『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬(「『反逆の神話』の誤謬」補遺)

 「『反逆の神話』の誤謬」補遺。

 ヒースは『反逆の神話』と『啓蒙思想2.0』という名著を上梓している。だが、残る一般書である『資本主義が嫌いな人のための経済学』は推奨できない。
 経済学の入門書だが、初歩的すぎ、内容が乏しい。
 しかも、多少とも専門化すると誤りを犯す。
 わざわざ誤謬を指摘するほどの価値がない。「『反逆の神話』の誤謬」の補遺として付記する。


" フェアトレードの文献には、地主や、焙煎業者、ブローカー、多国籍企業から破廉恥に搾取されるコーヒー生産者の胸のつぶれるような話があふれている。だが変えようのない事実がいくつかある。世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産しているなら、適切な解決法がそんなに多く生産するのをやめることだ(存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧(、、)の生産に使うこともできたのだ。それは重要なことなので忘れずにいたい)。ところが、苗木を植えたり実が熟すまで世話したりといった「埋没費用」ゆえに、あまりに多くのコーヒー生産者が、他人が自分より先に市場から離脱するのを望みながら粘っていた。
 原因療法ならぬ対症療法に走る見本のごとくに、オックスファムその他のフェアトレード信者は、西洋の消費者がこの供給過剰に対し、コーヒーにもっと高値を払うべきだと示唆した。悲惨なほどばかげた提案だ。これでは(問題を解決しないという意味で)間違っているだけでなく、解決すべき問題をまさしく悪化させるという意味で)とるべき行動の正反対ですらある。"(p.195)

 "存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧(、、)の生産に使うこともできたのだ。それは重要なことなので忘れずにいたい"(p.195)。

 この節でヒースは混乱している。
 本書の第5章は比較優位による国際貿易の擁護だ。

" この点でアメリカの自動車メーカーの従業員は、豊かな側のパン屋の、タルト職人よりベーグル職人に似ている(メキシコとの貿易が増大した結果、彼らが職を失わないのは、ほかの(、、、)グループのアメリカ人が失うからだ。グローバリゼーションの支持者はこの事実を詳しく論じようとしない)。アメリカの企業がメキシコ人に自動車製造で賃金を払ってもやぶさかでないのは、国内で生産するより安上がりになる場合だけだ。だが結局のところ、アメリカ人は、メキシコ人がたまたま車と交換に欲しいと思うものの生産より自分たちで車を製造するほうが得意なのだ。このことを理解するには、デイヴィッド・フリードマンの今や有名な「アイオワで自動車を栽培する」たとえ話を検討するのが最も有効だ。"(pp.128-9)

 本節を収める第7章「公正価格という誤謬」は均衡価格の擁護だ。
 ヒースが混乱しているのは、価格規制の批判という目的をあらかじめ定めているからだ。
 フェアトレードは価格規制ではない。そのため、フェアトレードを価格規制だと仮定し、価格規制を経済学的に批判し、そのあとフェアトレードが価格規制でないことを道徳的に批判するという、意味不明の論理展開をしている。

" しかし、さすがにオックスファムは(多くのフェアトレードコーヒー推進者と異なり)勧めている方針の結果をざっくばらんに認めた。フェアトレードの価格づけは根底にある問題、つまりコーヒー供給過剰への取り組みとは関係ないことを認識していた。だからオックスファムの慈善的価格方針の裏には、現在あるコーヒー豆の在庫を抹消する覚悟があったのだ。「政府および企業」に、コーヒー五〇〇万袋(推定一億ドル分)を買いあげ、処分するよう勧告した。"(p.196)

 巻末で倫理的消費を擁護しているため、この道徳的な批判はなおさら支離滅裂だ。

"二〇〇六年にロックバンドU2のボノとポール・シュライヴァーによって、鳴り物入りで起ち上げられたブランド(RED)を検討していこう。基本的な手法は、アップル、モトローラ、ナイキのような企業とライセンス契約を結んで、人気の消費財(iPodや携帯電話、コンバースのスニーカーなど)の(RED)ブランド版を製造、販売させることだ。これらの企業は自発的に(、、、、)売り上げた(RED)商品の購入価格の一部を世界基金に寄付し、それがアフリカのエイズ対策資金として活用されている。ここでやっていることは、このブランドによるプレミアム価格に奢侈税を課してエイズ対策資金にするのと同じことだ。異なるのは、企業がこれをブランドの付加価値を高める一法として、すべて自発的にしている点である。"(p.335)

 "本当に必要とされているもの、例えば食糧(、、)の生産に使うこともできたのだ"と書きながら、エピローグであらためて比較優位を賞讃する。

"インドはとても長いあいだ経済的アウタルキー(自給自足)政策をとってきた。西側との貿易は搾取と依存のもとだと確信してのことだ。しかし、その結果、経済不振に陥った。特に得意でもないものや他国から簡単に買えたものを建造することに、数限りない時間とエネルギーを無駄に費やすはめになったからだ。"(pp.342-3)

 ヒースが"フェアトレード信者"といって嘲笑うのは、世銀副総裁を務め、長年、経済開発に携わったジョセフ・スティグリッツとアンドリュー・チャールトン(『フェアトレード』)だ(p.193)。


" 第二次世界大戦の終戦直後からの数十年間に、西ヨーロッパでは多くの企業が国営化されたり、国有で創業されたりした。自然独占や市場の失敗のためでなく、政府がこれらの事業をより広く公益に役立てたいと願ってのことだった。カナダでも同様に、政府がさまざまな時期に航空、鉄道、石油、もちろん多数の鉱山も所有した。さらには造船、航空宇宙、造林、石油ガス採掘、原子炉建設、農地所有、都市間バス事業、自動車保険などにも(一部にはいまだに)携わった。これらの国有企業は、国内でも国際市場でも私企業と直接競争した。国家がこうした部門にかかわった主たる理由は、私有の企業がずばり私益を追求するのに対し、公有ならば確実に公益に資することが可能だと考えられたからだ。だから国営企業の経営者は、ほどよい投下資本のリターンを生みだすのみならず、雇用の維持や地域発展の促進など、ほかの「社会的」目標をも追求するように命じられた。もちろん、この話はカナダにとどまらず二〇世紀のほぼすべての民主主義工業国で、多くの場合にはもっと大々的に展開したのである。"(pp.221-2)

 企業の公営は"公有ならば確実に公益に資することが可能だと考えられたからだ"ではなく、自然独占と外部性のためだ(平均費用(AC=C[v](x)/x+F/x)につき、費用関数が劣加法的な場合(C(x)>nC(x/n))、規模の経済と範囲の経済により、独占市場のほうが総余剰が大きい)。
 そのため、この段落から始まる節そのものが無意味だ。


" 一般的な教訓は明らかだ。現在の金融制度の融通性はすでに多くのアメリカ人に深刻な問題を起こしている。この伝でいけば、高額の資金移転はあまり役立ちそうにない。もし世間の人たちが大金を貯めることができるなら、すでにそうしているはず。金をばらまくことで国民の金融資産を増やそうとするのは、ざるに水を注ぎこむようなものだ。労働者全員を資本家に変えられ、それで誰もが「自由に」所得援助されれば結構なことだが、問題はその資本がたちまち使い果たされることである。"(p.309)

 本節を収める第11章「富の共有」は行動経済学よる再分配の批判だ。
 章全体でヒースは混乱している。
 そもそも、前提となる経済学の初歩と厚生経済学を理解していないためだ。

 効用関数は各自で独立でなければ、パレート効率性を考える意味がない。
 そして、限界効用の逓減が成立していなければならない。でなければ、効用可能曲線が原点に対して凹、すなわち傾きが負にならない(効用(U^[A](x[A],y[A]))、限界効用(α[A]=dv^[A]/dM[A])につき、dU[B]/dU[A]=-α[B]/α[A])。
 このため、所得が低いほど消費性向が高い。
 そもそも、一般に限界代替率は以下の前提をおく。1. 凸性((f(x)+f(y))/2>f((x+y)/2)) 2. 単調性(x>yかつx'>y'ならば(x,x')>(y,y')) 3. 解の一意性 4. x=0につき無限に発散、y=0につき0に収束すること。
 消費性向が高いとは、貯蓄より消費の効用が大きい、すなわち、異時期間で現在に近いほうが効用が大きいということだ。
 よって、一般的に再分配はパレート効率性を改善する。

 行動経済学でパレート効率性が問題になるのは、ある効用関数について、ある財を消費する時期が変わることで、総効用が変わる場合だ。

 ヒースが言う、同一時期での財の移転は、行動経済学にまったく関係がない。

 ヒースが意味不明にも行動経済学を引用しているのは、そもそも、前提となる経済学の初歩を理解していないためだ。

" この等価の原則はけっこう油断ならない。例えば、人は税金について語るとき、遺産は別として、自分の全収入を支出することを忘れがちである。「消費税」は貯蓄を控除した所得税にほかならない。この控除でさえ、実は控除ではなく猶予でしかない。なぜなら、またもや遺産を除けば、人はいずれ貯金を使うのだから。なのに、カナダの保守党政府が最近GST(カナダ版「付加価値」消費税)を引き下げたところ、かなりの高級紙に寄稿している解説者でさえ、この策は、自動車のような大きな買い物を考えている消費者だけに有効だろう、ほかの消費者にとっては所得税の引き下げのほうがよかった、とコメントした。"(p.19)

 そもそも、限界消費性向、時間割引関数を理解していない(最適消費・貯蓄(max[C1,C2,S] U(C1)+βU(C2) s.t. C1+S=Y1 C2=Y2+(1+r)S 今期消費C1 来期消費C2 貯蓄S 今期所得Y1 来期所得Y2 割引率β))。
 そのため、ヒースは珍妙にも消費と貯蓄は同等だと言う。そして、なぜか、専門家である"かなりの高級紙に寄稿している解説者"より、独学者の自分のほうが経済学を理解しているという前提を改めない。
 本書でヒースが引用する行動経済学の分野は、時間割引関数に関するものだ。そのため、ヒースは行動経済学も理解していない。

" 遺憾ながら、「平等と効率のトレードオフ」について語るとき、あたかも現代経済学でこのようなトレードオフは避けられないと証明されたように言う人がいる。それどころか、現代の数理経済学が証明したのは正反対のことだ。平等と効率のあいだには必ずしもトレードオフがあるわけではない。完全競争市場が完全に効率的な結果をもたらす理想の世界とほぼ同じ理想の世界では、効率と平等のあいだに何ら緊張関係はない。資本主義の効率と社会主義の平等とは同時に得ることができる(実際「市場社会主義」への初期の熱狂はまさにこの発見に動機づけられていた)。
 この有意義な結果は、厚生経済学の第二基本定理と呼ばれる。市場は、平等という点では基本的に透明であり、平等寄りにも反対にも偏っていない。どんな理由であれ、たまたま気に入った結果が得られるのであれば、まさにその結果を競争均衡として生みだす市場経済を整えることは可能である。つまり、たまたま完全な平等が好まれるのであれば、個人に完全な平等と交換するように導く当初の配分の設定は可能であるということだ。"(pp.316-7)

" 第二基本定理の証明はやや複雑だが、平等と効率の双方への配慮の両立可能性を表わすごく単純な図式はある。(後略)"(p.316)

 また、ヒースは厚生経済学も理解していない。
 厚生経済学の第1、第2基本定理の証明は単純だ。
 そして、第2基本定理の証明は、消費選好の凸性と単調性、生産関数の凹性の仮定を必要とする。
 そのため、"第二基本定理の証明はやや複雑だが"と言うヒースは、そもそも証明を理解していなく、"複雑"と言って不理解を粉飾している。

 経済学で効用関数は所与だ。
 効用関数に道徳的な視点から非難を加えるなら、すでに経済学ではない。

 そのため、"本書では、経済的な疑問について考えるときに起こる、ごく抽象的な概念上の誤りに重点をおいた。だが、これが日常の政治や政治的イデオロギーのレベルにまで浸透していることは、たやすく見てとれるだろう。"(pp.339-40)という、本書が目的とする科学の価値中立性について、誤りを犯す。

 なお、パターナリズムという結論そのものには完全に賛同する。
 経済学では誤りだということだ。


" これまた言う価値がありそうなので言っておくと、私は経済学者でないだけではなく、実際のところ経済学の正式な教育をうけてさえいない。学部生のときに、お決まりの経済学入門は受講したが、ほんの数回、授業に出たきりだ。教授が気にくわなかった。試験が教科書の付録のソフトウェアか何かで作った選択式のものになると知って、教室に二度と戻らなかった。正規の教育はそこまで。あとは本を読んでの独学だ。数学も高校レベルで止まっている。微分積分を習いはしたが、どうやるのか覚えていない。
 これを言っておくのは、後述する議論の信頼性を損なうためではなく、たんに経済リテラシーは言われているほどハードルが高くないことを示すためだ。でも経済学はきわめて扱いに注意を要するので、そこはお間違いなく。にもかかわらず、中心となる概念は、一般知能を訓練していけば、きちんと理解することができる。暗号を習う必要もない。経済学の高級学位など取得していなくても、この先の各章に詳述された落とし穴は避けられる。"(pp.20-1)

 正規教育は受けるべきだ。
 微積分ができない人間は経済学の入門書を著すべきではない。
 "簡単なモデルにもとづく、ごく基本的な主張"(p.21)に依存すべきではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?