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『1999年のサーフトリップ』第7章
<旅の支度、2024年に聴こえてきたロックンロール、住職の言葉>
春から夏にかけて日本海はあまり波が無い。
高気圧が幅を利かせて天気が安定する新緑の季節は日本海サーファーにとっては憂鬱な忍耐の日々の始まりでもある。9月に台風が来るようになり、秋になって北西の風が吹き始めるまで、サーファーたちはパドルの練習くらいしかすることがない。1999年の5月、フリーの英会話教師だったキャプテン・メモハブは生徒たちに長期休暇をもらい、サーフトリップを計画していた。俺が長門市油谷町の奴の家を訪ねたのはちょうどそのトリップ直前だったというわけだ。
油谷町最後の日も穏やかに晴れていた。昼過ぎに起きると、部屋の隙間から入りこんだ汐の匂いを含んだ暖かな空気が部屋に満ちていた。5月が布団の横のボロいソファに腰かけて、キャプテン・メモハブの生徒が置いていった『スラムダンク』でも読んでいるかのような陽気だった。我々はメモハブ・スープで腹をこしらえると旅の準備に取りかかった。
ダットサン720の荷台に放りこんだのは、90Ⅼのポリバケツ、ペットボトルが数本、携帯用ガスコンロとボンベ、鍋、フライパン、包丁とまな板、食器類、テントが大小一つずつ、寝袋一つと毛布が二枚、釣り竿、米と小麦粉、サーフボード二本、シーガルのウェットスーツ二着、大きなバスタオル数枚、無添加石鹸一個、日本地図代わりのサーフィン・ア・ゴー・ゴー一冊、タイで買った偽物のGショック。何が入ってるんだかよく分からんカセットテープがたくさん。それから裏庭でたわわに実っていた夏ミカンとビワを採れるだけ採った。夏ミカンは強力に酸っぱくてビワは不細工だった。荷台を青いブルーシートで覆うと旅支度を終えたダットサン720をバックに記念写真を一枚撮った。1971年に中津川フォークジャンボリーをはるばる観に出かける前に撮ったと言ってもいいような写真だった。二人ともいつの時代のどんな職業の人間にも見えなかった。実際にそのあと俺たちは中津川フォークジャンボリーに出ていたかもしれないような男の歌を聴きに出かけたのだった。
「なんか裏の寺にフォークシンガーが来とるらしいから聴きに行こうや」とキャプテン・メモハブは言った。
「フォークシンガーって誰?」俺は言った。
「知らん」
裏庭のヤブをかき分けて寺の境内にたどり着いた時、ショウはすでに始まっていた。
まあまあ風格のある阿弥陀像の前で観たことのないヒッピーがアップライトで弾き語っていた。少なくとも岡林信康と遠藤賢司ではなかった。吉田拓郎とイルカでもなかった。男の名前を聞いても誰だか分からなかった。本堂の入り口にあったチラシによるとその男は1971年の中津川フォークジャンボリーの出演者の一人ということになっていたが、それが本当かどうかなど2024年の今となってはどうだっていいことだし、1999年の当時もどうだっていいことだった。十数人の客たちは面々で好きなことをやっている。ある者は食い、ある者は呑み、ある者は隣と雑談を交わし、ある者は涙さえ浮かべながら歌を聴いていた。主催者の住職は踊っていた。客がまばらな拍手を送るとフォークシンガーは時々ニヤリと笑った。知っている歌はひとつもなかった。最後の曲が終わると男はそれまで弾いていたギルドのギターを住職に渡して、実はこのギターは御住職の愛器である。自分はいつもツアーで地方を周る時はギターを持ち歩かない。行った先にあるギターを使うことにしているのだ。というようなことを何故かすまなそうに言った。自分のギターを持ってくるのを忘れたのかもしれない。
ライブの後、フォークシンガーと住職はキャプテン・メモハブの家にやってきた。客も何人かそのままついてきた。キャプテン・メモハブと俺とで散らかった部屋をなんとなく片付けると客たちはそれぞれの居場所を自分で見つけてそこへ収まった。そこらに転がっている楽器を叩いていい加減なセッションをしたりいい加減な話をしたりした。フォークシンガーは葉っぱの煙をくゆらせて、誰が何を言ってもニコニコそれを聞いていた。誰かが吉田拓郎を貶すと、ああそうね、あいつはそうかもね、と言い、誰かが遠藤ミチロウを褒めそやせば、ああそうね、あいつはそうかもね、と言った。音楽について言いたいことはあまりないようだった。住職がタイの寺に留学した時のトイレ事情、なぜタイの水洗トイレはあの程度の貧弱な水流で大便を流すことができるのか、という話だけは真剣に聞いていた。キャプテン・メモハブはこのフォークシンガーが気に入ったらしかった。キャプテン・メモハブは誰にでもその話をするというわけではなかった。つまり、その話を聴かせるならば少なくともサーファーか科学者か哲学者の素質がなければならないとキャプテン・メモハブは考えていた。医者や法律家や野球選手の素質では話にならない。
それは端的に言えば「死の恐怖」と「生きる意味」についての話だった。キャプテン・メモハブは実はそのふたつの問題を解決するために科学者になり、遺伝子を組替え、九億年生きるつもりでいた。百年くらいじゃとても足りないのだ。
フォークシンガーはキャプテン・メモハブの話を聴くと、死の恐怖から逃れるためにと言って、あまり効きそうにない呼吸法を教えてくれた。キャプテン・メモハブは不満そうな顔をしてたっけ。その様子を見ていたキャプテン・メモハブのサーファー仲間でもある住職は面白そうにこう言った。
「ねえ、ブラザー。職業抜きで言わせてもらえばさ、輪廻なんて無いアルよ。生きる意味なんてのも無いアルよ」
真夜中過ぎに皆帰って行った。
このフォークシンガーだが、その後もヒット曲だのメージャーだのとは無縁に演奏活動を続けて2021年に小さなライブハウスで歌っている最中に倒れてそのまま死んだ。その生涯に麻薬不法所持で三度服役し、二度離婚した。東南アジアで何度か地元のミュージシャンによる野外ロックフェスティバルを企画した。彼が死ぬ一年ほど前に俺が内縁の妻とテレビを観ていると唐突にその男が出てきて驚いたことがあった。街でフラフラしている人を掴まえて家までついて行くという番組だった。男は自称知る人ぞ知る伝説のミュージシャンを名のり、地下室みたいな雑然としたマンションの一室で発表するあてのないまま音楽制作を粛々と継続していた。今、76歳。何歳まで生きたいっていうのはあるんですか?という問いに男はこう答えていた。
「いくらでも生きるよ。地球が断末魔上げるのを見届けてやろうと思ってるから」
1999年から様々な出来事を経て、男の人生と音楽は、ヒマラヤの雪解け水のように2024年の俺の足元までたどり着き、まぎれもないロックンロールを謳うのだった。