『反逆の神話』の誤謬

 ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポーター著『反逆の神話』は、いわゆる文化左翼の欺瞞を剔抉した、古典的名著だ。
 だが、論旨を明確にするためだろう、明らかな詭弁と過誤も見られる。
 本書をより精読するため、以下、指摘したい。


・経済学について


" 一般大衆は言うまでもなく、悲しいかな政治家の大多数が、このことを理解していない。それがマルクス主義的な消費主義理論を繁茂させた肥沃な土壌となっている。消費主義の批判者は、消費と生産を二つの互いにまったく独立した過程のように扱うことにこだわる。例として『アドバスターズ』誌は、年に一度の無買デーを設けるキャンペーンを展開して、世界の注目を集めてきた。これが人の総所得はどのみち支出されるという事実を無視している。当人が使わなくても、銀行に預けられたそのお金はほかの誰かが使うのだ。消費を減らせる唯一の方法は、生産への貢献を減らすこと。とはいえ、年に一度の無収入デーというのは、どうも同じ響きがしない。"(pp.203-4)

 預金の信用創造機能を無視している(x=S(1-r)/r x:信用創造額 S:預金額 r:預金準備率)。さらに、預金すれば信用乗数の分、通貨供給量が加増する。
 無論、この現象は技術開発への投資に対する期待が内在している。
 実際、同書では貯蓄しないことを非難している。

"・「充実した今を送る」。素晴らしいことに聞こえるが、それがどう役に立つ? 充実した今を送る人は、本当には必要でないものを衝動買いしそうではないか? 充実した今を送ることとは、何も蓄えないことではないのか?"(pp.268-9)

 そもそも、消費問題について三面等価の原則で判断しても、数学でいうジェネラル・ナンセンスにしかならない。
 三面等価の原則は統計の方法に関するもので、内容は関係ない。複式簿記では借方と貸方は等しいが、だからいくら借入れても経営状況は変わらないといえば、バカだろう。

 さらに、GDPは便宜的な指標にすぎない。経済の外部性は表わさない。
 GDPの上では、ハイブリッドカーを1台買う代わりに、中古のガソリン車を3台買っても変わらない。
 これに関する不分明な理解のため、右の過誤が生じている。

"2.しかし倫理的消費は、どんな主要な社会・環境問題に対しても本当の解決にはならない。第10章で論じているとおり、理想の世界では倫理的消費など必要ない。ハイブリッド車を買うことが「倫理的」とか「利他的」であるのは、ガソリンの価格が低すぎる(すなわち、支払われる価格は、大気汚染の社会的費用のすべてを反映してはいない)ことを示しているにすぎない。もし車を運転する人がその消費の費用を全額払わねばならないとしたら、自己の利益だけでも、ハイブリッド車を買うための充分な動機になるだろう(あるいは、五一〇ページで述べているように、電気料金がそれなりに高ければ、自己の利益だけでも節電する充分な動機になるだろう)。倫理的消費の問題はその任意性にある。左派の誰も、個人の慈善的寄付だけで国の福祉事業の代わりになると唱えたりはしないだろう。だとしたら、個人の利他的な環境運動が、国や市場による外部性の規制の代わりになると考える人などいるだろうか。"(pp.542-3)

 倫理的消費は経済の外部性に対し、影響がある。それを否定するため、"本当"の解決にはならないという、本書が厳しく批判する、カウンターカルチャーの"全体主義的思考"を犯している。
 倫理的消費が法制化と相補的でこそあれ、排他的ということはありえない。
 また、任意性が介在するにせよ、確率論で数理化できる。


 ショア著『浪費するアメリカ人』に対するツッコミは、本書のギャグでも卓出したところだ。ただし、ギャグの多くがそうであるように暴論だ。
 "「有機(オーガニック)食品を買う」"への反駁の余地のないツッコミのあとは、暴論が続く。

"・「地元で物々交換経済を始めるための本『ザ・タイム・ダラー』を持ち歩く」。地元の物々交換経済が国家金融経済より「消費主義」ではないとの考えは、奇妙でしかたがない。すべての財はほかの財と交換されるのだ。物々交換経済の唯一の利点は節税を促すことだが、それは左派の支持すべきことではない。
・「スポーツジムの会員をやめて、夕方パートナーと散歩をする」。これがMECやREIといったレジャー用品販売店で、安くて、さほどごつくはないジム用シューズより、三〇〇ドルもするハイテク・ハイキングブーツがたくさん売れている理由だ。ジムの会員は運動器具を共同で使うことに同意する、協力的取り決めを結ぶようになる。アウトドア好きはつくづく個人主義者なので、おのずと自分用の器具を買う。これが、アウトドアのレジャー用品の市場のほうがはるかに豊かな理由だ。「立派な」活動に従事することは、消費者が自らに浪費の許可を与えるために用いる主な心理学的手段である。
・「充実した今を送る」。素晴らしいことに聞こえるが、それがどう役に立つ? 充実した今を送る人は、本当には必要でないものを衝動買いしそうではないか? 充実した今を送ることとは、何も蓄えないことではないのか?
・「買うよりも修繕する」(金づちを手に持って)。すごい。消費者が自分でやるとなると、工具が必要になる。修繕のしかたを解説しているハウツー本が必要になる。修繕法を学ぶセミナーに出席しなければならない。これこそホーム・デポのビジネスモデルそのものだ。"(pp.268-9)

 貯蓄率に関する主張の一貫性のなさは、前述のとおりだ。だが、ここでは同じページで不一貫性を呈している。また、クレジットカード会社と銀行のレントシーキングも無視している。
 散歩をするならレジャー用品に支出するとはいえない。
 買替えと比較しなければ、修繕が非効率とはいえない。

 とはいえ、こうした暴論はギャグのためで、本書は『働きすぎのアメリカ人』をフランク著『ラグジュアリー・フィーバー』とともに推奨している(p.549)。


" にもかかわらず、市場は少数者を締め出すことでこの傾向を悪化させていると主張する向きもあった。例として、経済学者ティボール・シトフスキーは次のようにこの議論を述べている。
「規模の経済は大規模生産を安くするのみならず、賃金を挙げることで小規模生産のコストを増大させて収益性を減じてもいる。これが次には、利益を生むのに必要な最低生産量を上昇させ、そうして提供される商品の種類がますます狭まり、生産販売される商品の性質やデザインにおける少数者のニーズや嗜好がいよいよ無視されることにつながる。少数の選好が無視されるのがよくないのは、それがリベラルでなく、同調性を助長し、市場経済の主要な長所をある程度まで損なうからだ。すなわち、異なる人々の異なるニーズや嗜好にそれぞれに応えることができなくなるからだ。」
 とはいえ、これではいささか論を急ぎすぎだ。まずは、商品が、個別の顧客ごとに注文生産する小規模供給者に特注されると仮定しよう。そこへ、たとえば三種類だけだが同様の商品をつくる大規模生産者が出現する。この生産者は種類を限定することで、かなり低い費用で製造販売をすることができる。シトフスキーはこの大規模生産者が小規模生産者を廃業に追いやると推論している。
 しかし必ずしもそうではない。小規模生産者がつくる商品の多様さを考えると、三種の量産品では少なくとも一部の消費者の好みには必ずしも合わない。つまり、その消費者は量産品にくら替えするとすれば、厚生の損失をこうむることになる。だから替えるとすれば、あまり好みに合わない商品を買う不都合より節約できるお金のほうを優先してのことだ。少数の好みを持つ人たちに、多数の好みの商品より高額の商品を買う用意があるならば、小規模生産者がつぶれることはない。画一化が生じるのは、低コストで好みの商品に充分近い代替品が手に入るのに、自らの選好を満たすことに伴う総費用を支払う、それをする気になれない場合だけだ。これには何ら強制的なことも、リベラルでないところもない。"(pp.391-2)

 厚生の損失は生じる。
 ここでは供給が連続的だと仮定しているが、現実の財の供給は集合論的、つまり離散的だ(Q[n]∈{Q[1],Q[2]...} maxΣQ[x]^P[x]≦M)。
 よって、ニッチが消失すれば、その分、総余剰が減少する。
 予算が2万ドルで、2万ドルのエコカーが生産終了すれば、1万5000ドルの同型は代わりにならない。

 そもそも、アロー−ドブリューの完全競争市場は複数の条件をおく。1. 外部性がないこと。2. 不完全競争がないこと。3. 財の異質性がないこと。また、資源制約が単純なこと。4. 集合が凸性であること。
 これらの条件を満たさなければ、均衡価格は存在せず、パレート効率性も達成されない。
 初歩的な一般均衡理論の知識で、より専門化、高度化した理論を否定しているさまは悲惨だ。
 上掲でヒースは財の均質性と分割可能性を前提にしているが、そのような状況は、学部生の初級者のための設例にしか存在しない。

 シトフスキーの理論は、主流派経済学の常識的なものだ。
 論証に失敗しているのは、画一化の擁護という結論先取のためだ。
 実際、論証の失敗に対し、本書は道徳論で論点のすり替えを行っている。

"……リベラルでないところもない。
 もちろん、好みがメジャーでない人たちは不公平に扱われていると訴えるかもしれない。たまたま好みが変わっているというだけで、どうして高い金を払わなきゃいけないんだ? しかしながら、この疑問に対しては決定的な答えがある。量産品が注文品より安いのは、生産に要する時間、エネルギー、労働力が少ないからだ。あなたが床屋へ行って散髪する場合に、かかる時間は一五分だけだ。普通の散髪に飽き足らず、ユニークな髪型で個性を表現したければ美容院へ行けばいい。そこではヘアカットに一時間かかる。だから料金も四倍になる。それはもっともなことだ。美容院へ行けば、他者の時間をより長く使うから、余分にお金がかかるのは当然(、、)なのである。"(p.392)

 無論、シトフスキーの理論は、小規模生産者、この例における美容院がなくなることについてのため、これは論点のすり替えだ。
 正当にも、他では本書は道徳論は不要と主張している(p.511)。そのため、この誤謬はひときわ無様だ。

 なお、ノーベル経済学賞を受賞したバナジー、デュフロは、こうした専門知識にも実務経験にもよらず、ただ需給曲線を敷衍したような意見を「紙ナプキンの経済学」と皮肉っている(『絶望を希望に変える経済学』p.26)。

 『資本主義が嫌いな人のための経済学』で、ヒースはGDPへの誤解をくり返す(pp.18-9)。誤謬を強弁するため、さらに誤謬を重ねる。

" この等価の原則はけっこう油断ならない。例えば、人は税金について語るとき、遺産は別として、自分の全収入を支出することを忘れがちである。「消費税」は貯蓄を控除した所得税にほかならない。この控除でさえ、実は控除ではなく猶予でしかない。なぜなら、またもや遺産を除けば、人はいずれ貯金を使うのだから。なのに、カナダの保守党政府が最近GST(カナダ版「付加価値」消費税)を引き下げたところ、かなりの高級紙に寄稿している解説者でさえ、この策は、自動車のような大きな買い物を考えている消費者だけに有効だろう、ほかの消費者にとっては所得税の引き下げのほうがよかった、とコメントした。"(『資本主義が嫌いな人のための経済学』p.19)

 割引率を無視することの誤謬は自明だ。
 『資本主義が嫌いな人のための経済学』で、ヒースは自分は経済学の専門家でなく、同書の内容は"簡単なモデル"に基づく"シンプルな主張"だと述べる(p.21)。

・政治、文化について


" ここではいくつかポイントがある。一つ目として、僕らが消費主義の問題への解決策を提案しないのはきわめて意図的なものだ。二人ともこの問題に単純な解決はないと考えていることの表われである。大衆社会批判の無用な特徴の一つが、多くの人に解決策などというものがあると思い込ませたことだ。本書は、消費社会の根本問題は人生のあらゆる面における競争性の端的な表現だ、と考えていることを表明する。立地のよい不動産が欲しいとか、手つかずの自然のなかをハイキングしたいとか、魅力的なセックスパートナーを求めているとか、クールな仕事を探しているとか、ほかのもっと型どおりの社会的地位の階層に加わるための無数の方法のどれでもだ。この競争性を排すことで消費主義の問題を解決しようとするのは、希少性をなくすことで資本主義の問題を解決しようと(あるいはキリストの再来を祈ることで人間の状態の問題を解決しようと)するようなものである。多くの人がやっているが、助けにはならない。
 だから本書が提示する解決は何であれ、問題の根本に達するものではないという意味で、抜本的にはならない。僕らが望むのはせいぜい、この競争の深刻なまでの過剰さを抑えること、いわば野放図に伸びた競争を刈り込むことだ。"(p.547)

 だが、本書はこう前述している。

"目的は、社会にある種の改善をもたらすことだ。アウトローになることは多くの意味で、組織立った社会の存在に依存している。もしもみんながアウトローになってしまったら? 制度も、ルールも、規制もない社会とはいかなるものなのか?
 カウンターカルチャーの理論家は、この質問に答える段になると、昔からひどく曖昧になったものだ。よくあるごまかしは「自由社会の青写真はない」と言うか、文化から解放されることには、意識の完全な変容が求められるから、未来の社会がどんなふうになるのかは予測できない、と述べることだ。ミシェル・フーコーはそのような言い逃れの達人だった。"(pp.121-2)

 アド・ホックな解決しかないなら、長期的な計画がないことは非難できない。
 ただし、"言い逃れの達人"というのは、言い逃れに成功しているのを認めているということだ。
 とはいえ、社会改革の原則は課税強化だという本書の主張(p.549)は、まったく正当だ。

 本書はしばしばカウンターカルチャーの"全体主義的思考"と接近している。
 根本的には、啓蒙主義だ。大衆社会批判を批判するのは、大衆を教化できると期待しているためだ。だが、啓蒙主義は政府の教育支出の増加によって、長期的にしか達成されない。
 ただし、ヒースは後著の『啓蒙思想2.0』では、この楽観主義を明確に否定している。

 その他は、第1に、倫理的消費について。これは前述の通り。
 第2に、"企業の力"、いわゆるレントシーキングについて(pp.557-60)。とはいえ、レントシーキングが経済学の主なイシューとなったのはリーマンショック以後のため、本書が雑駁としていてもやむを得ない。"消費者運動で企業の不正行為を減らせると思うのは、ファンのボイコットで選手のドーピングを防げると思うのと似ている。"(p.558)など、隔世の感がある。


 本書はカウンターカルチャーについて、カウンターカルチャーの"全体主義的思考"と酷似する。

" カウンターカルチャー運動にきわめて特徴的な自己過激化の傾向がここで機能している。根本的な問題は、美と服装の規範に対する反逆は実のところ破壊活動的ではないことだ。人がピアスやタトゥーを施すかどうか、どんな服装をするか、何の音楽を聴くかは、資本主義システムの視点から見れば、まったくどうでもいい。ことグレーのフラノ地のスーツや革ジャンパーに関しては、企業は基本的に中立の立場をとる。どんなスタイルであろうと、必ずやそれを売る業者が列をなすことだろう。"(p.261)

 価値相対主義に陥っている。
 商品がフラノ地のスーツか革ジャンパーかに、企業が影響されないことはありえない。
 または、そのような概念に企業を抽象化するなら、商品も同様に抽象化しなければならない。
 "ことグレーのフラノ地のスーツや革ジャンパーに関しては、企業は基本的に中立の立場をとる。"という文章は、論理的に誤っている。

 実際、本書は総費用が同じでも、商品によって価格が変わると述べる。

" 当然ながら、ほとんどの財は物的な性質も、局地的な性質も持っている。どんな財でも「競争的プレミアム」がつくと考えられる。あるレストランがとても人気が高いとすると店が混みあって、客はテーブルを確保するのが難しくなるだろう。多すぎる客を減らそうと、経営者は値上げで対応するかもしれない。そのようにして、レストランの料理にはいまや競争的プレミアムがつけられている。勘定の一部は料理に、また別の一部はそこで食事をしたいほかの人たちを締め出すために使われる。都市はあなたが向かうところどこでも、この種の競争的プレミアムは存在する――スポーツジムにも、映画館にも、美容院にも。多くの意味で、都市は一つの巨大な競争なのである。"(pp.215-6)

 つまり、自家撞着を犯している。
 これは価値の概念について、価値、あえていえば消費者の効用と、価格で単位化した等価性という、2つの審級が混在しているからだ。
 無論、後者が不要だ。単位は相関関係を表すもので、それ自体は機能をもたない。上掲のナンセンスはこのためだ。
 カウンターカルチャーが反抗そのものを自己目的化したのと同じく、ここで本書は量化そのものをそうし、ともに目的と手段が転倒している。

 この混乱は、本書がバルト著『モードの体系』を意図的に回避したためだろう。『モードの体系』を回避して、『消費社会の神話と構造』を論じることは難しい。

 価値の概念についてもっとも明晰に分析しているのが、発売当時ベストセラーになったという、フーコー著『言葉と物』だ。その要約ともいえる『ニーチェ・フロイト・マルクス』もいい。
 経済学と文化、2つの知恵をうまく使いたいものだ。

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