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『求道のマルメーレ』 #19 第七編 雨後の道の先(二)

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第七編 雨後の道の先(二)

 岩山の窪みの外では、弱々しい風が吹いていた。直射日光にさらされた秋風は乾ききっていて、直接それに当たるだけで肌がひび割れそうだとすら思える。どこかで赤褐色にただれた山肌が、その脅威に耐えきれず崩れ落ちる音がした。だが、逃げ出す動物などは見当たらず、山腹にいる生き物と言えば枯れた低木くらいだった。
 鋼は、この辺りで最後に残された二つの黄緑色の瞳を真っ直ぐに見据えていた。エーテルは静かに、鋼が持参した炎神事件の報告書に目を通している。彼女が時折眉をしかめる以外に、二人ともほとんど動かなかった。座した床に敷かれた絨毯の毛をこよりながら、鋼は、自分でも何故だかよくわからないほど高揚している己に気が付いた。獣が鼻を鳴らしている。暑いくらいの陽気なのに、二の腕が粟立った。
 しばらくして最後のページを読み終わったエーテルが、凝ったらしい首を押さえつつ書類を整える。
「確認のため、ご署名いただけますか。」
 別紙の署名欄を示して鋼が万年筆を差し出すと、エーテルはそれを受け取り、記名した。左の手で滑らかに。
 右に向かってインクのかすれた署名状が差し出される。しかし鋼がなかなか受け取ろうと手を出さないので、エーテルは怪訝そうな表情を浮かべた。黄緑色が、黙し俯いたままの鋼をうかがっている。
 やや間があって、鋼はようやく意欲的に手を伸ばした。紙を受け取るために手のひらが上を向く。エーテルが紙を支える指の力を抜いたその時、鋼は差し出された紙を通り過ぎ、がっしりとエーテルの手首をつかんだ。署名状がひらりと舞い落ちる。エーテルは肩を跳ねさせ、一瞬硬直した。だがすぐさま、取り繕うように冷静な声を上げる。
「何をするのです。お放しに——」
「——エーテル女王陛下。」
 だが叩き切るような鋼の声音に言葉を遮られ、エーテルの瞳はかくかくと揺れた。
 それを目にした鋼は思いがけず、彼女に向けて美しく微笑みを浮かべた。
「あなたに、ぜひ見ていただきたいものがあるのです。」
 そう言って懐から取り出したものを、エーテルの手のひらに乗せる。鋼が手を引くと共に現れた、ロケットピアスの中の写真に、エーテルは息を詰めた。細まっていた碧眼がきゅるりと丸く光る。
「あぁやっぱり。あなた、この少年をご存じだ。」
 写真の縁を指で突くと、鋼は即座に続けた。
「彼、私の兄ですが、神技未覚醒児なんです。王妹である私でさえ、つい先日まで彼の存在を知らなかった。文献にも残っていない、父王と母女王以外の誰とも交流していないはずの少年を、どうしてあなたがご存じなのですか? エーテル女王陛下。」
 華奢な鎖骨周りが、呼吸によって微かに上下する。エーテルは頑なに目を逸らし続けた。
「……偶然、同じ町に生まれ落ちた。ただそれだけのことです。」
 ようやく口にされた返答に、鋼は鼻で笑って返す。
「ご冗談を。であればなぜ、幻想界での姿を知っているのですか。性別以外全て、色素も顔つきも違うでしょう。」
 エーテルは更に表情を硬くし、口をつぐんだ。だがつぐんだままで動かない。やはりもっと追いつめないと自白はしないものかと、鋼は掴んでいたエーテルの手を離した。ロケットの蓋を閉め、左耳に着ける。その間エーテルは何かを必死に考えるように、長いまつ毛をひたすらにしばたかせていた。
 風が息をひそめる。鋼は若干身を引き、エーテルとの間に余裕を持たせて続けた。
「炎神事件の日、亡き地神王陛下は我が使徒の憂慮を気にかけ、堕神とされているフィーネ様の所在を再調査すべく、単独で霊道を訪れていらしたと思われる。そこから致命傷を受けるまでの推測が、その報告書には記されていますね。ですがこの話、続きがありまして。彼、ダイイングメッセージのようなものをお残しになったのです。『SAND』と。」
 エーテルの表情が怪訝そうに歪む。
「事件後、彼の足跡や靴の裏などを調べました。するとある特徴的な砂が多く見つかった。角に丸みを帯びたケイ素質の砂で、多くは石英でした。これね、砂漠の砂の特徴なのです。」
 微笑みを浮かべながら言うと、エーテルは眉間にしわを浮かべた。
「……あなた、一体何をおっしゃりたいの。」
 低くそう唸られて、鋼は眉を持ち上げてみせる。エーテルの眉間のしわはさらに深まった。一方の鋼は、かつて母女王が無表情を貫き通したように笑みを保っている。
「前回こちらに訪問した際も、今回も、あなたは私に風神霊道を使わせなかった。いや、そもそも霊道どころか、聞けばあなたを訪問した神々はみな、風神領域を目にしたこともないと言うではありませんか。滅した雷神から継承なさったこの砂漠地帯でしか、あなたとはお会いしていないと。」
 鋼は一つ息を継ぐと、すだれのようなまつ毛の向こうに透けて見える瞳を捕えて言った。
「エーテル女王陛下。あなた、風神領域あるいはその霊道に、何かをお隠しになっていらっしゃいませんか。」
 瞬間的に黄緑色の瞳が震える。生前聞いたことのある、隠し事がある人間の習性の一つだ。だがエーテルは居住まいを正し、鋼を見下ろした。
「無礼が過ぎますよ、ニェフリート陛下。第一そのようなこと……全神会議で指摘なさればいいものを。」
 震えるほどではなく、しかしわずかに上ずった声でエーテルが叱責する。鋼は見下ろされたことを逆に利用し、追い打ちをかけるように上目遣いになった。
「その通りです、エーテル陛下。ならば今、私があなたに個人的に質問している意味もお分かりでしょう。」
 エーテルの乾いた唇が力み、息をひそめる。碧眼がさらに細まった。
「ご心配なさらずとも、ライナ殿下があの状態である以上は穏便に済ませたいのですよ。」
 数秒の時が鈍く流れ、微風さえも消え去る。エーテルは苦虫を噛み潰したような顔で、敷かれた毛皮の絨毯に浮かぶ斑点模様を目で追った。だがやはり口を割りそうにない。あと一押し必要なようだ。鋼は再び身を引き、さらに姿勢を崩した。
「……先代水神女王がゴーストの攻撃を受けて逝去した日以来、私は保管庫のある我が家への侵入を常に警戒していました。あれは私の全てですからね。炎神事件の時にも、結界を張って痕跡を見逃さないようにしておいたのです。」
 あえて目を逸らし、独り言のようにつぶやく。わざと与えた隙に飛びかかってこない程度には冷静なようだと、どこか安堵している自分を怪訝に思いながら、鋼は淡々と続けた。
「炎神領域から帰宅後、確かに結界には何の痕跡もありませんでした。けれど保管庫から一つ、無くなったものがあることに気付いたのです。割れたジェダイトのブローチ。澱の絡んだあれが、瓶ごとないのです。」
 視線を持ち上げると、緊張した目とかち合った。
「前から疑問でした。あれは誰のもので、なぜあの家に置いてあるのだろうと思っていた。そこに形見のロケットです。私はある恐ろしい仮説を思い付きました。……あのジェダイトは、亡き兄王子が手にする予定のものだったのではないだろうかと。」
 エーテルの瞳が生理的に震える。鋼はここぞとばかりにたたみかけた。
「神技覚醒前の交通事故による死。口伝を信じるなら、まれにあることと悔やまれて終わりです。だがもしそれが、神技覚醒時の暴走による死をうやむやにするための作り話であったのなら、話は違ってきます。我が父王と母女王が、王子である彼と、これから王女を成さねばならないかれら自身を天秤にかけ、後者を取ったとすればどうです? 私を襲った一例目のゴーストは、同じく暴走したのに救われた王女への嫉妬によって。二例目のゴーストはブローチへの執着によって。母女王を襲った五例目のゴーストは怨恨によって。全ては亡き兄王子が抱えた恨みを晴らすための犯行と説明できるのではありませんか?」
 乾いた唇が噛まれ、そこに薄く血が滲む。風のうなりのような音と共に、エーテルは低い声で責めた。
「……お医者様で、時の画家で、富も名声も手にしておきながら、どうしてあなたはそんなにも人の罪を嫌うの。罪人のはびこる世界で、あなたは私なんかよりもよっぽど上手に生きたんでしょう? 八十余年もの長い人生を謳歌したはずのあなたが、どうしてそんなもに楽しそうに人を惨めにさせるのよ。」
 そう言って睨まれた瞬間、鋼は背筋を這った悪寒を吹き飛ばすように冷笑した。
「楽しそう? 惨めにさせる? バカをおっしゃいますな。それは逆でしょう? 惨めなのは、今日という日まであなたに逃げられ続けた私だ。楽しんだのは、鮮やかに神殺しをやってのけたあなたと兄王子だ。」
「違う‼ そんな、トワはそんな人ではないわ!」
 泣き叫ぶような声に怒鳴られて、鋼は反射的に声を荒げた。
「ではぜひ聞かせてほしいものだ! あなたの言うトワが、いかに潔白な人間であったというのかを!」
 エーテルのいかった肩が激しく上下する。その目が徐々に潤むのを、鋼は黙って凝視していた。
 岩窟の入り口をかすめた風が高く鳴って消える。数秒の静寂の後、血の滲んだ唇が恨めし気に開かれた。
「トワは、あなたの兄は死ぬべきではなかった。……少なくとも、あんな死に方が許される人ではなかった。」
 そう告げた唇が微かに震えるのが見える。鋼は沈黙を続けた。
「私たちの生まれた町は、とても閉鎖的だった。都会にも田舎にもなりきれない、災害の多い町。犯罪や汚職や、差別が日常の町。私はそこで売春婦の娘として生まれた。父親は分からない。そうである以上私には、母と同じ道以外に生きる方法がなかった。」
 エーテルのまとった羽織の鳥のような裾が、微かな音をたてて地面をこする。
「死んだように生きていたある日、小さな男の子が店の近くの川辺で歌っていた。幻想界の言葉で。それがトワだった。いつも無邪気な笑顔で私に話しかけるの。いつしか、あの子とおしゃべりすることが生きる糧になっていた。あの子は私の……光だったのよ。」
 震える吐息のような風が吹き、岩窟に舞い込んでくる。
「あの子の背がずいぶん高くなった頃、あの子は私を連れ去りに行きたいと言った。一緒に自由になろうと言われて、私は稼ぎの一部を持って待ち合わせ場所に向かった。長い長い時間を待ったわ。日が暮れて店に戻らなくてはならない時まで待った。でも、彼は来なかった。」
 地面についていた拳が膝の上に移動して、さらに固く握られた。あまりに強く握りこまれて、指の関節が白む。
「その日の客は、町の警官だった。帰り際、男にコートを着せた時、ポケットから何かが転がり出た。真新しい指輪だった。私はそれをどこで手に入れたのか聞いた。彼は素直に答えたわ。麻薬常習者が運転していた車に轢かれて死んだ子供の持ち物から盗ったのだと。質に行ったが値が付かなかったゴミだから、欲しいならくれてやるとそう言った。その指輪の内側には、私と彼の名が、刻まれていた。」
 拳と肩が震える。エーテルの声は、もう微風にかき消されるほど細くなっていた。
「悔しくて悔しくて……魔が差したのよ。はじめは少しでいいから、あの子にお別れが言いたかっただけ。でも見つけてしまったら、今度は手放せなくなってしまった。一方的にあの子の魂を風神霊道に閉じ込めておきながら、様々な穢れから守っているつもりでいたの。ある日気付いたら、あなたの言うゴーストの形になっていたけど、それでもあの子はトワのまま。あれこそが人だと、悪魔みたいな罪人よりよっぽど愛されるべきものだと、本気で思っていた。」
 息を荒げたエーテルの背中が丸まり、頭が低くしなだれる。結わえられた銀髪が地面をこすった。
「ある日、トワの求めるままに、あなたの家からジェダイトを盗みだした。けれど誓って、あの時キャロディルーナ様があんなことになっていらしたなんて知らなかったのよ。後からそれを知って、私もう……だって、まるでトワがそれを知っていたようで……ッ。」
 言葉を詰まらせたエーテルは、母女王と同じくらいに老けて骨ばったうなじをさらし、嗚咽を漏らしながら何度も謝り続けた。
 鋼はその姿を見下ろしながら、推理の達成感や懲悪の爽快感を微塵も感じていなかった。先ほどまでの高揚は跡形もなく消え去り、むしろエーテルの謝罪の様に、滝のような冷や汗を流すばかりだった。今になってようやく高揚が虚勢であったことに気付いたが、そんなのは後の祭りだ。散々追い詰められて、未だに癒えない傷をほじくり返されて、引きつった嗚咽を漏らすエーテルの姿は、本当に鋼の少女時代にそっくりだった。そして彼女がそうならざるを得ないように仕向けた自分は、まさしくかつて己が恐れた大人たちそのものだった。こみ上げる吐き気を紛らわそうと、何度も唾を飲む。
 エーテルが風神霊道にトワを閉じ込め、霊道内の管理を怠っていたことは事実であったし、それを暴くことには成功した。だのにそこに存在したのは、羞恥心とか罪悪感とか、すなわち自己否定の類だけだった。今まで夢中になって追いかけてきた疑問の中身を引きずり出した結果、自分の心の矮小さと醜悪な様をぶち明けることになったのだ。
 自分の犯した過ちに気が付いた瞬間、そんなことは認めたくないと拒絶する自分が現れた。いますぐに現実から逃げ出してしまいたいと怯える自分が。次第に深いうねりの音が頭蓋を強く揺らしだして、今まで堪えていたあらゆること、とりわけ過ちに対する恐怖心が、一斉に襲い来る。
 だが、現実と意識との間に半透明の膜が漂い出したのも束の間、鋼はうなじに柔らかな熱を感じて踏み留まった。首筋にぬくもりを感じる。黒い影が、背中にぴったりと寄り添っている。何か自分とは別のものが背後にいるという感覚が、鋼に現実の在り処を教えている。それはすなわち、獣に違いなかった。ものを言えぬ獣が、ただそこにとどまることによって、現実から逃れようとする心を引き留めているのだ。
 鋼は半ば息をするのも忘れていた。今まで幾度となく感じ恐れてきた、膨らんだ影の荒い息遣いの正体はこれだったのかと気付いたからだった。
 そうか、と腑に落ちたものの正体を、じっと眺めて探ってみる。今まで自分を罪深い方へ煽っているのだと思っていた息遣いは、むしろ易い方へ流れゆこうとする己を自制するためのものだった。そう思い至り、鋼は目をしばたいた。自制は、獣に対してのみ必要な行動ではなかった。己への自制は、知らず知らずのうちに獣が担っていた。気付かなかっただけで、私たちは互いになだめ合ってここまでやって来たのだ。
 そうであるなら、必要なのはどちらかがどちらかを抑えるという強固な支配ではないはずだ。均衡を保とうとする努力こそが重要なのだ。なぜなら、私たちは双頭の生き物だから。互いの性の、すなわち人間の臆病さと獣の暴力性との均衡を保たねば、きっとまともに進むことなど叶いはしない。
 今、臆病さを克服しなくてもいい。けれど今こそが、眼前に揺らぐ楽園への道に踏み出す時なのではないだろうか。この吐き気を催すほどの自己嫌悪に向き合うべき時ではないのかと、鼓動が叫ぶ。犯した罪は許されないかもしれない。だが、立ち向かうべき償いの苦しみが目の前にあるのは事実だと、獣が唸る。
 いかほどの時間が経っていたのか、我に返ってみれば、膜は薄らぎ消えていた。改めて視界に入ったエーテルの痩せた首筋に、思わず眉根が寄る。鋼は己の無責任さを恐れて細くしていた目を開き、かじかむように息を震わせた。その唇が、ゆっくりと開かれる。
「……ごめん、なさい」
 ぽつりと、一言が漏れた。エーテルの嗚咽が怯えるように途切れ、その顔が恐る恐る鋼を見上げる。黄緑色の目に見据えられて、頭が破裂しそうなほどのめまいがする。それもそのはず、鋼の顔は青白く、しかしこめかみには汗が流れていた。足の筋肉が逃げようと力んで一瞬膨らんだのを感じながらも、背中に寄り添うぬくもりに支えられ、鋼は再び言葉を紡いだ。
「私は!……あなたを、追い詰めてはならなかった。」
 腹に力が入りすぎて、声量が激しく大小した。だがエーテルは気にする様子もなく、鋼の体が小さく震えるのを見ている。それは叱責への恐怖を覚えた少女が、大人に過ちを打ち明ける時のような震え方だった。エーテルの伏せがちだった目が、その濡れた瞳に映ったものを疑って見開かれる。乾いた唇が薄く開く。
 そうとも気付かず、鋼は一人、のどを痛めつけて這い上がってくる鉄の塊のようなものを吐露し続けた。
「人の罪を裁くことができる人など、いないはずなのに……私は恐怖に屈服して、性懲りもなくこの身を易きに堕とそうとしていた。虚勢を振りかざしてあなたを脅し、会ったこともない兄王子を元凶と断じて……あまりにも一方的に……今や私こそが忌むべき——」
 そこまで言った瞬間、飛びあがるように声が途切れた。エーテルの指先が、握りしめられた鋼の拳に触れたからだった。エーテルは逆の手でペリドットのブローチを握りしめ、涙を拭いもせずにゆったりとした息を吐いた。
「……もう、いいのよ。」
 穏やかな声音だった。深く響く声が、岩窟にこだまする。鋼は彼女に視線を向けられないまま、荒々しく息を継いだ。エーテルのため息が聞こえる。
「私、やっと分かったわ。今まで、あなたは私とは何か別の生き物なんだと、そう思っていた。……あなたの目はトワにそっくりな色なのに、彼みたいな優しい目じゃなくて、いつも爛々としていた。だから、すべてを得てもなお満たされない、傲慢の塊みたいな人なんだと思っていた。そのうえで少女みたいにふるまえる、能天気な人なんだと。勝手にあなたのことをそう決めつけて、自分の慰めにしていたのよ。……でも、違ったのね。」
 ようやく鋼がおどおどと視線を上げると、そこには嫉妬と不信から解放されたまなざしがあった。手袋越しに触れた指先から、エーテルの体温がしみ込んでくる。
「私たちは同じ、こんなにも臆病で、罪深い間違いを犯す生き物だったんだわ。」
 その言葉と共にこぼされた涙が、乾いた岩の床を濡らした。不規則にさざ波だっていた心が、その涙一粒と干渉して凪いでゆく。
 鋼は、自分の下瞼に溜まった涙とエーテルの頬を伝った涙が、本質的に同じものだと気が付いて眉を開いた。これはいたたまれなさのためにひねり出されたごまかしの涙とは違うのだ。その証拠に、鋼は目頭の熱さも鼻の奥の痛みも感じていなかった。それはきっと、少しも顔を歪めずに泣いているエーテルにも通じることだろう。まなじりから溢れ出た涙が頬を伝って手の上に落ちる。
 そうしてやっと理解が追いついた。この涙のぬくもりこそがきっと、償おうとする心だと。許そうとし合えたという喜びだと。何という事だろうか。人の心の可能性をつぶしていたのは、ほかでもない自分自身だった。人と人との間に歩み寄ろうとする心があれば、分かり合うことができなくても通じ合うことはできるのだ。ずいぶんと久しぶりに味わう他者を信じようとする気持ちが、体中を巡り、満たしてゆく。
 エーテルは隠し事をしただけだ。何も、私や私の周りのものを傷つけようとしたわけではない。そんな彼女を、一体誰が罰せるというのだろう。私だって大いなる間違いを犯した。不信感におぼれ、虚勢を張って彼女を責め立てた。そんな臆病さを、一体誰が咎められるというのだろう。人は皆、同じ臆病さを抱えて生きているというのに。
 もう、膜の向こうや忘却の彼方へ逃げだしたいと思う必要などなかった。ここには、誰かを否定し、一つの正義の中に縛ろうとする者などいない。私を傷つけようとする者など、存在しないのだ。同じ生き物というごく簡単な言葉は、今までこねくり回して絡めてきたどんな理屈よりも、安息への道を照らす大きな光だった。
「……いい加減に、正さなければいけませんね。」
 ふと、エーテルが静かに呟く。手の上に置かれたままだった指先が微かに震えているのに気付いて、鋼は両手でその手を包んだ。
「ご一緒、させてください。私も人を……他人の想いを、もっと信じられるようにならなくてはいけません。」
 自分自身に刻むように強い意志で、しかし穏やかな口調で告げる。エーテルは鋼の心境を察してか、噛みしめるように礼を言った。
 くすんだ青が果てしなく広がる空に強い風が吹いて、漂っていた疑念の痕跡をことごとく連れ去っていく。少しだけ間を開け、鋼はやや口ごもりながら切り出した。
「確認ですが、ゴーストに、王位権限で何かを命じたことは。」
 尋ねると、黄緑色の瞳は鋼を見据え、震えることなく答えた。
「一度もないわ。トワ以外の個体は見たこともない。テオドロ様のことも、残念だけれど心当たりはありません。」
 鋼の口から、小さく安堵の息が漏れた。
 だが次の瞬間、鋼は腰を上げて岩窟の出入り口を警戒した。エーテルもすぐさま異変に気付き、山道の方を振り向く。と、不意に岩陰から現れた黒い手がべたりと岩肌を叩いた。臭気が鼻をつく。
 姿を現したのは、今まで発見されたどの個体とも比べ物にならない程大きなゴーストだった。三メートルは下らないであろう背丈のうえ、胴体が格段に大きい。今までのゴーストたちはいずれも痩身で胴は扁平だったが、今度のゴーストには子供一人くらい軽く収まってしまいそうな厚みと横幅がある。規格外の大きさのせいか、時折その関節からは軋むようなギシギシという音がしていた。
「トワ……」
 エーテルはつぶやき、鋼とゴーストとの直線上に立った。だがゴーストは鋼の存在を認識できないのか、関心を示すそぶりも見せない。その隙に乗じて、『雨蛙』が密かに鋼の全身を覆いつくす。
「ナンデ、コッチ側ニ来テクレナイノ?」
 しゃがれた濁声が岩窟に響いた。たどたどしく虚ろな声音ではあったが、意思疎通は以前から叶っていたらしい。エーテルは驚いた様子なく返した。
「あなたを、解放するための準備をしていたの。」
 緊張からか拳を握ったエーテルが言うと、ゴーストは小首を傾げてみせた。
「……カイホウ?」
 一拍置いて鸚鵡返ししたゴーストに、エーテルが歩み寄る。ゴーストは何やら考えるようにうめいていた。エーテルはそれを宥めるように腕を伸ばし、穏やかな風でゴーストの体を撫でた。
「そうよ。あなたを縛ったのは、私の過ちだった。だから——」
 その瞬間、エーテルの言葉を遮って、ゴーストから流暢な言葉が発せられた。
「虫のいい話だ」と。
 刹那、ゴーストの手がエーテルの頭部を掴み上げた。間髪入れず水蒸気を呼び寄せるも、ゴーストがエーテルの頸部に触れた指の力を強める方が早い。エーテルの手がゴーストの指をはがそうと抵抗するのを気にも留めず、先ほどの声は何度か続けて鋼にシーッと言った。動くなという警告らしい。声の主は、鋼のどんな攻撃より、自分がエーテルの首を折る方が早いと確信しているのだ。鋼はただ奥歯を噛み締めることしかできず、構えを解かざるを得なかった。声が再び指示を出す。
「風神霊道の前に川がある。中州のある所まで下っておいで。継承者以下が何人来ようと構いはしないが、君以外の王位権限者が来たらこの女を破壊する。いいね。」
 長くしゃべられて気付く。その声はまるで少年のもののようだった。ゴーストは振り子で遊ぶように、暴れるエーテルを揺らしてみせる。
「やめろ。」
 鋼が唸るとゴーストの手が止まり、声の主は含み笑いを漏らした。
 ゴーストの手はエーテルの顔面を完全に覆っている。王位権限者の性質上窒息死はありえないが、澱を大量に飲み続けたらどうなるか分からない。鋼は奥歯を噛み、顔をしかめて放った。
「従おう。ただし、どんな形であろうと陛下の身に障害が残った時には、貴様の望みは何一つ叶わんと思え。」
 エーテルが抗議するように呻く。声の主は了承する旨を口にし、続けてこう言った。
「僕を暴いてごらん、ニェフリート。」

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オリヴィエ・ラシーヌ
この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、チップという形でお気持ちをいただけると恐縮です。