『『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬?』の誤謬
・前書
以前、書いた『『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬(「『反逆の神話』の誤謬」補遺)』という記事について、くちなし氏から批判記事をいただきました(『『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬?
』)
本書については、一般書であり、簡単に誤りを指摘しただけですが、くちなし氏はどうしても擁護したかったようです。
残念ながら、くちなし氏の擁護は、ジョセフ・ヒースの主張そのものに関するものではなく、主張の意図を説明するもので、説得力はありませんでした。
新興宗教の教祖が珍言奇行したときに、信者が「たしかに、偉大なる教祖さまの御言葉はおかしく聞こえる。しかし、このような高遠なる意図があるのだ!」と、擁護するようなものです。
たかだか5000字ほどの記事に、1万3000字超もかけて批判記事を御執筆されたので、返信をもって慰労とさせていただきます。
・前段
文意は明確にすべきです。
「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は誤りを多く含んでおり入門書として不適切」か否か、断言すべきです。
驚くべきことに、くちなし氏の記事は前段、それも第1段落から破綻しています。
くちなし氏は、本論で論述するのは、弊記事の「誤読に基づくもの」に限ると明言しています。
つまり、弊記事は正当な指摘もしているということを認めています。
にもかかわらず、弊記事の指摘に誤ったものがあるというだけで、「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は入門書として適切」という主張ができると述べます。
くちなし氏は知的能力にいささか問題があるのではないでしょうか。
くちなし氏は弊記事の倍以上の文字数、1万3000字もかけて『資本主義が嫌いな人のための経済学』を擁護しているため、言及を避けた指摘については、反論できないと認めたと見なしていいでしょう。
くちなし氏が言及を避けた指摘で、とくに致命的なものは、ヒースが行動経済学と厚生経済学を理解していないというものです。
くちなし氏は、このことを認めながら、なお「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は入門書として適切」だと強弁するのでしょうか。だとすれば、知的能力に問題があると言わざるを得ません。
以下では、弊記事の指摘が"誤読"だという反論についても、説得力が乏しいということを見ていきます。
"本記事は、ラビットホールさんの指摘の中で誤読に基づいている点を取り上げるものだ。総合的に判断して最終的に「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は誤りを多く含んでおり入門書として不適切」といった結論になる可能性は排除しない。"。
この曖昧模糊とした文章について、私も「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は入門書として適切」という意味だと解釈を与えました。
もっとも、この解釈が誤っているとは思えませんが。
・フェアトレード
くちなし氏は、ヒースがフェアトレードに対してする批判は、ヒースが"慈善的価格方針"だと名付けたものに限定されているという理由で、ヒースを擁護しています。
ちなみに、私の3歳の甥は、手袋を「ちくちくお手々」と名付けています。
寒い日に手袋を着けさせようとすると泣きわめき、いくら理由を尋ねても「〈ちくちくお手々〉だから」と言うだけだと、姉が愚痴をこぼしていました。
新興宗教の教祖はなにが「神聖」か「邪悪」か認定します。
ですが、「信者」でない人間には、その分類に体系性は見出だせません。
常識的には、寄付は地位追求のひとつの方法でしょう。
よって、矛盾しています。
くちなし氏は"慈善的価格設定"でないものは「希少性価格設定」だと述べます。
ですが、希少性を決めるのは需給の均衡です。そして、慈善活動も地位追求も需要でしょう。
そもそも、くちなし氏は知的能力が低すぎるのではないでしょうか。
弊記事における指摘は、"噛み合わない"ではなく、「矛盾している」です。
矛盾しているという指摘に対し、"噛み合わない"と言葉を換えても、反論を免れることにはなりません。
くちなし氏は論理的思考ができるだけの知的能力がないのではないでしょうか。
"需要を大幅に超えた量の財を供給する"という文章は意味不明です。
需給は一致しています。そうでなければ、取引は成立せず、財は供給できません。
くちなし氏は自分の文章が意味不明であることに気づかなかったのでしょうか。
おそらく、くちなし氏がここで混乱しているのは、物々交換の市場をイメージしているからでしょう。新興宗教の団体がコミューンで原始的な生活を営んでいる様子が目に浮かびます。
ですが、一般に、市場で交換される一方のものは貨幣です。ですから、貨幣による支払いは需給の一致を意味します。
もちろん、競争均衡が成立しない、また、不完全競争で死荷重が生じる場合はあります。
ですが、ヒースの"慈善的価格設定"かどうかなどは、まったく関係がありません。購入の動機がいかなるものであれ、競争均衡価格は成立しえます。動機がいかなるものかは、ヒースの「信者」にしか関心がないことです。
「教祖」であるヒースの正邪の認定が破綻していることは、いま見たとおりです。
しかも、仮に、私的財について、外部性が内部化されて価格上昇したとしても、新たな均衡価格はやはりパレート効率的です。
これだけ知的能力が欠如していることを示しているのなら、くちなし氏はそれを補うために、経済学を学んだほうがよいのではないでしょうか。
・公有・公営化
クルーグマンのものでも、スティグリッツのものでも、アセモグル・レイブソン・リストのものでも、有斐閣やミネルヴァ書房の入門書でも、経済学の教科書では、公有・公営化の理由は自然独占と外部性だと説明しています。
もし、そうでないと主張するなら、証明責任はヒースのほうにあります。
当然ではありますが、ヒースはその証明をしていません。
よって、ヒースの主張はまったく価値がありません。
"「だから何?」"と言いたいのは、『資本主義が嫌いな人のための経済学』の読者のほうです。
ですが、くちなし氏にとっては「偉大なる教祖(グル)」の御言葉だからというだけで、証明は必要ないようです。
「偉大なる教祖(グル)」の御言葉に興奮して"「だから何?」"などと書いてしまうことに、くちなし氏の知的能力について懸念を抱きます。
・時間割引
そもそも、パレート効率性は平等性とは無関係です。
極端な例として、エッジワース・ボックスの原点、つまり、2者のいずれかの総取りの場合は、パレート効率的です。したがって、そこからパレート改善になるように再分配できません。
弊記事はヒースが非論理的にパレート効率性を論じたことを批判しました。
それに対する反論が、「ヒースはパレート効率性を論じていない」というものなら、くちなし氏は知的能力が低すぎるのではないでしょうか。
また、実証的に一般的な、コブ=ダグラス型効用関数では、凸性と単調性により、結果的に、再分配はパレート改善となります。
したがって、ヒースは厚生経済学を理解していないということになります。
言うまでもなく、ここでパレート改善になるのは、平等性とはまったく関係がありません。
「偉大なる教祖(グル)」の信者であるくちなし氏が、反論しないということは、ヒースが厚生経済学を理解していないことを認めたということでしょう。
"この点についてはここでは立ち入らない"。
「偉大なる教祖(グル)」の信者であるくちなし氏が、反論を避けるということは、反論できないと認めたということでしょう。
ヒースが行動経済学と厚生経済学を理解していないことは致命的です。
そう思われるのは、ヒースが消費と貯蓄を区別できていないからです。つまり、時間割引率を理解できていないのです。
くちなし氏はヒースを擁護するために、スティグリッツの『公共経済学』を引用します。ですが、この記述は、時間割引率を考慮するかぎり、消費と貯蓄が異なるというものです。
なぜか、この引用によって、くちなし氏は消費と貯蓄が異ならないと主張します。
そもそも、くちなし氏は知的能力が低すぎるのではないでしょうか。
ヒースに限っては、ある章を執筆するときに理解できていないことが、他の章を執筆するときには理解できるそうです。
くちなし氏は、論理的思考ができるだけの知的能力が欠如しているのではないでしょうか。
・後書
『『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬?』に疑問符は不要です。
本論は2つの点で、「『資本主義が嫌いな人のための経済学』は誤りを多く含んでおり入門書として不適切」ということを、あらためて実証しただけのようです。
第1に、やはり誤りが多々あるという点において。
第2に、くちなし氏のように、知的能力が低い人間が教典(カノン)としているという点において。
・追記
記事のコメントで返信しておきましたが、それについて、再返信をいただきました。
"何を言っているかのかよく分からない"のは、くちなし氏の知的能力が低すぎるからです。
"本当に本や私の記事をきちんと理解しているのかと疑わしい"のは、認知能力が低すぎ、自分と「教祖」であるヒースへの賛成意見しか容認できないからです。
相手の論難については「何を言っているのか分からない」、論破された自分の主張については「真の意味を理解していない」で、議論そのものを避ける。
これは、カルト的な宗教の信者が論難されたときの応酬の方法です。
"“フェアトレード信者”という言葉自体が出てきたという点はこちらの見落としなので訂正しておきました。"。
教典(カノン)について、内容を議論することを禁じながら、文章を一字一句、諳誦することを努めるのは、典型的な信者の振舞いです。
・さらなる追記
記事を見直して、くちなし氏を嘲弄していたことを反省しました。
ですが、くちなし氏が誤っていたことは事実です。しかも、専門知識を要する誤りではなく、単純な、論理的な誤りです。
そこで、くちなし氏に、相互に記事を削除することを提案しました。単純な誤りも、その訂正も、非生産的だからです。
くちなし氏の回答は「たとえ誤りでも殉教する」というものでした。
真偽、正誤に優先する価値はないでしょう。ですが、そこまで覚悟しているなら、もはや言葉はありません。
他人への辱めが肯定されることはありません。ですが、この記事におけるくちなし氏への嘲弄は、すべて本人が合意したものであることは、ご承知ください。
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