法月綸太郎『初期クイーン論』『一九三二年の傑作群をめぐって』要約

 法月綸太郎の『初期クイーン論』(『複雑な殺人芸術』収録。初出『現代思想』1995年2月号《特集=メタ・ミステリー》)は、いわゆる「後期クイーン的問題」の出所ながら、顧みられることがあまりない。
 いわゆる「後期クイーン的問題」は、『初期クイーン論』で提起された一部の問題を、笠井潔がそう命名し図式化した。これは、諸岡卓真『現代本格ミステリの研究――「後期クイーン的問題」をめぐって』の研究のとおりだ。
 出所にもかかわらず『初期クイーン論』そのものがあまり顧みられなかったのは、議論が多岐に渡り、結論も曖昧だからだろう。その蹉跌をくり返すことは避けなければならない。そのため、煩雑になるが、以下では『初期クイーン論』の複雑な議論を可能なかぎりそのままに要約する。
 また、事実上の『初期クイーン論』の後編である『一九三二年の傑作群をめぐって』(初出『名探偵の世紀』)も併せて要約する。

 一応、結論を書いておくと、法月は『初期クイーン論』で「推理小説の論理性が否定された」などとは言っていない。これはゲーデルが数学の論理性を否定したわけではないことと同じだ。このように、法月のゲーデルの解釈はとくに数学、論理学として誤っていない(少なくとも、教科書的なハオ・ワンの『ゲーデル再考』の水準においてはそうだ)。ただし、大量にある柄谷行人の引用文におけるゲーデルの解釈は怪しく、これは擁護しがたい。
 さらに『初期クイーン論』は、小論でありながら、現在までのいわゆる「後期クイーン的問題」に関する議論をほぼ言いつくしている。
 少なくとも、法月が「推理小説の論理性が否定された」などと言っていないことを確認するためだけでも、『複雑な殺人芸術』を読んでもいいのではないだろうか。
 『初期クイーン論』だけでなく、ロス・マクドナルドの文体について論じた表題作や、ミステリ作家としての村上春樹について論じた『many tales』、マゴーンの『騙し絵の檻』について"この大団円(引用者注:解決編)に見られるテンションの高さは、尋常ではない"と言う『謎解きの鬼』など、推理小説のファンには面白すぎる。

○『初期クイーン論』

・はじめに

 エラリー・クイーンの作風の変遷を柄谷行人を参考に分析する。クイーンの諸作においてしばしば危機的に現れる「形式化の諸問題」は、柄谷が『隠喩としての建築』『内省と遡行』で追究した「ゲーデル問題」と類似している。
 (脚注3:80年代末期に登場したわれわれ「新本格」の諸理念は「ニューアカデミズム」以降の思潮に掉さしている。キュビズムとシェーンベルク楽派をモチーフにする『夏と冬の奏鳴曲』はその代表例だ。したがって、その思潮に根拠、もとい無根拠を与えた「ゲーデル問題」を問う意義がある。この試論は「新本格」のアリバイ=根拠不在証明だ)

・1

 柄谷「形式化の諸問題」より。"「形式化」は指示対象や意味をカッコにいれ、自己完結的な世界を構築する、または純粋な体系の規則を探る試みだ。"
 最初に推理小説で形式化を試みたのはヴァン・ダインだ。その成果はヴァン・ダイン名義の『ベンスン殺人事件』(1926)以下、12冊の長編推理小説と、ライト名義のアンソロジー『世界推理小説傑作集』(1927)の序文『推理小説論』だ。『推理小説論』はドロシー・セイヤーズのアンソロジーの序文『探偵小説論』(1928)とともに、推理小説の指標的な評論になった。(なお、ヴァン・ダインの素描には『エラリイ・クイーンの世界』を使用している)
 『推理小説論』のエッセンスは「推理小説作法の二十則」にまとめられ、「本格推理小説」の規範として強く作用した。これはヒルベルトの公理主義(「23個の未解決問題」を見よ)やロシア・フォルマリズムの勃興と軌を一にしている。
 だが、ヴァン・ダインの実作は自身の要請をまったく満たしていない。ヴァン・ダインは「フェアプレイの原則」を謳いながら、その実作にフェアネスはほぼなく、人気の理由は自らが批判した怪奇趣味、衒学趣味だった。眼高手低と言う他ない。
 しかし、それを目指していたことは確かだ。『僧正殺人事件』(1929)の犯人は抽象的思考に倒錯し、個人の生命の尊厳を見失い、ナンセンスな童謡殺人を行う。『グリーン家殺人事件』(1928)はメタフィクション的に、作中に事件の要素を挙げた98項の一覧表を載せる。
 野崎六助『北米探偵小説論』は述べる。ヴァン・ダインは探偵小説を批判的に読み、体系化した最初の作家で、クイーンを除けばおそらく最後の作家だった。
 そして、実際に推理小説の「形式化」を成しとげたのは、ヴァン・ダインの強い影響下にあったクイーンだった。

・2

 『フランス白粉の謎』の中島河太郎の解説によれば、クイーンは従来の杜撰な推理小説の評論に不満をもち、みずから簡単で有効な評価法を考案した。それはプロット、サスペンス、意外な解決、解決の分析、文体、性格描写、舞台、殺人方法、手がかり、フェアプレイの10項目で最高100点となる10段階評価をするものだった。この還元主義的な態度はヴァン・ダインの延長上にある。
 フランシス・ネヴィンズ・ジュニアは『エラリイ・クイーンの世界』で、ヴァン・ダインとクイーンの「国名シリーズ」の共通点を挙げる。型にはまった題名、無性格な友人による導入、名探偵の人物造形と協力者の「ファミリー」の設定、等。その上で、クイーンがヴァン・ダインに傑出していることを指摘する。第1に、人物描写と自然なストーリーテリング。第2に、自由な三人称の採用。なにより、フェアプレイの導入。
 だが、形式性に関わる第2と第3の点、ワトソン役の消去と「読者への挑戦」方式は独立ではない。
 より重要な変更点として、クイーンは作者と作中の探偵の名前が同じだということがある。ネヴィンズ・ジュニアはこれを読者に著者名を覚えさせるための工夫だと説明する。クイーンの作者両名は広告会社と映画会社で下積みしていて、そうした商業的な理由は妥当だ。また、そもそもただの稚気でもある。
 だが、これはメタフィクションと自己言及性の問題を露呈させる。
 「隠喩としての建築」より。"自己言及的なシステムには外部も超越もない。"
 ヴァン・ダインは「本格推理小説」を自己完結的なゲーム空間として構築しようとした。「本格推理小説」のゲーム性は作中の「犯人-探偵」と作外の「作者-読者」の2つのレベルに単純化できる。ヴァン・ダインはこの両者の混同を許さない。ヴァン・ダインが登場人物としては無用の一人称の語り手を用いるのは、それにより、中立性を保つためだ。
 だが、「形式化」において無色透明なワトソン役の使用は過渡的な方法でしかない。クリスティの『アクロイド殺害事件』(1926)がその代表例だ。クリスティは作品を自己完結的なシステムとは見ない。「意外な犯人」というゲーム性の追求が、こうした作品に行きつくのは当然のことだ。これこそ「形式化」の本質だと言っていい。
 クリスティの「記述者=犯人」というトリックは、論理学におけるラッセルのパラドックスの発見に対応する。
 「隠喩としての建築」より。"ラッセルはロジカル・タイピング(階梯化)により、自己言及のパラドックスを解決しようとした。"
 ヴァン・ダインの「フェアプレイの原則」はラッセルの「論理主義」というよりブラウアーの「直観主義」に近い。
 「隠喩としての建築」より。"ヒルベルトの「形式主義」は、数学の実在性を要求する「直観主義」と対立する。"
 ヴァン・ダインは『アクロイド殺害事件』を批判したが、クイーンは擁護した。これは無矛盾性で事足りるとした「形式主義」に近い。
 だが、クイーンが「国名シリーズ」で採用した「読者への挑戦」方式は、むしろラッセルのロジカル・タイプ理論と似ている。それは柄谷が構造主義の限界について言うことと同じだ。「言語・数・貨幣」より。
 (脚注8:ゲーデルは「不完全性定理」以前、「第一述語論理の完全性定理」(1930)によって論理学の形式体系の完全性を証明している。クイーンにおける「形式化」の変遷も同じだ)

・3

 クイーンはデビュー作『ローマ帽子の謎』(1929)で「読者への挑戦」方式を採用する。ただ、本作はヴァン・ダインを模倣した習作の域を出ない。それより問題は、「読者への挑戦」がクイーンでなく、その代理人のJ・J・マックの名義で行われることだ。
 (脚注9:『ローマ帽子の謎』の挑戦の頁は30年後、回顧的な『最後の一撃』に再録されるが、そこでは文体上の省略によりJ・J・マックの存在を抹消している)
 翌年の第2作『フランス白粉の謎』以降、クイーンは直接、自らの名義で読者に挑戦する。とくに「ひとつの推理問題」という副題をもつ『オランダ靴の謎』(1931)では、「読者への挑戦」の文章が荘重だ。
 「国名シリーズ」の各作品は、綿密に構成・演出された室内劇を思わせる三人称の客観描写で物語が進行する(バーナビー・ロス名義の『Xの悲劇』『Yの悲劇』では、演劇的構成はより明瞭だ)。したがって、探偵のエラリーも作中では「彼」という対象にすぎない。それにもかかわらず、「読者への挑戦」の頁に至って、突然、エラリーは「私=作者」の一人称で読者に語りかける。これが物語に対する超越的な視点、メタレベルであることは言うまでもない。ここでクイーンが確言しているのは、以下の頁で作者が恣意的に物語を操作し、新たな手がかりを追加しない、あるいは探偵が不合理な推理をしない、ということだ。つまり、クイーンにおける「フェアプレイの原則」は「作者」の恣意性の禁止だ。「言語・数・貨幣」によれば、形式体系は自己言及性の禁止によって成立する。それはロジカル・タイプとしての禁止だ。
 換言すれば、「作者」の恣意性=メタレベルの下降を禁止することで、「本格推理小説」というゲーム空間=閉じた形式体系が成立する。すなわち、「読者への挑戦」の頁は、「犯人-探偵」/「作者-読者」という「本格推理小説」の形式体系における自己言及のパラドックスを阻止するためのものだ(事実、「解決の論理性」という観点から『オランダ靴の謎』を「国名シリーズ」の最高傑作に挙げる読者は多い)。「読者への挑戦」方式はクイーンの専売特許ではないが、「国名シリーズ」をその代名詞として語るのはもっともだ。
 (脚注10:都築道夫は『黄色い部屋はいかにして改装されたか?』で、フェアプレイの方法を検討し、「国名シリーズ」を理想的なモデルとして「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」を提唱した。また、都築はクイーンがその理想から外れてゆき、その理由はわからないと述べているが、理由は「形式化」だ)
 笠井潔『探偵小説序論』より。"作品におけるプロットとストーリーの二重性は、記号のシニフィアンとシニフェの二重性に対応する。プロットは「カタリ」、ストーリーは「モノ」だ。ロシア・フォルマリズムのボリス・トマシェフスキーは、ストーリーはプロットに原理的に先行すると言う。ヴァン・ダインの探偵小説の技法論も、モレッティの探偵小説批判も、この見解を踏襲している。だが、探偵小説ではその近代小説のドグマは逆転している。「作者-作品-読者」は探偵小説では「犯人-被害者-探偵」だ。近代小説ではストーリーがプロット化する。探偵小説もまた近代小説だ。正確には、近代小説を擬態した小説だ。さしあたり「モノ-カタリ」、「ストーリー-プロット」の前後関係は疑われない。しかし、初期の探偵小説では作品のストーリー的完結性が犯人の告白によって行われるとともに、探偵小説はプロットに随伴する探偵の推理が、最終的に犯人の告白によるストーリーを無化するように発展してきた。そこでは「作者=犯人=ストーリー」の優位が、「読者=探偵=プロット」の優位に鮮やかに逆転する。"
 「国名シリーズ」における「読者への挑戦」は、「作者=犯人=ストーリー」に「読者=探偵=プロット」が追いついたこと、つまり、以降はストーリーの先行が存在しないことの宣言だ。同時に、「作者=探偵」はそこまで後者が前者を追いこすこと、いわゆる当て推量を禁止する。極論すれば、「問題編」と「解答編」の区別も、「読者への挑戦」によって事後的・遡及的に形成されるものでしかない。いわば、「消失点」の導入によって「作図上」構成される遠近法的な枠組みだ。
 プロットとストーリーの二重性がシニフィアンとシニフェの二重性と同じなら、両者は相互侵犯的・自己言及的なもののはずだ。したがって、笠井の言う「読者=探偵=プロット」の優位もロジカル・タイプが前提されていなければならない。つまり、笠井の「物語論」は近代小説批判としては有効だが、それも構造主義の内部での転倒でしかない。もっとも、これは笠井が戦略的にそうしている公算が大きい。
 ところで、柄谷は「言語・数・貨幣」で、レヴィ=ストロースはモースの『呪術論』のマナや『贈与論』のハウを構造論的に解釈するため、ソシュールに対するヤコブソンのゼロ音素に着想し、ゼロ記号を導入した。そして、これは普遍的に見られると言う。
 レヴィ=ストロースはゼロ記号を「浮遊するシニフィアン」と呼んだが、「読者への挑戦」もこう呼ぶことができるだろう。都築が言うように、ここで「本格推理小説」の理想的なモデルが完成したようにも見える。だが、クイーンはこのモデルから逸脱してゆく。
 「言語・数・貨幣」より。"だが、レヴィ=ストロースはそのような「構造主義」に満足したりはしない。そこから「言語の発生」に遡行しようとする。レヴィ=ストロースは奇妙にも、言語の発生は一挙にしかなかったと言う。もしそうなら、そこにはけっして解消しえない「不均衡」が存在する。それはシニフィアンとシニフェのあいだというより、両者を二分するシステムに存在するはずだ。われわれはレヴィ=ストロースの言う構造を動態化する必要はない。それはそもそも動的なものの静態化だからだ。それは、未開社会について語られたからといって、歴史の段階に対応するとも限らない。むしろ、ひとつの様態(モード)であるはずだ。"
 次章でクイーンの作風の変遷を述べるが、それは単線的・段階的な発展に対応するわけではない。つまり、人間性、哲学、社会状況、宗教といった外在的なものを「本格推理小説」に導入し、その構造を動態化するわけではない。クイーンの逸脱の意義を問うことは、「不均衡」を内包しながら動揺する「本格推理小説」の様態の諸相を探ることだ。
 (脚注11:カーは『三つの棺』(1935)の有名な「密室の講義」で、フェル博士に「われわれは推理小説の中にいる人物だ」と前置きさせて、「推理小説への批判で《ありそうにない》という言葉だけは通じない。われわれが推理小説を好むのは、ありそうもないことに対する好みによるのだから」という独特の推理小説の擁護論を展開している。ここで、カーは「ありそうにない」という言葉で、「本格推理小説」の根源的な「不均衡」を示している。カーの作品がいつもごてごてしてアンバランスなように見えるのは、そうした「不均衡」を安定化することを拒否しているからだ。カーはウィトゲンシュタインの提唱する「言語ゲーム」に近い視点から、「フェアプレイの原則」を定義したと言えるかもしれない(伏線の処理を見よ)。カーとクイーンの視点は相互補完的であり、どちらが優れているという議論は意味をなさない)

・4

 「言語・数・貨幣」より。"ゲーデルの不完全性定理は(前述の)カントールやマルクスについて、ひいては一般に形式化について適用すべきだ。"
 「一般的に形式化がもたらす問題」とは、各分野で「不均衡」を問いなおすことだ。
 クイーンについては「不均衡」は『ギリシャ棺の謎』(1932)で顕在化する。本作は細部まで堅牢に構成された大作でありながら、脆弱だ。ネヴィンズ・ジュニア曰く、"頭が痛くなるような網の目を見る感じがする"。
 エラリイ・クイーン・ファン・クラブのEQⅢの『棺の中の失楽』(「クイーンダム」42号)は、『ギリシャ棺の謎』を「メタ・ミステリー」として解読する。その根拠は、犯人が仕組んだ偽の手がかりにもとづき、探偵のエラリーが展開する誤った推理のそれぞれが十分に「本格ミステリー」であること、そしてそのそれぞれが最終的に多重構造として正しい推理に包含されることだ。
 さらに、EQⅢはこれをクイーンが意図しなかったことだと言う。結果的に、「手がかり-推理」が暗黙に前提しているフィクション性を「偽の手がかり-偽の解答」というオブジェクト・レベルに下降させてしまった。"「本格ミステリー」の読者は「作者がばらまいた手がかり」をもとに「作者が意図した推理」を組みたて、「作者が用意した犯人」を指摘しようとするにもかかわらず、『ギリシャ棺の謎』では「犯人がばらまいた手がかり」をもとに「犯人が意図した推理」を組みたて、「犯人が用意した偽の犯人」を指摘してしまう。『アクロイド殺害事件』の読者が次からワトソン役を信じられなくなってしまうように、手がかりを信じられなくなってしまう。"
 これは「形式化」の問題だ。「メタ・ミステリー」という自己言及的な構造の到来は、「形式化」の必然だ。これは「作者」(メタレベル)が「作品」の中(オブジェクト・レベル)に下降することで生じる。『Yの悲劇』では登場人物のひとりが「作中作」の作者として表出するが、これも形式的には『ギリシャ棺の謎』と同じだ。ただし、「メタ・ミステリー」という概念はなんら革新的ではない。「メタ・ミステリー」を超越的だと言う楽天家は、そもそも「形式化」の意味を理解していない。重要なのは、「メタ・ミステリー」という構造そのものが「不均衡」から生じ、また「不均衡」を生むことだ。
 「形式化の諸問題」より。"タルスキのメタ言語はまたメタ・メタ言語を生むはずで、パラドックスの解決にはならない。"
 『ギリシャ棺の謎』のメタ犯人は「本格推理小説」のスタティックな構造を危うくする。メタ犯人は「作中作」のテクニックと同様に、いくらでも拡張しうるが、ある程度を超えれば煩わしいだけになる。こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠か推理が必要だが、その真偽を閉じた体系の内部で決定することはできない。つまり、「作者」の恣意的なものになる。
 (脚注12:『ギリシャ棺の謎』で探偵のエラリーは、3番目の誤った推理で犯人と名指しされる人物を、最後の推理で"「彼が殺人犯人であれば、自分でできあがるあらゆる手段を講じて、その証拠が警察の手に落ちないようにしたはずだ、……」"という理由で犯人から除外する。だが、それがその人物がメタ犯人として意図したかもしれないことに、探偵のエラリーは言及しない)
 証拠の真偽判断をめぐる「問題」は『シャム双子の謎』(1933)ではいっそう紛糾し、ロジカル・タイピングは自壊している。野崎六助は『北米探偵小説論』で、本作の自閉的・非現実的な性格について、作者の「不安からの逃避」で説明している。
 たしかに『シャム双子の謎』は、閉鎖的な舞台設定(「嵐の山荘」の極北)、グロテスクな登場人物、2種類のダイイング・メッセージ(引き裂かれたトランプ)、といった過剰なゲーム性が見られる。だが、第3章で「ゲーム愛好家」であることを告げる登場人物が次章で死ぬことは、その真逆であることを示している。
 ネヴィンズ・ジュニアが『シャム双子の謎』の謎解きを高く評価するのとは裏腹に、解決編における探偵のエラリーは完全な自信喪失に陥っている。
 本作で探偵のエラリーが冴えた推理を見せるのは、ある手がかりが偽の証拠であることを証明する場面だけだ。それ以外の推理はいずれも根拠薄弱だ。とくに、最終的なフーダニットは探偵のエラリーは心理的な罠に頼っている。そのため、「読者への挑戦」の省略は当然だ。
 だが「読者への挑戦」の不在は、技術的な理由だけではない。通例なら「読者への挑戦」が挿入される頁で、登場人物たちは山火事を阻むための濠を掘りはじめる。が、炎は軽々と濠を超越してしまう。しかし、この象徴にもかかわらず、「本格推理小説」というゲーム空間を瓦解させるものは、外部からの脅威ではない。

 「形式化の諸問題」より。"ゲーデルは「形式主義」を外から解体したのではなく、その内部に「決定不可能性」を見出すことで、その基礎の不在を証明した。"
 『シャム双子の謎』で、探偵のエラリーとクイーン警視は物語の前半で正しい自白を手に入れながら、終盤までその真偽を決定できない。2種類の虚偽のダイイング・メッセージの自己言及的なループにより、ゲーム空間に決定不可能なパラドックスが生じているからだ。
 (脚注13:笠井潔は第一次世界大戦における「大量死」という歴史性により、「大戦間探偵小説」の基礎付けを行っているが、クイーンは『チャイナ橙の謎』(1934)でそれを否定している。法月『大量死と密室』を参照せよ)
 もうひとつ、注目すべき点は『シャム双子の謎』に「双生児の決定不可能性」というモチーフが存在することだ。柄谷は「隠喩としての建築」で、ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』から、エッシャーのだまし絵とバッハのフーガを例示している。
 クイーンの作品でこうした「問題」の端緒と思われるものは、「バールストン先攻法(ギャンビット)」のテクニックだ。これはネヴィンズ・ジュニアの発見で、被害者がじつは犯人だというパターンだ。『シャム双子の謎』に先立つ『Xの悲劇』『エジプト十字架の謎』(1932)、『アメリカ銃の謎』(1933)ではいずれもこのテクニックを使用し、『Yの悲劇』(1932)の導入部も、これを暗示している。「被害者-犯人」の逆転という「図-地反転」は、じつはロジカル・タイプの混同に由来しているが、クイーンは「読者への挑戦」という「消失点」を用い、これを「問題編-解決編」という遠近法的枠組みにすり替えていた(これによる「不均衡」の封じこめは「本格推理小説」の延命策にすぎないが、それによって傑作が生まれた)。
 したがって、「読者への挑戦」が不在の『シャム双子の謎』では、「図-地反転」が決定不可能性を顕在化する。
 「本格推理小説」の「形式化」は『シャム双子の謎』においてゲーデル的結論に到達した。クイーンは本作において「本格推理小説」の基礎の不在を証明したと言ってよい。『シャム双子の謎』は唖然とするようなご都合主義のセリフで終幕するが、にもかかわらずこの場面が感動的なのは、作者がここで「形式化」の果てに「本格推理小説」の根拠の不在を証明しているからだ。それは根源的な「不均衡」と直面することに他ならない。
 これについてクイーンが自覚的だったことは、「戦略的撤退」を行った『中途の家』(1936)などで明らかだ。本作では「決定不可能性」の問題が、二重生活を送っていた被害者に対象化され、パラドックスが回避される。そして、「読者への挑戦」方式が復活する。しかし、こうした方法は題名どおり「中途半端(halfway)」なものでしかない。本作以後、クイーンは長編で「読者への挑戦」方式を使うことをやめ、代わりにロジカル・タイプの「あいだの扉(The Door Between)」を開いてゆく。

・とりあえず、おわりに

 本論では『Yの悲劇』を論じたのち、クイーンの後期作品について扱う予定だったが、紙幅の都合でここで擱筆する。
 (脚注15:クイーンは『Yの悲劇』では、「操り」というテーマで「形式化」の問題を扱っている。本作は今日のメタ・ミステリーを先取りしている。中後期の作品における「不均衡」のさまざまな様態は、『シャム双子の謎』の結論を批判的に再検討したことによる。「真犯人の偽りの告白」というパラドキシカルな構成は『悪の起源』を経て『最後の一撃』でふたたび登場する。「図-地反転」は『ダブル・ダブル』でより顕在的に表出し、やはり『最後の一撃』で双生児の決定不可能性として再検討されている。『最後の一撃』はダネイとリーの最後の合作と言われているが、多くの点で『シャム双子の謎』を思わせる。しかも、本作のラストでクイーンは「言語の発生」に遡行しようとさえする。『最後の女』のダイイング・メッセージの解釈の異様さを見よ)
 (脚注16:法月『一九三二年の傑作群をめぐって』を参照せよ)

○『一九三二年の傑作群をめぐって』

 掲載誌を改めているため、内容の大半が『初期クイーン論』と重複している。新たな論点は後半の『Yの悲劇』と『災厄の町』(1942)についてだけだ。
 『Yの悲劇』はロジカル・タイプを内包している。だが同時に、『Yの悲劇』はメタ探偵小説をも否定している。実行犯のジャッキーは解決編の直前で殺害され、自己言及のパラドックスに取りこまれる。そして、その「犯人」は「読者」にあからさまに示されている。しかし、この殺害はレーンが「犯人」を断罪するというより、沈黙することによって成立する。こうして「作者」が究極的な「犯人」を指示しないことで『Yの悲劇』という「作品」は成立する。これは、探偵小説のいわゆる「外部」が、「形式化」の極限において、ネガティヴにしか示されないことを意味している。
 『災厄の町』はクリスティの『邪悪の家』(1932)との類似がしばしば指摘される。一方、『災厄の町』が『Yの悲劇』の改作であることはあまり言及されない。要素の共通にもかかわらず、両作は断絶している。一般にこれはクイーンが「推理の一問題」から「小説」へ作風を転換したためだと言われるが、それは皮相的すぎる。じつのところ、両作は構造的に変質している。それはプロットの要素の配置が、垂直的から水平的に変わったことによる。『Yの悲劇』における「祖父-孫」は『災厄の町』では「夫婦」に、『Yの悲劇』の「操り」は『災厄の町』ではコミュニケーションの非対称性に変わっている。そのため、『災厄の町』には事件の全体を見渡す超越的な視点(メタ・レベル)が登場しない。
 同時に、探偵のエラリーもハイト家に出入りする。エラリーと恋仲になるパトリシアがペイシェンス・サムと同じ「パット」という愛称で呼ばれることは意図的なはずだ。
 クイーンが『Yの悲劇』のレーンと『災厄の町』のエラリーの差異を意識していたことは、クライマックスで明らかだ。レーンは沈黙し、エラリーは法廷で証言し、自分にも犯行が可能だったという爆弾発言をする。
 さらに、この爆弾発言すら法廷戦術であり、しかも成功しない。これは法廷における言語コミュニケーションだ。
 『災厄の町』は初期作品に対し、論理的なプロットが弛緩していると言われる。だが、それはただの「弛緩」ではなく、探偵小説をシステムの全体性から解放し、コミュニケーションに開いてゆくクイーンの試みだろう。

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