自閉スペクトラム症の画像鑑別の不適切性について記す
Qiitaでアップロードされた自閉症児の顔写真を用いた鑑別について、大きな話題になっていたので、急遽この記事を書くことにしました。
当該記事は削除されるとのことでしたので、ここでは直接はあえて取り上げません。また、当該記事を書いた方を責めたいわけではありません。
ただ、件のやりとりを含めて、いち学部生である私から見ても、世間には自閉スペクトラム症に関してさまざまな誤解があるのだと感じたので、
①これを機に少しでも正しい知識が広まってほしい
ということ、なにより
②誰かが、社会モデルの立場から「何が不適切か」を書く必要がある
ということを感じたためです。
論点1:「鑑別」は、おしなべて差別的要素を含む
1つめは、「鑑別」そのものがもつ難しさです。
みなさんが「倫理的問題」って言っていることの中身はここなのかな、とも思います。
繰り返しますが、私は、Qiitaの記事を書かれた方が差別的であると述べるつもりはありません。
人間は世の中の全てを公正に見られるわけではありません。当該の記事を書かれた方も、その方から見たなんらかの問題意識でもってアプリを開発したいと考えたのだと思います。私だって何かを公正に見られていないはず。
それを集合知で是正していくことが学問や開発のあるべき姿だと思うので、こうやって指摘が入ること自体が学問が正常に機能しているといえるでしょう。
私が言いたいのは、
「差別的でない形で人を鑑別する」ということは、それだけ難しい
ということです。
「その人が差別の意図を持っていたかどうか」は、実はさほど関係がないのだと考えています。
もっと言えば、他者が他者を判断するということは常になんらかの差別的な要素を含むと言ってもいい。学力テストだって別に言ってしまえば何らかの形では差別的です。アレによって不当に「バカ」のレッテル貼りをされている方がどれだけいるでしょうか。
一方で、「区別する」ということは、場合によっては役に立ちます。
同じような望みや苦しみなどを抱える人をひとまとめにすることで、「その人たちの困りごとに特に役に立つもの」を効率よく特定することができます。テストだってそうで、同じような知識を持ってる人をひとまとめにすると、効率よく講義を提供できるから採用されているのでしょう。
そしてそれは時に人の人生を救うレベルで役に立ちます。それを目指すのが医療です。
だから結局、「絶対に差別」「絶対に役に立つ」なんてラインはなくて、差別ラインと役に立つラインのほっっっっっっそいせめぎ合いの中で、特に障害支援分野はいろんなものが発展しているんです。
では、Qiitaの方は何をするべきだったか。
私は、自閉症をアプリで扱う前に、その「ほっっっっっっっっそいせめぎ合い」について知ってほしかった、と思います。
そもそもこの分野は、精神医学の診断基準そのものも差別的だという批判が飛び交う分野です。日本の精神病棟に対して、WHOの強い批判が繰り返し向けられています。
ましてやそこを知らずに鑑別のツールを作ったら、そりゃまあ使い物にはならんでしょう。差別ラインをぶち抜くことは想像に難くないです。
何が差別かというと、「自閉症を鑑別できるから」ではないです。
「他者を勝手に鑑別することがそもそも差別的な要素を含む」んです。その差別は「役に立つから特例的に許容されている」だけで、それでもその差別については常にどこかから問い直しがある。
医療的な「鑑別」は、その狭間の中でなんとかバランスを保っています。「なぜこの鑑別は役に立つのか」「なぜこの鑑別は社会で許容されるのか」ということがしっかり説明がされてはじめて、鑑別という差別的行為が許容される、というふうに考えた方が良い。障害学分野をやっている身からすると、そう思います。
医療は、鑑別は、あまりに力強い。
それは容易に当事者の人生を左右するんです。
記事を書いた方は、発達支援を行なわれているということでした。
まあ、区別や鑑別は魅力的なんですよね。問題をさっさと解決してくれそうに見えます。
だからこそ、支援者は「区別」をするインセンティブが必要以上に発生してしまう。当事者よりも支援者の方が、スッキリしたいんですよね。私も含めて、支援者はそこに自覚的である必要があるなと思います。
論点2:Impairment(器質的な側面)とDisability(社会的な障害)の違い→ASDにしかけられたトラップ
ここからは、現実的なアプリの設計に関する問題。
2つめは、たびたび私のnoteでも公開している、ImpairmentとDisabilityの違いについてです。
そもそも、自閉的な特性があったとて、それは障害ではありません。
別にこだわりがあったっていいじゃない。コミュニケーションの仕方が独特であったっていいじゃない。
それを障害としているのは、社会の方です。
実は、自閉スペクトラム症(ASD)は、ここが特に難しい「障害」です(だから余計に「ああ〜地雷原ぶち抜いたな」という感じがします……)。
なぜかというと、診断基準そのものが差別的であるという指摘がたびたびなされているんですよね……。
自閉スペクトラム症(ASD)の診断基準は、次の通りです。(詳細は省きましたが、A・Bにはその下にさらに詳しい説明が載っています)。
…………で、以下に注目してほしいんですけれども、
ってことなんですよ。
そう、ASDって別にその特性が悪ではないのよ。
社会の方に、そういう人を包含するスペースがないのよ。
まあ、②は百歩譲って、生きる上で本人もかなり大変だから支援が重要だとしよう。
①はさ!!!!相互の問題じゃん。ASDからしたら定型発達者がコミュニケーションの障害なのよ。お互い様やろがい!!!
つまりこれは何かというと、診断基準の時点でImpairmentとDisabilityが別れてないんですね。本来、社会との相互作用で生じるはずのDisabilityが診断基準に書かれちゃっている。
だから、Disabilityが本人のせいにされちゃう。Impairmentと勘違いされる。
これはあまりにも重大なトラップです。
なぜなら、Impairment→Disabilityの境で不平等な構造が発生していることを論じられないから。
たとえば、目が見えない方であれば、「目が見えない」というImpairmentに対して「音声案内や点字ブロックなどがないことで外に行けない」というDisabilityの話ができます。
でも「コミュニケーションの障害」とされてしまえば、「コミュニケーションが成立しない」ことに対して「ASDのコミュニケーションスタイルを理解してくれないことでコミュニケーションができない」とは言えなくなります。「だってそこに障害があるのはASDの方でしょ?」というわけです。「コミュニケーションに障害があることで働けない」だったら言えるけどね。
まあ詳しくはここにも書いたので、よかったら見てみてね。
ちなみに…………
ではASDのImpairmentは何か?というと、「認知粒度が細かい」(=物事の認識単位が細かい)ことなのではないか、と言われています。私は最近参加していた発達障害の勉強会でこれを学びました。
気になる方、詳しくはこれを読んでみてね!↓
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrsj/31/9/31_31_844/_pdf
論点3:「操作的診断基準」は、そもそも生物学的な基準ではない
あとね、もっと根源に戻るとですね、
そもそも精神医学の診断って、生物学的な要件には基づいてないはずなんですよね………………
精神障害を診断するための代表的な基準であるDSM-5は「操作的診断基準」という考え方を採用しています。
詳しくはこれがわかりやすいので見てみてね↓
https://goryokai.com/files/libs/2821/202403030809365963.pdf
つまり、「生物的に共通の特徴があるかは、正直まだあんまわかっていない」んですよね。少なくともそれで診断を下せるほどはわかっていなくて、まあ、探索中……という感じでしょうか。
試しに、論点2の診断基準を見返してみて。生物的な特徴ではなく、「何が起きているか」で記述されているでしょう?
これ、精神系以外だとピンとこないかもしれませんね。
というわけで、万人にわかりやすい例を出します。「風邪」です。
風邪は基本的に、困りごと由来で診断されているらしいです。
なので原因も(もちろん器質因も)多種多様だし、薬も割と対症療法的。
発達障害も同じです。
困りごと由来で診断されています。原因は多種多様なのかはよくわかっていませんが、多分多種多様です(ASDはわからんけど、特にADHDは多種多様です)。で、対応も対症療法的。
だから、共通の特徴があるとは限りません。
さらには、それが顔に出ているとも限らない。
つまり画像鑑別をするための正当性自体がそもそも全くないんですよね。
論点4:画像と障害に本当に関係性はあるのか?
まあ、ここですよ。ここ。
一体、「自閉症鑑別アプリ」は、何をどう鑑別しようとしていたのか?
その前に、主に論点2・3を合計して、
自閉スペクトラム症(ASD)が「障害」になるまでの過程をまとめます。
ただ、ここには論点3が絡んできていて、「現状、共通のImpairmentがあるかどうかは診断基準からは言えない」という状況があるので、一応2つに分けて考えます。
パターンA:自閉スペクトラム症(ASD)に対して「認知粒度が細かい」というImpairmentを仮定して考える
この場合は、以下の流れがあります。
この場合では、2つの因果関係が重なった結果として、もともとは器質的な特性だったものが「障害」として診断につながります。
つまり、因果①・因果②のどちらかの因果関係が異なっていれば、別に障害にはならんということ。
で、因果①・②ともに、「社会」が占める割合はとても大きい、ということ(これが社会モデルの考え方)。
ただし、このパターンの場合は、共通の器質的特性を仮定しているので、まだ画像鑑別の可能性はある。
とはいえ、そこにも結構特大なツッコミがあって、
など、まあいろいろツッコミどころはあります。
パターンB:自閉スペクトラム症(ASD)に対して共通のImpairmentを仮定しないで考える
パターンAでは一旦、本当に「Impairment」が存在すると仮定したけど、
実際にはそれが現実かはまだわからない(はず)。
そうすると、事実を並べていくとこうなるはずなので、より話は複雑。
つまり②も③もこの時点でふわっとしてるんすよ。
で、
・③まで言えれば確かに画像診断の可能性は開かれるかもしれないけど、そこに対してはパターンAで説明したようなツッコミがある
・①②の時点で社会との関係性の中で障害が生まれていくため、特性を判断できたところであまり意味がない
という問題は現存する。
つまりですね。
画像で鑑別しても、現状なんの旨味もねえのよ。
論点のまとめ
というわけで、論点1〜4を総合すると
今回の自閉症画像鑑別アプリの問題点は
これまでの精神医学でなされてきた議論を無視したことにより、
特に関係性がない物事で「自閉症」を診断しようとしたため、
まったく旨味も根拠もなく、
「他者を勝手に鑑別する」ことの差別的な側面だけが残る
という、ものすごく悲しい状態になると、そういうわけです……。
補足:「自閉症と診断される」ことは、差別か?
ここまでいろいろ解説してきたけど、少し補足。
ネット上で「それは差別だ!」というたくさんの声が上がっていることは、ある意味では良いことでもあり、ある意味では良くないことでもあるのかなとも思う。
「自閉(スペクトラム)症と診断されること」が差別なわけではないです。
絶対にそうです。そこは僕は譲りたくない。
第三者が勝手に何かの基準で鑑別するのが全て差別的というだけ。
語弊を恐れずにいえば、僕は「自閉スペクトラム症の人」が好きです。彼らが見ている世界が好き。美しいと思う。
僕にとって、自閉スペクトラム症の診断は勲章です。それは本人たちの苦しみの証だとはわかっているけれど、そこにこうやって勝手な期待を押し付けるのは違うと思うけれど、でもやはり自閉スペクトラム症と診断される人が往々にして持っている「繰り返される時間」と「精密で厳密な言語化」が、猛烈に美しく見えるのです。
僕自身はASDグレーゾーンです(診断基準は満たしているが、ADHDの影響が強いかもしれないということで正式には診断がおりなかった)。
そのときから僕はASDというものに憧れてやまなかったので、診断が正式にはおりなかったことを少し残念に思いました。
だから思う。
「自閉スペクトラム症」と診断される「こと」が差別である、そんなわけがない。あんなに美しい世界を持っていると認められることがどうして悪いことなんでしょうか。
もちろん実際には、診断とはそれで苦しんでいるからおりるものです。本人が苦しんでいることはよくないこと。でもASDはあくまで器質的な「特性」であって、器質的な「欠陥」では絶対にない。
でも、「勝手に何かの基準で鑑別されること」は、基本的には、おしなべて差別的だと思います。
街中を歩く人に「あなたの顔面、○点!」と言われることは、何点であっても差別的。
「身長〇cm以下は病気」とか言われることも差別的。
見た目で誰かを「アジア人ですか?」とか聞くことだって普通に差別的。
テストの点数を張り出すのも差別的な要素はある。
その中で実益を鑑みて、社会通念上許されているものがあるだけ。
それで、今回は実益も社会通念上も到底許容ラインに達しないだけです。
ちなみに、その許されるための理由として「本人が困っている」というのは結構大きいような気がしていて、
だからこそ発達障害は基本的に本人から診断の申し出がない限りは鑑別しないのではないかと思います。だってImpairmentが特定されていない以上、根拠も診断基準もぶっちゃけふわっふわな上に、街中に差別的な扱いが溢れているから……。
一方で健康診断とかは割と許容されているのは、生物的な部分で話が完結すること、スティグマが少ないこと、Impairmentの診断がある程度明瞭にできることとかなのかな。
終わりに①:枠を疑う癖を、みんなでつけようよ
ここで書いた話に似ているのだけども。
「枠をみんなで疑いませんか」という話。
いや、枠を疑うということってきついことだと思うんですよ。
だって認知コストかかるもん。
人間は認知コストを節約したい生き物なので、まあしょうがないんです。
でも、研究とか支援とか診断とか鑑別とか、
せめてそういう、枠を作っていくところに関わる人間はさ、疑っていきましょうや。
もちろん、その他の人たちもみんなみんな、できるだけ疑っていきましょうよ。
特に精神障害はその「枠」の揺らぎがものすごくある分野です。
いろいろな人が、いろいろな形で奮闘している。少しでも差別を減らして、同時に適切な支援が届くように。
だからぜひ、たくさん調べてほしいなと思います。
終わりに②:「適切な医療にアクセスできない」ことについて
さて、ここからは開発者さんへの私信になります。届くかわからないけれど。
私信と言いつつ皆様にも読んでいただくことに意味もあるかなと思うので、一応ここに綴っておきます。
私は障害当事者でもあり、支援者でもある立場の人です。
開発者さんは開発者さんなりに、自閉スペクトラム症への課題意識を持って開発されているのだろうと思います。
鑑別には時間がかかる。なかなか医療にアクセスする踏ん切りがつかない人もいる。そのことですごく苦しむ人がたくさんいる。
私も同じ課題意識を持って、「ずぼらのメガネ」を立ち上げたので、少しわかるような気はするんですよ。
でも、だからこそ思うことは、
それって「鑑別を即座に/明瞭にする」ということで解決すべきことなのかなあ、ということ。
診断って/支援ってそんなに万能でしょうか。診断基準は、あくまで困っている人のための仮置きの診断基準であるにもかかわらず、それに振り回されてしまっているように感じます。
結局人が幸せに生きられればそれでよかったはずなんですよ。別に診断や支援の枠組みはそのための道具にすぎない。本来はむしろ、「診断などなくても、人が自分の困りごとを自分で解決するための環境を自分で整えられる」方を目指すべきで、診断/支援を自己目的化してしまうのは違うのではないかなあと思っています。
まあ、なんなら、困りごとが最初から発生しなきゃいいんですよね。時間はかかるけれども。
支援者として現場にいると、この辺しんどいんだけどね。目の前で困っている人がいると特に思う。さくっと診断してさくっと医療にアクセスして困りごとが消えるならどれほどいいか。
当事者としても、その「診断」「医療」の魔力に取り込まれて、「自分がどうやったら幸せになるか」を見失うことも割とある。
でも、私は支援者兼当事者として、
「私たちは生まれつき障害者なんじゃなくて、社会的バリアで困ってるから障害という診断名を仮でつけてるだけだよ!」
って言っていたい。
そういう気持ちでこの長いnoteを書きました。力尽きた。
どなたかの参考になれば幸いです。
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(2024/8/7 追記)
たくさんの閲覧・素敵なご感想、ありがとうございます!
勢いで書いたら大量の誤字・誤用があったので修正しました笑。
また、関連して私の記事の中で障害の社会モデルを扱ったものを読んでくださった方もちらほらいらっしゃるようです。
もしかしたら何かのお役に立つかもしれないので、いくつか「障害」「社会モデル」あたりに関連しそうな記事を掲載しておきますね。
★「配慮のお願い」という単語の構造的な不平等の話
★↑から抜け出すためのテンプレートを作った話
★東大の障害支援システムの概括
★障害者共生運動に関する本の書評
★診断なくサポートを手に入れられるアプローチについて