草野原々『世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈』(所収『異常論文』)を読解したら、大作の翻訳SFを読破したような深い満足感を味わった話
アンソロジー『異常論文』が刊行されました。
コンセプトは論文の書体のSFです。
タイトルのダサさには閉口しますが、これはダサいネーミングのほうが記憶に残りやすいという単純なプロモーション戦略のためでしょう。
論文の書体のSFの特徴は次の2点でしょう。①作品世界における文書の体裁をとることで、異化作用を感じさせる。②読者に作品世界をいわば復号させることで、知的興奮を覚えさせる。
さて、本アンソロジーに草野原々作『世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈』が収録されています。
論文の書体のSFの特徴が上記の2点だとすると、外挿法は1つかせいぜい2つが望ましいでしょう。それ以上はスムーズに読むのが難しいからです。
ですが、本作は外挿法が5つもあります。しかも、図版を除けばたかだか12ページの掌編です。
正直に言って、一読して内容は把握しづらかったです。ですが、メモをとりながら再読して、内容をすべて理解したとき、大作の翻訳SFを読み終わったときのような深い満足感がありました。
せっかくなので、メモをまとめておきます。
1.1枚目のスライド
作品世界の物理的、表面的な世界観の説明です。ジャンルとしては、古典派SFになるでしょう。
さらに、注釈では偽史SFが展開されます。
◯基本用語
・気息:事象(本文では「出来事」)の最小単位。よって、エントロピーは無限。
・結晶化:気息が結晶化すること。つまり、事象が時系列順に整序化すること。世界はそれだけ熱的死に近づく。
・天球:気息の結晶。じつは地球が層状に天球が結晶化していったものであることが明かされる。
・雪炭:天球のなり損ない。地底に埋蔵している。燃えることで周囲の熱を奪う。
・現実結晶:まだ発生していない事象の結晶。宇宙から降着する。
◯偽史
・1820年:イギリス海軍少尉ウィリアム・エドワード・バリーが北極探検中に雪炭の巨塊を発見。回収された雪炭の研究から、カルノーサイクルに基づく雪炭の資源化が行われ、第二次産業革命が起こる。
・1829年:北極の雪炭の大鉱脈「ノース・マウス」をイギリス海軍のジョン・ロス隊と、旧ロシア帝国主宰のジョン・クリーブス・シムズ隊が同時発見し、第一次世界大戦の遠因となる。
・1868年:トマス・ヘンリー・ハクスリーが北太平洋の深海堆積物から始原生物「モネラ」を発見。雪炭が生命の起源であることを証明する。
・1870年:エルンスト・ヘッケルが雪炭から個体発生と系統発生を人工的に再現する。
この結晶生物工学の偉大なる第一歩は、古生物兵器による世界戦争とネアンデルタール人共産革命という人類の災厄の幕開けでもあった。
・1908年:シベリアで現実結晶の大爆発事故「エンペドクレス事象」が発生。現実結晶の存在が実証される。爆心地周囲で事象がめちゃくちゃになる。
注釈では、「燃えることで周囲の熱を奪う」物質である雪炭が発見されてから、それが形而上的な物理学に由来するものだと判明するまでの、様々な学説が詳述されています。
この1枚目のスライドだけで、19世紀末に「燃えることで周囲の熱を奪う」物質が発見されてからのエネルギーをめぐる偽史、その物質の正体が因果律そのものに関わるものだと判明する天変地異の発見。エネルギーをめぐる偽史と同時並行する、進化の系統樹を遡行できるようになる生物学の偽史。古生物戦争、ネアンデルタール人共産革命、エンペドクレス事象と、内容が多すぎます。
2.2-4枚目のスライド
1枚目のスライドだけで十分に内容は多かったですが、2枚目のスライドで一気に毛色が変わり、思弁派SFになります。
「私」と世界のシステムとの相似が語られ、「私」、より一般的には魂は、真理をとり込もうとすると説明されます。
ここで真理という概念が登場し、作中の物理学が形而上学的なものに複雑化します。
真理は結晶化の際に働くと説明されますが、いわばシステムですね。そのシステムが、システムの対象の一部であることが、作中の物理学、そして作品の世界観を複雑化します。
これは数学基礎論を参考にすればいいでしょう。ヒルベルトは講演「数学基礎論の問題」で、4つの未解決問題を挙げました。①解析学の基礎、2階の関数の無矛盾性の証明 ②高階の関数、3-5階の単純タイプ理論への無矛盾性の証明の拡張 ③数論・解析学の公理系の完全性の証明 ④1階論理の完全性の証明
ゲーデルが1階論理の完全性の証明を行ったあと、古典的数学の任意の体系の無矛盾性の証明は、その同じ体系では証明できないことの証明、いわゆるゲーデルの不完全性定理の証明を行ったことは有名ですね。
ゲーデルはこれについて、講演で「数学は完全化不可能で、明証的公理が有限の規則で尽くされることはない。つまり、人間精神はいかなる有限の機能をも無限に超越している」(『ゲーデル 未刊哲学論稿』)と言いました。
ゲーデルが完全に証明されることはないと言ったもの、これが真理ですね。
真理との同化を図ることは、新プラトン主義の伝統ですが、本作ではそれが物理的なものとして外挿法されています。
その結果、作品世界はまさに宇宙規模、もとい超-宇宙規模にまで拡大します。
◯世界観
魂が真理を捕食すると神になる。そして、神はさらに他の世界の真理もとり込もうとし、外なる神となる。
世界は真理のとり込みを阻むため、錯覚を生成する。
結晶化の度合いが高い世界は、真理をとり込むことが難しい。そのため、悪魔を派遣し、世界を揺るがす。悪魔は「天球型」と「崩壊型」がいる。「天球型」は世界に入子の宇宙を作るだけだが、「崩壊型」は宇宙に混沌をもたらす。
悪魔については、「天球型」が自己言及的なメタフィクション、「崩壊型」が脱構築というのか、めちゃくちゃなメタフィクションを作ると類推すれば分かりやすいでしょうか。
3.5枚目のスライド
たかだか12ページの掌編で古典派SFから思弁派SFへとスリップストリームし、物語のスケールが宇宙規模、超-宇宙規模へと拡大したところで、本作の文書の作成者たちの姿が描かれます。
文書の作成の時点で、世界は8つの勢力に分立し、たがいに争覇しているそうです。
なお、ここまでで文書の作成者は、自分たちを「われわれマイニングギルド」と自称しています。活動目的は現実結晶鉱脈の採掘。そして、将来的には現実結晶をサプリメント化すること、つまり、現実を家畜化することだそうです。
◯世界観(8つの勢力)
・「万物の八つの立場(ジ・エイツ)」
①ニセモノ配達人(世界重視・真理は完全に明証化可能):体制。文書の作成者たちの敵対勢力で、おそらく最大勢力。人々をバーチャルリアリティに閉じこめ、真理探求者を妨害しようとする。
マーク・ザッカーバーグがフェイスブックの社名をメタに変更したのも、おそらくニセモノ配達人の構成員だからでしょう。(※ただし、ここでいうバーチャルリアリティはデジタル技術によるものに限らないでしょう)
②虚栄の王国の調和者(世界重視・真理は完全に明証化不可能):体制の穏健派。
③偉大なる真理の蜘蛛(神を目指す・真理は完全に明証化可能):技術者。真理の探究にはコンピューターを使用するため、彼らの神は機械の神である。
④脱獄挑戦者(神を目指す・真理は完全に明証化不可能):自然派。瞑想によって真理への到達を目指す。自然的なコミュニティを作っていることが多いらしい。
⑤グルメグループ(外なる神を待望・真理は完全に明証化可能):反体制の穏健派。ニセモノ配達人と協力することが多い。
⑥緊急食糧援助隊(外なる神を待望・真理は完全に明証化不可能):反体制。しばしば現実結晶爆弾を使った爆発事件(現実がめちゃくちゃになる)を起こす。「闇への退避者」と協力することが多い。
⑦闇への退避者(悪魔崇拝・真理は完全に明証化可能):アナキストの行動派。文書の作成者たちの敵対勢力で、危険な軍事組織。文書の作成者たちは、天球の強化や断絶型悪魔の飼育といった対抗策を考えている。
⑧夜の海に生きる物(悪魔崇拝・真理は完全に明証化不可能):アナキストの静観派。おそらく文書の作成者たち。
本作は「夜の海に生きる物」の注釈で終わります。
いかがだったでしょうか。
古典派SFから始まり、思弁派SFへと変化し、世界観が宇宙規模、超-宇宙規模まで拡大して、最後にその世界で8つの勢力が争覇していることが説明されて、文書の作成者たち、いわば主人公たちの派閥と生きかたが語られます。
たかだか実質12ページの掌編にもかかわらず、大部の翻訳SFのような読味だったということが理解していただけたと思います。