『同人女の感情』(『私のジャンルに「神」がいます』)の裏テーマ

※第10話後編の公開後に追記しました。

 真田さんの連載中のウェブ漫画『同人女の感情』が人気です。
 この作品は単行本化に当たって『私のジャンルに「神」がいます』と改題しました。

 この改題の理由はなんでしょう(商業的な都合は別としてです)。とくにこの作品が群像劇であることを考えると、「神」である綾城さんを題名に入れるのは不釣合いにも思えます。
 象徴的な偶像としても、映画の『キサラギ』や『リリイ・シュシュのすべて』のように、そこまで中心的な役割を担っているわけではありません。

 第4話にネット上のファンダムの相関図が登場しましたが、ここに「神字書き」らしいアカウントがあります。このアカウントが綾城さんのものかは作中に言及がありません。ただ、このアカウントのアイコンがウーパールーパーで、人間関係の揉めごとは遠くから見ているだけの無邪気な天才ぶっていることにはイラッときます。
 ともかく、登場人物の1人を特権的に描くのはそれだけ難しいということです。

 ですが、作者のツイッターアカウントによると最終話だという第10話前編を見て合点がゆきました。(後編は今週土曜日公開の予定です)
 第10話の題名は『天才字書きのアンチ』で、第1話の『秀才字書きと天才字書きの話』とになっています。
 途中の各話ではかならずしも綾城さんが中心的な役割を担っているわけではありません。ですが、初話と最終話で綾城さんと、綾城さんに対する両極の登場人物が配置されて、物語の全体に導線が引かれています。
 これなら単行本の題名も当然でしょう。
 ですが、その物語とはなんでしょう。
 ネット上のファンダムに加えて、もう1つのテーマがあることになります。

 さて、真田さんは『同人女の感情』が人気になる前、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のファンジンで人気を博していました。
 とくに『文化祭だし映画監督になる!』は名作と名高いです。その完成度の高さは、原作で登場人物たちが文化祭に映画を出展する計画を立てていることについて、ネット上のファンダムが逆輸入ではないかと噂しているほどです。
 とくに、ネット上のファンダムの中心であり、公式アンソロジーの主要な執筆者である推理小説家の円居挽がそのことを公言しています。

わたモテ映画編、「真田先生の同人誌か?」ってなった

 『文化祭だし映画監督になる!』の内容は以下のとおりです。登場人物たちが文化祭に映画を出展することを考え、映画制作の方法を学びつつ、紆余曲折ありながら、映画を完成させる。
 特筆すべきなのは、そうして登場人物たちが映画を完成させる物語が、登場人物たちが学んでゆく映画制作の方法に完全に則していることです。例えば、まず最初に主役の黒木智子が「ハリウッド式三幕構成」の枠組みを学びますが、あとの物語は、この三幕構成に則して展開してゆきます。
 つまり、この名作ファンジンは、創作についての創作なのです。
 (※余談です。ハリウッド式三幕構成は、文字通りに物語を三等分するものだと思われがちですが、誤解があります。ウォーレン・バックランドの『フィルムスタディーズ入門』や、教科書的な『フィルム・スタディーズ』などは、ハリウッド式三幕構成は物語を1/4、1/2、1/4に分割するものだとしています)

 話を『同人女の感情』に戻します。
 第10話の主役は柚木さんです。柚木さんは綾城さんのファンフィクションを読み、嫌いになります。そしてファンダムが綾城さんのファンフィクションを評価するため、その齟齬に苦しみます。
 そもそも、なぜ柚木さんは綾城さんのファンフィクションをそこまで毛嫌いするのでしょうか。
 柚木さんは綾城さんのファンフィクションを、その信奉者たちより客観的に見て、詳しく観察しています。
 ここにアンチのアンチたるゆえんがあります。
 柚木さんが綾城さんのファンフィクションを嫌う理由の中心は好みではありません。なぜ嫌いなのか、それを説明できてしまうということなのです。

 みなさんもご自身のことを考えてください。好みに合わないもの、好悪の指標で「悪」に寄っているものはたくさんありますよね。ですが、そうしたものに対するみなさんの感情は無関心のはずです。そもそも、興味を持続することが難しいはずです。
 一方、嫌っているものについては、なぜそれが悪いのか言葉にして説明できるはずです。
 この理論は、自分がアンチであるものを考えたときには共感しますが、自分が好きなもののアンチのことを考えたときには反感を持つはずです。そうすると、次にこう思うでしょう。では、その説明に説得力があるのはどういうときか。つまり、アンチと信者、どちらが正しいかどうやって決めるのかと。それについては最後に書きます。

 この構造について、リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』が分かりやすく説明しています。
 ローティはアイロニー(皮肉)は残酷なものだと言います。なぜなら、それは人々にとって重要だと思える事柄を無価値だと暴くからです。それはひとりの子供のファンタジーに彩られた大事な持ちものを、ゴミだと教え、他の裕福な子供の持ちもののそばに並べて見せることと同じです。

 ですが、ここからがややこしいところですが、優れたファンフィクションを書くためにはこのアイロニーの視点が必要なのです。
 アイロニーというと攻撃的ですが、批判的というより、客観的、相対的に作品を見るということです。

 スラングの「解釈」とは、作品の描かれない細部を埋めたり、一見したところとは異なる内容を再発見したりすることです。それには、そのファンの知識と洞察力が必要とされます。ですから、優れた「解釈」をするファンは賞賛されます。
 ですが、このファンの視点とは、アイロニーの視点に他なりません。
 第1段階として、ある程度の知識と洞察力があると、その作品の優れた「解釈」を提供することができます。第2段階として、前段階をはるかに上回る知識と洞察力があると、そもそも作品が下らないものにしか思えず、わざわざ「解釈」を提示しようとは思わなくなります。
 この第2段階に好悪の感情が加わるとどうなるでしょうか。もうお分かりですね。アンチになります。

 『同人女の感情』の第1話の主役は七瀬です。
 七瀬は字書きとしての実力を得るために、まずなにをしたでしょうか。
 そう、(原作を精読するのは当然として)心理学の本を読んだり、さまざまなジャンルのフィクションに触れ、それらを分析したりしたのです。
 ちなみに、ここで七瀬が当然したであろうに、作中に書かれていないことがあるのに気づかれたでしょうか。いわゆる創作理論の本を読むことです。ここで七瀬が創作理論の本を読むと『文化祭だし映画監督になる!』のようになって話がややこしくなるので、真田さんは避けたのでしょう。
 こうして七瀬はフィクションについての知識を深めましたが、それにより、七瀬が触れるフィクションは以前より精彩を欠くものになってしまったでしょう。物語の展開には演出意図が、登場人物の性格には人物造形の意図が見えて、以前より素直に作品を楽しむことができなくなってしまったはずです。

 ですが、知識を得たことで、作品をより深く味わうことができるようになったはずです。なにより、より楽しく、活力をもって創作活動に励むことができるようになったはずです。
 第10話で柚木さんは実力のある字書きとして描かれています。ある意味で、柚木さんは七瀬の将来像でもあります。
 ついでに柚木さんの創作について一言しておきましょう。柚木さんは「ほのぼの」「イチャラブ」「ギャグ」あたりが主な作品のようです。
 これらはどれだけ水準が高くても、評価はウェルメイドな作品と呼ばれるに留まります。
 ところで、「ウェルメイドな作品」という言葉の語源は、19世紀イギリス演劇界でウェルメイド・プレイと呼ばれたコメディです。そして、ウェルメイド・プレイの劇作家としてもっとも売れていたのがオスカー・ワイルドでした。ワイルドはいまでこそ『ドリアン・グレイの肖像』で小説家として知られていますが、当時は流行の劇作家でした。ワイルドはアイロニー(皮肉)を駆使し、ディケンズのような道徳的、教訓的な小説を批判しました。ですが、コメディの劇作家として人気を博しました。(ちなみに、『スパイダーマン2』でワイルドのコメディが劇中劇で使われています)
 柚木さんはただ楽しく創作することが望みだったのでしょう。
 ある程度、知識と洞察力があると、ある作品の深刻さは深刻ぶっているようにしか見えず、メッセージは紋切型のスピーチにしか聞こえなくなることがあります。

 ただし、これはファンフィクションには限りません。
 柚木さんは綾城さんのファンフィクションにそうした不満を抱きました。ですが、これが原作だったらどうでしょう。スラングで言えば「公式」です。
 柚木さんと七瀬の相剋はあらゆるフィクションに付きものの普遍的な葛藤になります。
 これが『同人女の感情』の、ネット上のファンダムに加えた、もう1つのテーマです。
 つまり、創作についての創作です。

 では、最後に予告した問いへの回答をしましょう。
 柚木さんと七瀬、アンチと信者、どちらが正しいかどうやって決めるのかということです。

 その答えは、戦って決めろです。

 そして、そうして新たに作品を生む行為こそが創作なのです。
 (ネット上のファンダムで、作者への人格攻撃がときどき問題になりますが、そもそも馴合いの環境がなければ人格攻撃は成立しません。人格攻撃は馴合いの反対どころか、馴合いの一部です。)
 このことをうまく説明した文章を掲げておきます。

「"いかなる解釈といえども、その不正確な箇所や見落としをただ数えあげたり、答えていない問題点のリストをつくれば、それで、その解釈の信憑性を効果的に剥奪できるなどと、私は夢にも思っていない。そもそも解釈とは、他から孤立したいとなみではない。解釈がいとなまれるのはホメーロス的戦場であり、そこでは一群の解釈の選択肢が、おおっぴらに、あるいは暗黙のうちに熾烈な闘争をくりひろげている。もし文献学的正確さという実証的概念だけが、唯一の選択肢となるのなら、私はむしろ、強力な誤読による脆弱な誤読の駆逐を祝福する最近の挑発的な理論に、よろこんでくみしよう。中国の諺にいわく、斧を切り刻むなら、もう一本、斧を用意すべし。これを私たちの文脈に置き換えるなら、いまひとつの、より強力な解釈だけが、すでに居座っている解釈をくつがえし、実質的に、論破できるということになろうか。"」(フレドリック・ジェイムソン著『政治的無意識』)

※追記:メリーバッドエンドでした。(他に感想はないです)

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