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『1999年のサーフトリップ』第12章
<生見>
いつだったか、1999年からだいぶ時が経って、俺の頭の具合もいくらかましになった頃、このサーフトリップの様子を収めたビデオを観たことがある。キャプテン・メモハブがかつて住んでいた海辺の家は湿気がひどくてさ、そこでいい加減に保管されたビデオテープはすでに大半がカビの餌食になってた。前半後半が切れてて、その他も所々が飛んでる。だけど、ちゃんと映ってる部分もあるにはあって、その中で俺たちは四国の山道を走ってた。渓谷が出てきて、ダムが出てきて、いまにも崩れ落ちそうな橋をメモハブが渡ってたり、一体誰がどういう風に住んどるんだと言いたくなるような小さな集落が映ってる。緑色ばかりの景色。確かに通った記憶はあるけれど、それが四国のどこをどう行った時の物なのかまるで覚えてない。いま手元にある地図を見て推し量る限り、どうもそれは「仁淀」から次のポイントに行く途中だったんじゃないかと思うんだよ。高知市を過ぎた辺りから山に入って、室戸岬に向かって行く出っ張りをショートカットしようとしたんじゃないかと。そうだとすると、その道は高知と徳島の県境に近い野根川河口で海辺を走る国道に突き当たる。国道55号線を徳島方面へ左に折れてしばらく行くと「生見」というポイントがある。「生見」はまだ高知県だけど、この辺りまで来るとそこはもうサーファーたちにとっては関西文化圏だ。生見ビーチの駐車場に並ぶ車の半分は関西ナンバーを付けてた。緑のトンネルを抜けるとそこは関西だった、って感じ。
俺たちは日の暮れる頃生見に着いてテントを貼った。
例によって『サーフィン・ア・ゴー・ゴー』から「生見」の項を引こう。
「甲浦フェリーでやって来る関西のサーファーたちが、最初にチェックするのがここ。東洋町のバックアップによって、駐車場やトイレ、シャワーが完備。さらに飲食店や宿泊施設も多いので、快適なサーフトリップを約束してくれる。関西のサーフシーンにおいては、伊勢、磯ノ浦と並ぶメジャースポットだ。2キロに渡る広いビーチには、至る所にブレイクが存在し、波のパワーも十分。サイズは2~4ft.くらいが適当なので、初級者から上級者まで、レベルに合った波乗りを楽しむことができる。梅雨の頃から夏、秋にかけての雨の多い季節には、地形の変化によって、面白いように巻いた波や、スロープの長いファンウェイブが現れたりするので要チェックだ。シーズン中には毎週のようにプロアマのコンテストが開かれ、ホットな情報が集まるポイントでもある。」
俺の持っている『サーフィン・ア・ゴー・ゴー』は1997年4月出版の2nd Versionである。と言うのは、この「甲浦フェリー」は今はもうない。「甲浦フェリー」こと「フェリーむろと」は1998年に、明石海峡大橋開通に伴って関西汽船が休止した航路を、上にも出てくる東洋町が第三セクターの新会社を作って事業を引き継いだ。でも、その翌年の1999年7月、台風8号の南東風に煽られて甲浦港付近で座礁事故を起こす。俺たちがこの辺りでブラブラ遊んでたその直後の話やね。俺はその年は8月にも別の奴と生見に行っていて、その時まだ「赤い鯨の船」は座礁して打ち上ったままだった。明石海峡大橋へ流れた客は戻って来ず、この座礁事故も打撃となり「フェリーむろと」は2001年12月に航路を休止した。
『サーフィン・ア・ゴー・ゴー』の「生見」のキャプションは、そんなに熱量もなく淡々と簡潔にまとめられているけれど、「生見」という場所の過去や現在を色々な意味で雄弁に表現しているように思うな。まあ、このグーグルマップの航空写真を見てくれ。
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地図の上が徳島方面で、下にひらすら行けば室戸岬。しかし、こんなに感じの良いビーチってそんなにないよ、たぶん。ジョセフ・コンラッドに倣って女性に例えたなら、生見海岸は、こんがり日に焼けて秋のような表情を湛えたどこか品のある気の置けない女の子やね。彼女は太平洋と西の山々と小さな集落を同時に眺めながら穏やかに佇んでいる。誰にも何にも媚びない。そして、こう言っているように見えるんだよ。
「好きなだけここにいていいのよ。そうね、わたしのことなら何て呼んでくれても構わないわ。マンハッタンでも、トウキョウでも。ナポリでも、アデンでも。なんならコート・ダ・ジュールでも好きに呼んでちょうだい。だけど、わたしの名前は生見って言うの」
「仁淀」に「生見」に「海部」。四国のポイントは響きがとてもいい。
生見では俺たちに話しかける奴は誰もいなかった。生見にはローカルもビジターもいる。関西からやってくるサーファーたちは大きな箱型の車に乗っていることが多い。車の中もキャプテン・メモハブ・カーみたいに汚くない。関西サーファーの行動範囲は極めて広い。彼らは波を求めてどこへだって行く。へたすると宮崎へだって気軽に出かけて行く。毎週のように山や谷を越えて遠くに遠征する、ホーム・ビーチを持たない彼らにとって、車はちょっとした家のようなものなのだろう。彼らは海から上がると、それぞれの家の車でそれぞれの満ち足りた時を過ごしているようだった。陽気な関西弁やら音楽やらがあちこちで聞こえた。
天気は良かった。小さいながらも波もあった。俺たちは波乗りをして、飽きたり疲れたりするとビーチに流れ込む小川で蟹だの貝だのを捕まえて、それを餌に釣りをした。広くも狭くもない未舗装のいい加減な駐車場に何台も停まっていた 関西人たちのワゴンが潮の引くようにいなくなって、虫の声と波の音だけになった夕焼けの下で塩ラーメンをすすりながら俺たちは、ああ、今日は日曜日だったんだなと思った。
「なんだか昔の夏休みみたいやね」とキャプテン・メモハブは言った。
人はどう言うか知らんけど、1999年が今と比べてのどかだったとはあんまり思わんな。90年代を楽に生き延びた人間は俺の周りにはいない。充分窮屈で生き辛かった。もちろん2000年代だって変わらずそう。ただ、1999年の日本は、少し町を外れたら 車を駐めて 野宿する場所はいくらでもあったし、水を汲むのにも困らなかった。素人も玄人も地元民も観光客も入り乱れて踊る 阿波踊りの徳島は混沌として、何だか自由だった。夏はこんなに暑くなかった。世界は俺たちふたりになんて興味無くて、興味が無ければ放っておいてくれた。今はどうなんだろう。町に居る時のように 誰かに見張られてる感じが どこへ行っても、ひょっとして、あの祭りの最中にだってするんだろうか。25年ってまあまあ昔だけど、あっという間だった気もするよ。でもさ、1999年にどうやって生きて行っていいか分からなかった俺は、もう、自分が「生きた証」なんてものには心から興味がなくて、自分はどうやって死んで行くのだろう、と今では考えてる。いや、実を言えば、自分は本当に死ぬのか?と、そう考えてる。ハハ。それは確かやね。