」
「了解。」
 鋼に指示されたハイラが乗り込み、次いで黒刃が深呼吸をしてから『手毬』の中に座った。それを見届けた鋼の姿勢が低くなる。『雨蛙』が体表に絡みついた瞬間、鋼は『手毬』もろとも霊道を飛び出した。
 すさまじい熱気にあてられて、肩を覆う水の膜が急激にぬるくなっていく。熱帯雨林だったはずの地には、炭化した残骸や細く燃え続けるものが折り重なっていた。『手毬』がそれらを巻き上げながら高速で走る。水のブーツを纏った脚が地面を蹴る。鋼は『雨蛙』の水を時折空気中の水蒸気と交換させながら焼けた地面を駆け抜けた。
 燃焼による上昇気流で強く風が吹いている。だが、密林の中心にまでは新しい空気がたどり着けないらしい。それで不完全燃焼が始まっているのだ。そう推測しながら、鋼は眉をひそめた。そもそもなぜ、多湿な密林でこれほどの火災が起きるのかが分からなかった。まるで意図的に燃やし尽くそうとしているかのようで、裏切り者の存在を匂わせる。鋼は炎神の利き腕を思い出そうとして、瞬間的に諦めた。
 しばらく走り続けると、ようやく炎が現れだす。鋼は移動のスピードを緩め、燃え盛る炎を消火し始めた。同時に『手毬』の中の酸素を逃さないように二人を地面に立たせる。そのまま『手毬』を黒刃の『海月』に繋ぐと、酸素ボンベのように彼の背中に固定した。丸い空気玉のせいで、黒刃のシルエットがカタツムリのそれになる。
「今は外気吸引になってるけど、一酸化炭素の多いところに出たら『手毬』から吸引して……。ハイラ、高さ五十センチ以内の炎を消火して。」
 言葉尻にわずかながら不自然な間が生じ、黒刃は背中の『手毬』にちょっと目をやった。その姿を見て見ぬ振りして、ハイラの義手を熱に向けると水が出るように改良する。数秒後に指示を理解したハイラは、手を不器用に炎の根元に向けだした。鋼がやっと黒刃を見返す。
「強い炎は黒刃に任せる。酸素の供給を完全に断ってしまえばすぐに鎮火するから、水で火元ごと包んで他の可燃物との接触も断つ。これ以上の延焼を防ぎつつ炎神を探そう。」
 黒刃は気を取り直して頷き、風にあおられている炎の方へ向かった。
 その背を見送った鋼は一瞬、自分の口を覆う『海月』を解除した。霊道で感じたよりも強い死臭が鼻をつく。鋼は密かに咳き込み、周囲を慎重に見まわした。空気中の水蒸気濃度が、生物体内の水分濃度とかなり似ている。そのせいで輪郭が掴めないのだ。だが、おそらく目視でいい。鋼は緊張のあまり唇を舐めた。
 数歩行った先で、左手にある巨木に回り込む。すると、人が入れそうなほど大きな樹洞が鋼に向かって口を開けていた。その暗い内部を『妖狐』の入ったランタンで照らすと、橙色に照らされて地下道が見える。霊道だ。そしてそこから伸びた小道に、点々と血痕が続いている。鋼は霊道の奥をじっと見つめながら考えを巡らせた。霊道内か、あるいは他領域での負傷だ。だがブラフの可能性も捨てきれない。どちらにせよ、血痕の始まりを探す必要がある。
 鋼はそれらの思い付きを全てメモに書き留め、ポーチの隠しポケットにしまい込むと血の道標を追いかけた。擦過血痕は足跡だ。歩幅とよろめき方からして、遠くへ行く体力はない。そう思った瞬間、今までなかった飛沫血痕が現れた。とっさにその発生地点であろう左手を見やる。
 燃え残ったシダの葉の、片面だけが血で濡れていた。血痕を荒らさないように大きく回り込む。と、植物の陰に彼はいた。高い月明かりに照らされた白い王服が、血に赤く染まっている。
「鋼、どうかしたか?」
 背後からやって来た黒刃が、ガサガサと葉を揺らす。鋼は素早く制止の手を上げた。
「来るな。……テオドロ陛下だった。もう亡くなってる。」
 静かにそう言うと、黒刃が歩みを止めたその姿勢で硬直する。鋼は冷静さを欠くまいと、黒刃の顔を見ることもなくテオドロの方に向き直った。素早いが丁寧な黙祷を捧げ、遺体の傍らに膝をつく。そしてポーチからスケッチブックを取り出した。
 死後硬直と死斑を目視確認し、程度を記録しながら情報を集める。服に沁み込んだ血の始点は、胸部で間違いない。服の左胸部分に焼け焦げたような丸い小さな穴があり、出血は背中側がより顕著だ。傷を深くしないように慎重に服を脱がすと、予想通り銃創が現れた。出血点付近を丁寧に洗浄すると、黒ずんだ射入口がある。近距離で向かい合った状態で負った傷だ。擦過血痕のついた背後の木に銃創がないことからして、これが霊道から続く滴下血痕の根源だろう。
 この場にある飛沫血痕を産みだした動脈切断は、明らかに右腕で起こったことだった。前腕部が服もろともに断ち切られている。凶器は地面深く刺さったままの斧。だが持ち手も何もないことから、地神神技で作り出したものだろうと鋼は推測した。ギロチンのように落下させて、自ら切ったのだ。何のためにかと言えば、おそらく切り離された前腕に答えがある。
 鋼は投げ出された右前腕の横に跪き、そして目を見開いた。右腕に残った服を取り払う。
 現れた右腕は、全体が金属質になっていた。地神の、つまりゴルゴーンの呪いだ。重たい金属の塊を傷つけないように水で転がすと、見えていなかった腕の甲側があらわになる。
 そこには刻印があった。手首から肘の方に向かって、深く文字が刻まれている。SANDの四字だ。だが、Dの字は途中までしか書かれていない上、その右にはまだ余白がある。書きかけの可能性があるということだ。
 鋼は黙って腕を元の状態に転がし直すと、再びテオドロに向けて頭を下げた。無念そうな顔をしている。そしてやはり母女王と同じく、二百歳を超えた辺りにしては老いてやつれていた。鋼は現場を覆うように水で壁を作ると、ようやく黒刃の方に向かった。
 黒刃は少し怯えるような顔をして、しかし大人しく鋼が歩み寄ってくるのを待っている。その眼前まで進んだ鋼が歩みを止め、深く息をついた時、意外にも黒刃の方が先に口を開いた。
「テオドロ様、苦しんだのか……?」
 鋼が見上げると、こわばった黄色い瞳と目が合う。
「とても苦しかったと思うよ。あの状態でよく知らせを下さった。」
 率直に答えると、黒刃は顔を歪めて幾筋かの涙をこぼした。右手が即座に顔を覆う。鋼は両手で温めるように、小刻みに震える黒刃の左手を包んだ。
 だがその両手は反射的に弾かれた。鋼が驚いて黒刃の顔色を窺うと、細く謝罪の言葉が聞こえる。
「……どしたの、黒刃。」
 どうにか平静を装って尋ねると、黒刃は絞り出したような低い声で呟いた。
「俺、前から気になってたことがあって……テオドロ様に、フィーネ様のこと、尋ねたんだ。そしたら、自分で調べるから任せろっておっしゃって……」
 言葉尻が震えて途切れる。鋼は一瞬、眉をひそめた。黒刃が左手を固く握るのと同時に、深く息を吸う音が鳴る。
「……フィーネ様は左利きだ。俺だって分かってる。……堕神で、左利きなんだ。」
 唇がわななくのが見えた。途端にその首がうなだれて、片手で抑えきれなくなった涙が頬を流れ落ちる。
 やや遠方で、焼けた木の爆ぜる音がした。だが耳がいいはずの黒刃はそれに反応せず、奥歯を噛み締めて震えるばかりだった。鋼が一歩、踏み寄る。すると黒刃が半歩後退る。それを認めた瞬間、鋼は一気に詰め寄り、顔を覆った手を引きはがした。
「しっかりしろ、黒刃。」
 たしなめるように強く言うと、手の下にあった濡れた目が見開かれる。
「可能性に依存した疑念のために怖気づいたらだめだ。テオドロ陛下の願いは俺たちしか知らないし叶えられないんだよ。分かってるだろ? 彼が最期に繋いでくれた想いのためにできることをしなきゃ。俺たちで炎神のこどもたちを守るんだ。」
 瞳を射抜くように見つめながら言うと、黒刃がふうふうと何度も息を吐く。そして彼はやっと、うめくような声で頷いた。数秒後、勢いよく息を吸い込んだ頭が、振り払うようにもたげられる。
「……行こう。絶対、助ける。」
 そう言った強い視線に、鋼は微笑んだ。握り固められた両手を放し、霊道から伸びた獣道の先に意識を集中させる。
 時間が停滞した。揺れる炎と煙に霞む月が、水分子の表面を照らす。鋼は目を閉じ、呼吸も忘れて、神技の感覚だけで密林を駆けた。まもなく樹上に建つ焼けた家屋にたどり着く。感覚を研ぎ澄ますと、部屋の中に三人がいた。最後の一人を探すため、家屋から同心円状に水分子を追い掛ける。
 やがて鋼は右の手で三時の方向を指差し、目を開いた。
「一人だけ活動してる。王子だ。」
 そう言って手を降ろすと、鋼は背後を振り返った。ハイラの居所を確認し、黒刃を見上げる。
「二手に分かれよう。俺は負傷者がいる可能性の高い方へ行く。黒刃はハイラと一緒に王子の方へ。でも、気を付けて。火を消そうとしている気配がないから、多分正気じゃない。いざとなったら力技でいい。」
「わかった。」
 努めて冷静そうな顔をして返す黒刃に、鋼は力みを感じ取って表情を緩ませた。手袋を脱ぎ払い、素手で黒刃の頬に触れる。
「深呼吸してごらん。」
 そう吐息混じりのゆったりした声音でささやくと、黒刃は素直に目を伏せ、沈むように息を吐いた。重心が落ち、そのままで再び息が吸われる。鋼は頬に添えていた手で、首を伝い、鎖骨を伝い、心臓の前までを撫で進んだ。
「正直に言って、もう私が君に教えられることはない。君は努力するという事を自分のものにした。あとは君自身の心の強さの問題だ。考え続ける強ささえあれば、君は核を中心にいかようにも変化できる。美しくしなやかであれ。そして、これが最後の教訓。勝つために戦うな。己の心と願いを、その手で守るためだけに闘え。」
 鋼の拳が心臓を打つ。黒刃は息を吸いながら目を開けた。完全に緩んでいた瞳孔が、すうっと研ぎ澄まされる。
「ハイラ、黒刃に付き従いなさい。」
 鋼が呼ぶと、ハイラはひょこひょことやって来て黒刃の背後に付いた。それをちょっと見やって、黒刃が鋼に視線を戻す。
「……行ってくる。」
 わずかに謝意のこもった黄色い目が次の瞬間刺すようなものに変わり、気が付けば鋼は二人の小さくなった背中を目で追っていた。熱風が灰を巻き上げる。
 その影も見えなくなるや否や、押し殺していた唸り声がとどろいた。超常的な光景にあてられて、現実と意識を隔てようと膜が漂い始めていたのだ。熱帯夜の絡みつくような湿気に焦燥感が歯を鳴らす。死臭に昂った鼻息を吹き付けて、獣が顔を覗き込んでいる気がする。
 鋼はそれらを押し殺すように手袋を付け直し、獣道に沿って歩き出した。
 防水の懐中時計を引っ張り出す。短針は五と六の間あたりを指していた。家を出てからもう三十分以上が経っている。だが月はここに着いた時よりも少し高かった。時差があるのだ。黒煙で星は見えないが、おかげで方位が分かる。密林で迷うことは避けられそうだと、鋼は首に浮かんだ汗をぬぐった。
 炭化して縮れた木の葉を何度かかわして進んでいく。しばらく行くと、左手に青く茂る焼け残った林が現れた。火災の東端まで来たようだ。鋼は右手を振り返り、同時にあんぐりと口を開けて眼前の大木を見上げた。
 そこにあったのはツリーハウスというより、大木の幹から部屋が生えてきたようなものだった。気候と景観とに調和していたのであろう家屋は、最下層の壁と床を残してほとんど全焼していた。一方、家の下の草地には焦げ跡がほとんどない。最下層から出火し、火が昇って行ったのだろう。鋼は水蒸気を集めて水の床を作り、エレベーターのように最下層の廊下まで上昇した。
 足跡を残さないよう水の円盤に乗ったまま、右端の部屋を覗く。それは誰かの個室のようだった。負傷者はいない。だがコレクションのようにきっちりと壁にかけてある小刀の群れに、一ヶ所だけ空きがあるのを、鋼はめざとく見つけた。他に異常がないか見渡し、部屋を出る。
 二つ目の部屋は倉庫のようだった。壁に据えられた弓や銛を見ると、先と同じく銛のスペースが一本分空いている。おそらく、単独行動している王子が持ち出したのだろう。
 されど、予想外にも銃火器がなかった。なるほど、おそらく火薬が湿気に耐えられないのだ。普段乾燥した地域に住んでいる者には盲点だ。鋼は渋い顔で頭を掻いた。
 であれば、炎神が霊堂内でテオドロに銃創をつけることはできない。そもそも炎神がテオドロを襲うなら、この火事に紛れて証拠ごと燃やし尽くしてしまえばいい。むしろこの状況では、炎神の仕業に見せかけたかった他の神の方が疑わしい。
 銃と言ってとっさに思いつくのは地神だ。同族であることから、至近距離で撃たれたことにも説明がつく。だが、フェイは間違いなく右利きだ。左腕に麻痺がある。とすれば少なくとも、ハイラに女王殺しを命じた別人がいなければならない。黒刃の元主人であるフィーネへの疑いが、ますます強まっていく。
 やはり管轄外のことはさっぱりわからないと、鋼は顔をしかめた。そもそも生きている者のやることだ。専門外も甚だしい。
 鋼は深く息をつき、額を拭ったその手で眉間を押さえた。髪を無造作にかき上げ、部屋を出て廊下を左へ進む。
 支柱になっている木の幹を通り過ぎた途端、濃い死の気配を感じ取った獣が体を膨らませた。『海月』のフィルターで濾しているにもかかわらず、強烈な死臭が鼻をつく。涙を堪え最も損傷の激しい大部屋に入ると、そこは一面、油の混じったすすだらけだった。
 最初に目に入ったのは、部屋の真ん中で立ちふさがったまま力尽きているメリッサだった。ブレイズヘアがしだれ柳のように首と一緒に垂れている。鉄鋼片のピアスは着けておらず、赤いフラメンコドレスは血で黒っぽく染まっていた。素早く黙祷し、部屋の入り口に向かって飛び散った血痕をさかのぼると、のどを横に裂いた深い切創にたどり着く。切れ味のいい得物で一直線に刻まれたらしいその傷には、澱のような黒いものがこびりついていた。ポーチを開け、それを小瓶に採取する。
 簡単な触診をすると、薄い胴回りに肋骨が浮き出ていた。脳裏にテオドロの遺した「私たちは年を取りすぎてしまった」という言葉が浮かぶ。遺体を解剖すれば証明できるだろうが、おそらく母女王と同じく、老化が進行し衰弱が始まっていたという意味なのだろう。砂漠化が進む地上で、わずかに残る山林地帯の一つに延焼した燃料施設からの火災を、数ヶ月間にわたり抑え込み続けたとの報告があった。きっとそれで神経をすり減らしたのだ。鋼は悔しそうに唇を噛んだ。
 だが何より鋼を悩ませたのは、のどへの攻撃に対する防御創がないことだった。死斑のわりに硬直が早いことから見ても、逃げたり戦ったり、要は抵抗できる状態にあったはずなのだ。それがなぜ、明らかな攻撃を前に立ちすくんだのか。
 鋼は積み重なった疑問を振り払うように頭を振った。今は興味より優先すべきことがある。遺体をかわし、彼女の後ろに回り込んだ鋼は、さらに痛々しい惨状に顔中をしかめた。猛った獣の吐息に煽られ、上唇が引きつる。
 部屋の隅にある何かをかばうように壁に対して手をついた少年の背中は、焦げたベーコンのように反りかえっていた。頭頂部に残った黒く柔らかそうな直毛と、色の薄い肌。ブルーノだ。炎神が、炎神の背後で焼死している。不可解なことばかりだと、鋼は表情険しく遺体を睨んだ。
 鋼はポーチから再びスケッチブックを取り出し、遺体の全貌を事細かに書き取った。転げまわることを許されなかった体で腕を突っ張り、壁をかきむしってもがいたはずだ。爪には確かに木の繊維が引っ掛かっている。部屋の入り口の方を向いた目は、助けを乞うているようにも見えた。「彼を燃やしていた火は、なぜ中途半端に消えたのか」と、そこまで書き連ね、鋼はブルーノの腕の間を見て息を呑んだ。
 そこには、小さく小さく縮こまったライナがいたのだ。外傷こそ見当たらないが、目がうつろに開いている。鋼はすぐさまブルーノの遺体の位置を記録し、水で丁寧に包んでから脇に除けた。即座にライナの脈と呼吸を確認し、『妖狐』を使って瞳孔の反応を診る。皮膚は蒼白にして、軽度の発汗と微熱が見られた。ショック状態だ。今この場で意識を回復させるのは得策ではない。鋼はライナに毛皮のコートをすっぽりかぶせると、立ち上がり部屋の中央を振り返った。
 瞬間、尾骶骨から這い上がる寒気を感じて鋼は息をつめた。入口の壁に向かって飛び散った、木の繊維の間に焼け付いている血痕が目に入っただけだ。ただそれだけなのに、何かひどく重たい感じが漂っている。鋼が身震いを起こしてそちらを凝視していると、不意にメリッサの首の傷から、何かがぼたぼたと垂れて落ちた。反射的に構えを取った鋼の足が震える。不明な既視感だけが先行して、心臓がすくむ。
 べちょ、と滴り落ちたものが音をたてた。『妖狐』とシアンブルーの二対がじっとそれを見つめていると、しばらくして、それから赤ん坊の呻き声のようなものが聞こえ出した。べちょ、べちょ、と音が続く。しばらく這いずったそれは徐々に形を成し、重たそうな頭をぐりんと持ち上げた。
 それは、奇形児のようなゴーストだった。眼孔が片方だけ異常に肥大している。這いずって寄ってくるその弱々しいゴーストに向けられた鋼の瞳は、次第に悲哀をおびていった。頭蓋をことばが満たす。肺から息が漏れ出ていく。
 果たして、生まれた瞬間に無数のチューブを繋がれた赤ん坊たちに、自由はあったろうか。自死という選択を否定された者は、結局幸せになれたろうか。生前消化しきれなかった二つの問いが、今になって息を吹き返すのはどうしてなのだろうと、鋼は少しだけ眉を寄せた。
 別にいいじゃないか。病気であろうが事故であろうが自殺であろうが、人間が死ぬのは自然なことだ。なのになぜ、無理やりに引き留めるんだ。ただ生きることが得意じゃなかったと、なぜそれで納得できない。障がいや自殺だって一つの命の形だと、自然なのだと、なぜ受け入れられない。それこそが迫害じゃないのか。その者の命の形を、否定する行為じゃないのか。
 そもそもは、生きたいと願う者たちが死なずにすむようにシステムが作られたはずだ。救いだったはずなのだ。なのにシステムを守ろうと躍起になったことによって、いつしか命の方がシステムに縛られるようになってしまった。だから社会は、生きられることが幸せという前提に対して異議を唱える者を、罪人に仕立て上げねばならなくなったのだ。
 『愛しているから許すだなんて、全部嘘だったんだよ』と、かつての自分が綴る。『逃げ出したいんだと打ち明けたところで、誰もまともに聞いちゃくれなかったじゃないか。生まれてきた以上そんな馬鹿なことは言うなだなんて、そんな怒号しか返って来ないのは、結局そういうことなんだ』と。『規律でがんじがらめになって、出た杭は打たれて。生まれた責任なんていうもので本当に身動きが取れなくなる前に、自分の手で自分の人生に決着を付けようとすることの、自由でいようとすることの、何がそんなに許されないのだ』と、筆先を睨みながら問うのだ。
 声にならないたどたどしい音が、足元で紡がれる。我に返った鋼は、左足の先で溶けかけた両手を伸ばそうと精いっぱいじたばたしているゴーストを見つめ返した。それは、人間の社会でおぼれ、良心と罪悪感の中でもがいていた、かつての己の姿そのものだった。上半身の緊張した構えが緩やかに解かれる。ティーカップの中の渦を、鋼はようやく俯瞰したのだ。今まで忘れたふりをして海の底深くに押し込んできたことが、重しを取り払って次々と浮かび上がってくる。
 考えてみれば私は、幼い頃からずっと、身近な存在に対する執着や暴力的な衝動を感じていた。一方で、高尚で寛容であれという神としての教えが、それを封じ込める役目を果たしていた。その二つの間で、私はいつしか執着や衝動を極端に恐れるようになり、かつ、そんな感情を抱く自分の心のあさましさに、父王や母女王への罪悪感を覚えるようになったのだ。
 十二歳を迎えた次の春、神技の目覚めが私を襲った。力を抑えきれなかった私は、文字通り父王を蒸発させてしまった。瞬間、それまで背後に隠してきた罪悪感が膨れ上がる気配を感じて、私は母女王との交流を断った。
 同じ年の夏、庭先で黒刃を見つけた。人肌恋しかったことや所有欲に押し負けたことにあれこれと言い訳を付けて、逃げられないように使徒契約で縛ったら、また罪悪感が膨れた。そしてさらに一年後、執着と衝動の赴くままに、彼に無体を働いた。それが決定的だった。大きくなりすぎた罪悪感は形を成して、独立した一つの生き物、つまり獣になったのだ。
 それからというもの、私は現実と意識を隔てる膜のようなものを感じるようになり、ことさらに獣を拒むようになった。獣は自らをもっと強大に肥え太らせようと、私がさらなる罪悪感を抱く機会をうかがっている邪悪なものだと、今の今までずっとそう信じていたのだ。
 だが考えてみれば、私の記憶なんかがあてになるはずもない。そう、実のところ、自分は獣のせいでこんなにも醜悪な存在になり下がったのだと思い込もうとしたに過ぎなかったのではないだろうか。幸か不幸か、人として二十歳になったあたりで記憶がぐちゃぐちゃに潰れてしまって、思い込みと事実との境が分からなくなったから、私はついに背後にいるものが悪の根源だと信じ込んでしまったのではなかっただろうか。
 そこまで思い至って、鋼はやっと、あぁそうだったのかと気付いた。碧眼がまたたいて、緩やかに吐息を漏らす。
 始めから、とめどない執着心も抑えきれない衝動も、私の心の活動だ。生まれ持った私の性分だ。芸術に挑み、あるいは自然を慈しみたいと思う心と完全に同一の出発点だったのだ。焦燥は、決して悪いものの仕業なんかじゃない。興奮は、何も忌避されるべき悪行なんかじゃない。私は背中という自分自身の見えない部分に、得も知れぬ漠然とした恐怖を押し付けていただけだ。私はただ、自らの命の形を、認めたくなかっただけだったのだ。
 次第に、素肌にべっとりと絡みついた熱気と死臭が薄らいでいくような気がした。背中に重くのしかかっていた獣が、うなじの裂け目だけじゃなく脊椎へと繋がっていくのが分かった。真っ黒いキツネのような影だと思い込んでいたその姿が、針山のように鋭く逆立った毛並みのような輪郭が、少しずつなだらかに収まっていくような気がする。鋼が自らのうなじを撫でると、そこには血の通った安らかな温かさがあった。思いがけず喉が膨らむ。
 今この瞬間、心の底から納得できた。私はあの時からずっと、双頭の生き物だったのだ。私一人で背負いきれなくなった罪悪感は独立して、今までずっと、私と共に歩もうとしてくれていた。獣は私に付きまとう悪しき影ではない。これはもはや、私の連れ合いだ。これから先ずっと、共に生きていくべきものなのだ。
「…………雨蛙。」
 鋼の唇から連なった波が、小さなゴーストの体を包んだ。その腋の下を支えた両手が、赤子を扱うように黒い塊を抱き上げる。鋼はその額を指で優しく撫でた。
 ふと、手を伸ばしたゴーストが前につんのめる。鋼は手の向かう先に炎神のこどもたちを認め、しばしゴーストを見つめた後でかれらの方へ歩き出した。ゴーストはその間も両手を必死に伸ばして、赤子のような声を上げている。二人の足元にそっと降ろしてやると、ゴーストは形にならない下半身を引きずって二人に近付いていった。その様子を、鋼が黙して見守る。
 と、『雨蛙』に包まれた不完全な右手が、ライナのワンピースの裾を取った。そして左手が、ブルーノのズボンの裾を掴む。そのままゴーストは手に掴んだ服を引き寄せ、抱きかかえるようにうずくまった。うずくまったまま、スンと鼻を鳴らすような音を立てる。
 鋼は、しばらく動けなかった。あの日、冷たい湖の中で、右手を包んだ母女王の体温を思い出していたからだった。牛耳で引っ掛かっていた最期の言葉が、ようやく脳を伝って心臓の辺りにストンと落ちる。
 表層に惑わされて、最初から疑っていた。違ったのだ。言葉が愛を装ってやってきたのではない。愛の欠片が言葉に包まれて手渡されただけだ。あれは未練でもなければ呪いでもない、ただの想いだ。あの冷厳な母女王の元には、不完全であろうとも確かな愛があったのだ。期待に応えなければならないわけでも、見返りを払わねばならないわけでもなく、私はただ、それを受け取ればよかったのだ。
 月光に照らされた背中に、ほんのりとぬくもりを感じる。鋼はそっとしゃがみこみ、ゴーストの丸い頭を撫でると息を止めた。月色の雫がまつ毛を濡らし、頬を伝ってゴーストの上に落ちる。雫に触れた途端、ゴーストは燃え上がるような緑をあたりに散らして天に昇った。ブルーノの遺体を申し訳なさそうに包んで消えた煙からは、かすかにタバコのような香りがした。
 黒煙の切れ間から顔をのぞかせた月とその光に映し出された影が、鋼を包むように寄り添う。息をついた鋼は部屋の中を見回し、深く頭を下げた。再び現場を水の壁で囲うと、ライナの元まで歩み寄り、毛皮のコートと自分の体で包み込むように彼女を抱え上げる。
 廊下に出た鋼は空中に小ぶりの『手毬』を作ると、ライナを抱きかかえたまま乗り込んだ。背後では風に吹かれて、家だったものが揺れている。
「……寝心地はよくないだろうけれど、ライナ、今はゆっくり休めばいい。次目覚めたときに、どうするかを考えてくれればそれでいいんだ。だからどうか、母君の想いだけは忘れないでくれ。」
 トントンと背中を叩く鋼の手の音が、『手毬』の内側を震わせた。ライナの冷え切った体に鋼の体温が滲む。小さな体だった。薄いペンだこのある褐色の右手を、鋼は包むように握った。
 焼け跡のない茂みの中に降りると、鋼はライナを『手毬』の中に横たわらせ、一人その外に降り立った。熱風が吹き荒れ、下草がざわめく。金属の擦れるような音が、視線の先から微かに聞こえていた。足が肩幅に開かれ、右手が掲げられる。
「水神女王ニェフリートの権限で、現時点をもって過去お前に課せられた命令の一切を無効とする。我が命に応え、その動きを止めよ。」
 鋼が静かに紡いだ直後、茂みから野太い咆哮が上がった。見開かれたシアンブルーの瞳に、迫り来る小柄なゴーストの姿が映り込む。
 反射的に飛び出した『鎌鼬』が、そのゴーストの首をはねた。鈍い音をたてて転がった首の在り処から、工業油のような強い臭気が煙と共に立ち昇る。
 幾度かまばたきをした鋼は、ライナの手前、笑みがこみあげてくるのを押し殺した。焦ってか驕ってか、裏切り者が尻尾を出したのだ。今のゴーストは、止まれと言う女王命令を無視して向かってきた。女王命令を拒否できるのは、同じく王位権限による命令を受けている場合のみだ。
 フィーネは裏切り者ではない。女王か王になったことのある左利きの神。それが条件だ。もうためらう必要はない。
 東から強い風が吹いた。藍色の髪が乱れる。獣の忙しない息使いを感じた。
「鯨波。」
 紡がれた声がさざなみ立つ。

いいなと思ったら応援しよう!

オリヴィエ・ラシーヌ
この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、チップという形でお気持ちをいただけると恐縮です。