『1999年のサーフトリップ』第4章
<カズヒロ、キャプテン・メモハブになる>
タクシーが数台いるきりの閑散とした駅前ロータリーを出るとカズヒロは一瞬ギョッとした顔をして車を道端に停めて、ハンドルの下から出てきた巨大なムカデを外に叩き出した。再び走り出したダットサン720は何事もなかったような顔で初夏の山道を走る。巨大ムカデに関しては、再会早々不吉だとも言えるが、これはそんな伏線みたいなシャレたエピソードじゃない。ただ我々が向かっているのが、外に停めた車に巨大ムカデが入り込むようなところだというだけの話だ。
「噛まれんで良かったね」とカズヒロは言った。
日本海へつづくその山道で、カズヒロは先ず俺に呼び名の変更を迫ったんだった。
「俺の事はメモハブと呼んで欲しい」とカズヒロは言った。「いろんなことあってさ、俺はもうコウジが知ってる相馬和弘じゃないからさ」
ふるってる。こんなセリフは現実の世界ではなかなか聞かない。
名前なんて別になんて呼んでもいいけど、それにしても変梃な名やね。
カズヒロが言うには、ワーキングホリデーで三年間過ごしたオーストラリアでその名がついたそうだ。
「その頃さ、気になったこと気がついたことを片っ端からメモしてたんだよ。仕事のことだけじゃなく人の仕草とか言葉とか昨日見た夢のこととか、雲の形とかさ。まあ、ほとんどはメモしただけでそれっきり忘れちゃうんだけどさ」
そんなカズヒロを面白がったサーファー仲間の中国人がその渾名をつけた。たまたまその時語学学校で読まされていた本の主人公がそいつの頭の中で脈絡なく短絡的に繋がって唐突にそれが浮かんだものらしい。
「だからさ、本当はキャプテン・メモハブ。長いからただメモハブ」
「語学学校で『白鯨』読むなんてイカレてるね」と俺は言った。
「最初は嫌でさ。そんな変な呼び名さ。一所懸命拒否してたんだよ。でもすぐにそいつだけじゃなく周りの仲間皆がそう呼び出した。何か氷河に押し寄せられてるみたいな気がしたよ。でもその内自分でも悪くないな、なんて思うようになった。相馬和弘なんてずんぐりした名前気に入ってたわけでもないし、まあ、何にでも慣れるもんやね。コウジはそんな経験ある?」
ない。俺は渾名で呼ばれるような人気者じゃない。
渾名と言えば、サーファーというのはとにかくやたらと仲間に渾名をつけたがる連中で、しかもロクな渾名をつけない。「ラーメン」とか「チャーハン」とか「かつ丼」とかそんな渾名を平気でつける。肩に彫った蜘蛛のタトゥーが一瞬ゴキブリに見えたから「ローチ」。そいつの妹は「コローチ」。18歳の駆け出しサーファーに一目見てつけたのが「ポヨヨン」。アフターサーフの雑談で少年の頃家の近所で河童に遭遇した話をしたなら次の日からそいつは「カッパ」。ちなみに、「かつ丼」と「ポヨヨン」は同級生でこの辺りの生粋の地元民である。どちらも父親が伝説のヤンキーだということ以外はあまり似ていない。二人とも父親がとは違ってケンカとは無縁の優しい男だ。サーフィンの腕は「ポヨヨン」が断然上。「カツ丼」はもう降伏してしまったが、「ポヨヨン」はその渾名氷河を押し返すべくいまだ格闘中である。
キャプテン・メモハブと俺は道々他愛ない話と深刻と言えなくもない話しをず~とした。思い出話はしなかった。シガーライターソケットから電源を取ったラジカセが足元でメロコアを奏でていた。数年後にキャプテン・メモハブがそこで悟りを開くことになるちょっと長いトンネルを抜けると海が見えた。そこら辺の日本海は澄んだ緑色をしている。もっと北の北陸の方へ行くと日本海は澄んだ青色をしているらしい。本当かどうかは知らないが。
海に出るとすぐに外国人らしき女の子の一団とすれ違った。山道に入って以来歩いてる人を初めて見た。
工場労働者だ、とキャプテン・メモハブは言う。
「シソわかめかなんか作ってんじゃないかな。彼女たちくらいしか若い女の子が歩いてるの俺も見たことないよ」
海沿いの国道から少し入ったところに名前だけ楽し気な「ワイワイ・ビーチ」という小さな海水浴場がある。その端っこにキャプテン・メモハブの家はあった。鬱蒼とした木々の向こうに少しだけ屋根が見える。古い家だ。江戸時代とは言わないが百年は経っていそうな農家の家だ。蔵まである。井戸もある。『リング』というホラーが流行った翌年だった。都会のマンションで観たって怖くもなんともない映画だけど、ここで一人で観たら楽しめるかもしれない。
関西で大きな地震があった1995年に連れ合いが死んで、家の持ち主の爺さんは手のかかる田舎の家を諦めて下関の息子宅へ撤退した。家を借家として貸し出して間もなく、一体こんなあばら家誰が借りるって言うんだよ、という不動産屋の心配をよそに変わり者のサーファー、キャプテン・メモハブが現れた。門を出たところにある百坪ほどの耕作放棄地の草刈をするという条件で家賃は一万円。風呂は外にある。夜は正真正銘の暗闇だから風呂に入る時は懐中電灯を持って行く。磯ガニを踏まないように気をつけて歩く。お湯は温かくてもコンクリートの湯舟は冷たいままだ。
「何もかも俺の思い通りの家だよ」とキャプテン・メモハブは言った。
キャプテン・メモハブも俺も霊感の類は一切無いから、俺たちにとってそこは単なる古民家に過ぎなかったが、いつだったか連れて行った俺の彼女が言うには「あそこは何かいる」んだそうだ。
ハハ。
そうそう、この山口県長門市にはその昔国を追われた楊貴妃が流れ着いたという伝説があって、彼女の墓もある。信じるかどうかはあなた次第である。そして、この土地の海に流れ着いたのはなにも楊貴妃だけではなかった。ということでつづく。