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『求道のマルメーレ』#10 第四編 王女と女王(二)

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第四編 王女と女王(二)

 黒刃が女王を抱えて後方へ飛ぶように逃げる。着地し再び構えを取り直した鋼は、注意深くゴーストの様子をうかがった。
 雪の塊を背負ったゴーストが短くなった腕で体を支え、関節をぎしぎしと軋ませながら立ち上がろうともがき始める。金属のこすれ合うような音がこめかみを這いずり、鋼の耳へ届いた。ただそれでも、ゴーストの視線は女王からそらされない。
 思考する暇を得た鋼は、二、三度のまばたきと同時に意識を切り替えた。白い息が漏れる。
 これで女王に対する具体的な執着が存在するのは確実になった。問題は、この執着の出所がなんなのかということだ。
 女王が幻想界のみに知られた存在である時点で、現世界の人間は女王に対する執着を持ちえない。つまりこのゴーストは、自らを形作る魂たちの執着以外に、何らかの命令を受けて行動している可能性が高い。
 どうも活字にはできない情報を覚えておかなければならないらしい。鋼は眉をひそめ、二つの文を頭の隅に強く刻み付けた。
『犯人はエレメント神の中にいる これは裏切りだ』と。
 鋼は背後の二人との十分な距離を確認し、今までとは全く違う構えを取った。地面をすった足が雪を掃い、完全な円を描く。深い腹式呼吸が唇の間を抜けた。重心が沈む。
 立ち上がったゴーストが、体表を覆う澱を滴らせながら女王めがけて突っ込んだ。その太い唸り声に対し、鋼は舞踏のような計算された動きで二歩踏み寄った。すり足の跡がなおも完全な弧を描き続ける。ゴーストまでの距離が計算にピタリとはまった。三歩目によって体の回転が加速し、『雨蛙』に包まれた右手の指先から軌道の外側へと水滴が飛び散る。
 次の瞬間、内旋する掌底がゴーストの胸部を直撃した。右肘の追撃が姿勢を崩し落ちてくる顎先を打ち上げる。空中に置いて行かれた水滴がらせんを描き、止まることのない全身の回転がさらに、左の手刀をゴーストのこめかみへ打ち付けた。ゴーストの体はその場でもんどりを打ち、勢いよく地面に突っ伏した。
 白い吐息が溶けて消える。ゴーストは起き上がろうと這いつくばった。が、節々に力が入らない。がくがくと体を軋ませるばかりで起き上がれないようだった。鋼は『雨蛙』で武装したまま構えを解き、噛んで血の滲ませた唇で大きく息を吸い込んだ。
「水神王女ニェフリートの権限で、現時点をもって過去お前に課せられた命令の一切を無効とする! 我が命に応えよ!」
 洞穴のような眼孔を目掛けて、鋼の声が冷たい空気を裂く。途端にゴーストはもがくのをやめ、その場にべしゃりと崩れ落ちた。完全な活動の停止を認め、鋼が右手を振り捌くと、ゴーストの周囲を水のドームが覆う。
 裏切り者の立場は、正式な女王位継承者よりも下らしい。つまり、転生前の略式継承者か、使徒か、あるいは消息不明の堕神か。だが絞り込むには、この命令を下した時期の特定と、攻撃対象の精査が必要だ。再び頭の中にそう刻んだ鋼は、体を覆っていた『雨蛙』を辺りに散らした。
 ようやく地面まで到達することを許された雪が宙を舞って落ちる。鋼は鋭く息をつくと、踵を返して二人の方へ向かった。吹雪は急激にその勢いを落としつつあった。
 雪を踏む足音が規則的に進む。近付いた碧眼と目が合うなり揺らいだ黄色の瞳に、鋼は直感が確信に変わるのを感じた。
「役割は果たせてるはずなんだ。なのに……」
 息を揺るがした黒刃はその続きを音に乗せるのをためらっていた。だが、横たわった女王の、まるで体の外側に浮き上がるような肌の感じと、輪郭を取り囲む靄のような滲みが、その先を代わりに語っていた。
 女王のすぐ横にまでたどり着いた鋼が、その傍らに膝をつく。胴体を貫通した氷柱は、腹部に開いた穴を塞いでいる部分を残して切除されていた。
 空色の長い髪がさらさらと滑り、黒刃に支えられたキャロディルーナが目を開ける。藤色の瞳の中に鋼の姿が映りこんだ。血に染まった真っ赤な唇から上がった吐息が、白く曇ることもなく消えていく。
「……よく、もたせてくれた。すまないが……二人きりにしてくれないか。」
 不意に漏れた女王の穏やかな声音に、黒刃の表情が硬くなった。女王を支える右腕が、静かに鋼の左腕と交代する。黒刃はゆっくり身を引くと女王に向かって深くお辞儀をし、顔を上げずに木陰に姿を消した。
 二人きりになってもなお、鋼は何を言えばいいのか分からなかった。女王が震える手で湖を指差す。
「連れて行ってくれ。」
 鋼は言われるままにキャロディルーナを抱きあげた。そしてひどく後悔した。自分と頭一つ分以上に差があるその体が、自分よりもよっぽど軽く思えたのだ。左手が支えた女王の肩は骨ばっていて薄く、目の周りは眼孔に沿って落ちくぼんでいた。片手で掴めそうな足を二つ引き寄せると、絞ってあるのだと思っていたウエストがボディラインそのままだと分かった。初めて目にした自分を見上げる藤色の瞳に、碧眼がたじろぎ、視線をそらす。
 鋼は波を割って、体の周りだけ温度を上げた湖水に踏み入った。キャロディルーナの体が水面に達する。つぶやくように『海月』を唱え、押し寄せる波にあらがって、二人は湖に沈んだ。
 湖中は地上よりも暗く、少し暖かかった。浮力によって上昇しそうになる女王の体を押さえる。鋼は会話のために、耳と口元を覆う大きな気泡を女王と共有した。すると、キャロディルーナの呼吸の音が、か細く鳴るのが聞こえた。
「賢明な判断だった。今後も制御に励み、精進するといい。」
 女王が告げる。心臓の辺りにざらざらした痛みを感じながら、鋼はただ
「はい」と返すことしかできなかった。
「水は生物の砦だ。水神の力は、何としてでも継承せよ。」
「……努力します。」
 碧眼が、痩せて骨ばった鼻筋をなぞる。鋼は己の冷めきった声音と心情との差に、下唇を少し噛んだ。
「……お前は聡い。したたかで、優しい娘だ。だが柔軟性に欠ける。水のように自由に生きろ。いいな。」
「…………はい。」
 鋼の凝り固まった声を最後にして、二人の間にはぎこちない沈黙が垂れ下がった。鋼は時折唇をつぐんだり緩めたりするばかりで、結局何も口にできなかった。
 いたたまれなくて背けられた鋼の視線が、女王の足元に向く。途端にその目が見開かれた。ドレスの裾からは、掴んでいたはずの細い脚ではなく、ベタのような尾ひれが伸びていた。しかも、その上部に並んだ鱗のいくつかは白濁して崩れている。それは、人間の姿を維持できないほどに衰弱していることの証明だった。ありえない。女王はまだ、こんな風になるほど老いてはいないはずだ。だが目に映る女王の姿はもう六十歳に近いもので、すなわち三百年を優に超える時を過ごした者の姿に思えた。女王はまだ、二百五十年ほどしか生きていないはずなのに。
 鋼の吐息が震える。だがキャロディルーナは特別動じる様子もなく、黙ってそれを見つめていた。
「自業自得だ。私は、人々が水を穢すのを止められなかった。毒と知らぬままに、自ら毒を捨てたことさえあった。だからせめて、お前たちにはこれを継がせまいと——」
 言い切れず女王が咳き込む。かろうじて口を覆ったその手の爪に固まった血が付いているのを目にし、鋼はグッと顔をしかめた。
「そんなの……私だって、自業自得です。」
 低い声が『海月』を震わせる。女王は疲れたように息をついた。『海月』からあふれた気泡が湖面へ登っていく。
 魚たちはみな、眠ったように湖底で息をひそめていた。女王の細い首から伸びるペンダントが唯一、水中を漂っている。その金色の円盤に反射した月明かりが、瞼が開いているのかどうかも分からないような暗闇を割いて、藤色の中に差し込んだ。キャロディルーナはその一光にゆっくりと瞼を開閉させ、そして鋼の顔を仰ぎ見た。
「ニェフリート……手を、出しなさい。」
 緩んだ声音がぽつりとそう紡ぎ、『海月』の中の空気を震わせる。びくりと瞳を揺らした鋼は一秒間たっぷりと沈黙して、握っていた右手を恐る恐る差しだした。冷たい水が手のひらを撫でる。キャロディルーナは水を器用に操ってチェーンを外し、掴んだペンダントを鋼の手に乗せた。そして、ペンダントごとその手を握りしめた。青白い両手が、鋼の右手を強く強く握りこむ。
 思いがけず鋼の唇が薄く開いた。今になってやっと直視できた藤色の虹彩に、桔梗のような模様があるのに気付いたからだった。頭蓋の中を、低い唸りが満たし始める。
「あなたに、ずっと言えなかったことが二つある。」
 霞んだ声が鋼の心臓を殴った。膜が眼前に漂い出す。鋼の手を掴んだ女王の爪先が白むのが見えた。
「あなたとはもっと、一緒にいるべきだった。」
 喉が膨らむのを感じ、唇をつぐむ。ただそれだけだった。嗚咽がのどを上がってくる気配も、目元の熱も感じなかった。水の中で、シアンブルーの光が二、三度またたく。
「泣かないでいいのよ。これからは、ずっとそばにいるのだから。」
 その言葉に突き放されて、鋼はまた一歩、女王が膜の向こうへ遠ざかるのを感じた。キャロディルーナの肩を支える左手が痙攣している。
 女王は鋼の手から左手だけをそっと離すと、ゆっくりと手を上げ、そして手のひらで優しく鋼の頬を包んだ。頬骨のすぐ下を親指が撫でる。二度、三度と、しばらくそうやってから、キャロディルーナは目を伏せ、満足そうに微笑んだ。
「……愛しているわ、ニェフリート。」
 トンと鋼の肩に頭を預けた女王の、鋼の頬に触れていた左手が浮き上がった。その拍子にビショップスリーブがめくれあがって、細い手首に巻かれている何かが覗いた。
 次の瞬間、湖底から気泡が噴き出した。鋼は反射的に目をつぶり、ペンダントを掴んだままの手で顔をかばった。泡が爆ぜる音が鼓膜を揺らす。何万もの泡が鋼の素肌を撫でて、湖面へ一気に駆け上がっていった。
 音が止み、恐る恐る目を開けると、女王は消えていた。残された服だけがゆっくりと湖底へ落ちていくのが見えた。全身の力が抜け、まもなく、視界を色収差の滲みが覆いつくしていく。半透明の膜が、意識と体を引き離していく。
 ほとんど放心状態になった碧眼は、呆然と湖面を見上げた。そして月光の筋の中に一つ、細い影があるのを見つけた。唇が薄く開き、重い左手がゆっくりと伸びる。舞い落ちたそれを捕まえると、左手は眼前に降りてきて手を開いた。
 瞬間、『海月』が散り散りに壊れた。膜越しの鈍い感覚から抜け出した鋼は、思わず息を詰まらせて眉を寄せた。開いた唇から、今更のように嗚咽が漏れる。
 それはミサンガだった。白と水色と紫の糸でつたなく編まれた古いミサンガ。見覚えがあった。触れた覚えさえあった。糸は傷み、いくつもの千切れた跡は、別の糸で上から縫い留められている。たった一か所、真新しい切れ目を除いて、何度も何度も繋ぎ合わされていたのだ。
 鋼はペンダントとミサンガをそれぞれの手に握りしめ、ただただ、小さくなって震えた。

 吹雪が去り、嘘のような静けさが辺りを満たしていた。雲が切れて、その隙間から月明かりが差している。黒刃は枝の上の動かないフクロウに時折視線を投げながら、かじかむ手を腋に挟むように腕を組んでいた。腹の底からやってくる身震いに、首をすくめて耐える。
 不意にフクロウが飛び立った。枝の上に積もっていたらしい雪が足の先に落ちる。と、背後からぽたぽたと水の垂れる音が聞こえた。
 木陰から出ると、うなだれた鋼がずぶ濡れのまま立っていた。慌てて駆け寄り、その体を濡らす水をすべて滑り落とす。即座に抱きしめると、冷たすぎる小さな頭が首元に押し付けられた。痛みを覚えるほど急激に体温が奪われるのを感じ、黒刃は息を詰めた。
「鋼、絶対眠るな。全部書くまでは寝ちゃだめだ。分かるな。」
 そう言いながら黒刃が背中を撫でると、鋼は一本調子な返事をした。『蜥蜴』に遮断された鋼の痛覚を『金継ぎ』で直す。それでも鋼は微動だにしなかった。
 木に積もった雪がどこかで落ちる音を数えること三度。黒刃の腕の中で固まっていた鋼は、ようやく戻ってきて体をピクリと動かした。丸まった肩を黒刃の手がゆっくりさする。視線を上げた瞳は、黒刃をじっと見つめた後で力なく微笑んだ。
「雷雪、収まってよかったねぇ。」
 束の間、黒刃の唇が引き締まる。苦々しく眉を寄せた黒刃は鋼の肩を掴み、微かに青みが差したガラスのような目をまっすぐに見た。
「鋼、違う。違うんだ。……もう、そこじゃない。」
 ガラス玉が二、三度、ゆっくりとまたたく。やがて開いた鋼の唇は、機械的におうむ返しをして俯いた。黒刃が再び鋼を抱きしめ背中をさすると、ペンダントのチェーンがしゃらしゃらと鳴る。鋼はまた、その頭を黒刃の肩に預けた。
 枝から雪の塊がさらに二度落ちた頃、やっと鋼の吐息が白んだ。濡れた瞳はまばたきの度、少しずつだが色を取り戻している。黒刃はやっと一息ついて、ひどく切ない顔で藍色の髪に口付けた。
 白い息が数度吐き出される。ぼんやりと顔を上げた鋼は、ゴーストを囲った水のドームの方に目をやった。
 その唇が、ふと薄く開く。
「……俺ね、レギオンにしたこと、後になって見返してさ。それで最近、やっぱり浅はかだったのかなって、思うようになったんだよね。」
 唐突に発せられた言葉に驚いて、黒刃は鋼をまっすぐに見下ろした。長いまつ毛が能動的にしばたかれている。鋼はミサンガを握ったままの左手を黒刃の胸元に置いた。
「集団思考に飲まれて、自分で考えられなくなったものに生きる意味はないって、そう思っていた。何を言っても内省できない、信じられないほど身勝手なやつって実在するから。でも、だからって殺していいわけじゃないんだよね。死の冷たさを知ってる俺は、あの時レギオンを許すべきだったんじゃないかって思うようになったんだ。あれはただの黒刃に対する執着で、俺は易い方に流れただけだったんじゃないかって。」
 鋼がいったん口をつぐむ。湖底からようやく上がってきた心が、瞳に光を灯したのが見えた。再び流暢に紡がれ出した言葉に、黒刃は必死でしがみついて追いかけた。
「復讐って、仇を討って終わりっていうのが一般的だけど、今の俺はそうじゃないと思うようになりつつあるんだ。多分、死っていうのは、お互いにとって最も簡単な罪からの逃避だ。加害者が死んだ時点で罪は永遠に償われないし、被害者や残された者の心も罪の結果にむしばまれ続ける。きっと、それじゃだめなんだ。」
 息を継いだ鋼の眉が、切なげに寄せられる。
「難しいね。殺すのはあんなに簡単で、それ以外の方法を探すのはすごく難しい。どうしたら罪が償われて、どうしたら罪人が許されるんだろうって、今は答えが全然分からないんだ。でもね、最近、本気で思うんだよ。……本当の復讐って、仇個人に対する報復のことじゃなくて、自分の中の、易い方に流れようとする心に屈さないことなんじゃないかって。許そうとする心と償おうとする心の、二つの苦悩の先にこそ、目指すべき魂の救済があるんじゃないかって……。でも、今更こういう綺麗事を言うのって、やっぱり無責任なのかな。」
 黒刃は目を丸くした。女王の仇であるゴーストに向けられたまっすぐな双眸からは、怒りや恨みの類が消え失せているように見えたからだった。
 ゴーストという人間の魂の集合体は、身勝手とか無配慮とか執念とか、そういう人の心のむごい部分を煮詰めたようなもので、それは鋼が世界中の何よりも嫌うものであったはずだった。事実、鋼は今まで、蔑むような目でつまらなさそうにゴーストを見ていたはずだ。
 だが、今の鋼の表情にはそういう拒絶がない。彼女の視線の先のゴーストは、誰かの命令を受けて、その是非を考えることもせずに女王を殺したというのに。鋼が最も嫌う、思考を放棄した人間の末路だというのに。どうやら鋼の心は自分の憤りよりも、執着と盲目のもとに生まれ落ちたゴーストに対する憐情に染まっているようだった。無情に産み落とされた命を自分に重ねているのか、あるいは女王の死因があくまでも神としての衰弱であったと納得しているのかは定かではない。だが、いままで行きつけなかった穏やかさの中に、執着の対局であり断念からも程遠い境地に彼女は立っているのだと、黒刃にはそれだけが分かった。
 月光に照らされて輝く横顔の滑らかな輪郭をじっと眺め、その絵画のような美しさに息が止まるような心地を味わう。振り向いたみずみずしい碧眼を目にして、黒刃は自分がこのまま死んでしまうんじゃないかという気すら抱いた。風に撫でられた髪が、ふわりと持ち上がって揺れる。
「…………鋼の心は、綺麗だよ。」
 半ば意識の外側で声が出て、黒刃は目をしばたいた。鋼の細められた目が雪の結晶のように輝く。
「ありがとう。……やってみるよ。」
 そう言って、鋼は黒刃から視線を外した。もたれかかっていた体の重さが離れていく。立ち上がった鋼はミサンガを小鳥か何かを扱うようにポケットにしまうと、顔を上げ、伏したゴーストの方へと向かった。
 鋼が足を踏み出すたびに雪がサクサクと音をたてて壊れ、歩みの軌跡を残す。黒刃は引き寄せられるようにその後を追った。水のドームの前で立ち止まった鋼の間合いに入ろうとする直前、振り返らぬままに手で制される。歩みを止めた黒刃は散っていく水の檻を見守った。
 途端にゴーストの臭気が鼻をつく。顔をしかめた黒刃と対照的に、鋼はただ瞳の青さをゴーストに注いだ。
 宣誓のように、ペンダントチェーンの絡んだ右手が静かに上がる。
「水神王女ニェフリートの権限で、お前をハイラと命名する。我が命に応えよ。」
 鋼の発声に反応して、ゴーストはのっそりと上体を起こした。ひざまずくように低く首を垂れて、しかし微動だにしない。
 切なげに眉根を寄せた鋼はその場にしゃがみ、ゴーストの鼻先に人差し指を掲げた。
「ハイラ、君は今後、このニェフリートの許可なく何かを殺したり奪ったりしてはならない。そして君には、常に『雨蛙』をまとっていてもらう。それと、私が名を呼んだら私のもとに来ること。今のところ、君の義務はこの三つだ。理解したら首を縦に振りなさい。」
 鋼が、言いながら立てた三本の指をゴーストの眼前で振る。空ろな眼孔は確かに鋼の方を向いていたが、ゴーストは何の反応も見せなかった。鋼の視線が陰る。
 立ち上がった鋼はゴーストに『雨蛙』を付与して、再び足を肩幅に開いた。
「水神王女ニェフリートがハイラに命ずる。我に付き従え。」
 鋼が右手を降ろす。ハイラは関節をぎしぎし鳴らしながらも命令通り立ち上がった。肩にぶら下がった短い腕が、居心地悪そうに揺れている。鋼は元の長さになるように水の義手を与え、踵を返した。おぼつかない足取りでゴーストがそれに続くのを見て、黒刃はその背中を追った。
 紫がかった真っ黒い体が薄い水の衣をまとって、あっちへふらふら、こっちへふらふらと進む。黒刃はしばらくして、自分がその姿に若干のいら立ちを感じていることに気付いた。その足取りは立つことができるようになったばかりの赤子のようでもあり、ボロボロの肌は一方で、社会に使い倒された老人のようでもあった。何も持っていないから何か縋りつくものが欲しいのに、それを探す術も分からなくて途方に暮れたような大きな背中が曲がっている。穢れから生まれ落ちた無垢な生き物。そういう感じがして、それを憂う鋼の気持ちも分かるような気がする。
 顎にしわをこさえて正面の背中から目をそらし、黒刃はその馬鹿みたいに大きな足跡を踏みなぞった。ひどく歩きにくかった。
 雪が舞い、はらはらと落ちる。モミの木のかさぶたのような肌が、湖畔に佇む大岩が、動じることなくただ湖面に映り込む月の影を見下ろしている。鋼は立ち止まって帽子を拾い、その内側の長毛に絡んだ雪を掃うと、不意に寒空を見上げた。
 黒刃がつられて天に目をやると、当たり前に満ちた月がいつもと変わらない姿で浮かんでいた。鋼はその強い光に一瞬目を薄くし、されど見据え続け、やがてゆっくりと双眸を開く。
 そして彼女は、わずかに眉を寄せて微笑みを浮かべたのだった。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。