ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポーター著『反逆の神話』は、いわゆる文化左翼の欺瞞を剔抉した、古典的名著だ。
だが、論旨を明確にするためだろう、明らかな詭弁と過誤も見られる。
本書をより精読するため、以下、指摘したい。
・経済学について
預金の信用創造機能を無視している(x=S(1-r)/r x:信用創造額 S:預金額 r:預金準備率)。さらに、預金すれば信用乗数の分、通貨供給量が加増する。
無論、この現象は技術開発への投資に対する期待が内在している。
実際、同書では貯蓄しないことを非難している。
そもそも、消費問題について三面等価の原則で判断しても、数学でいうジェネラル・ナンセンスにしかならない。
三面等価の原則は統計の方法に関するもので、内容は関係ない。複式簿記では借方と貸方は等しいが、だからいくら借入れても経営状況は変わらないといえば、バカだろう。
さらに、GDPは便宜的な指標にすぎない。経済の外部性は表わさない。
GDPの上では、ハイブリッドカーを1台買う代わりに、中古のガソリン車を3台買っても変わらない。
これに関する不分明な理解のため、右の過誤が生じている。
倫理的消費は経済の外部性に対し、影響がある。それを否定するため、"本当"の解決にはならないという、本書が厳しく批判する、カウンターカルチャーの"全体主義的思考"を犯している。
倫理的消費が法制化と相補的でこそあれ、排他的ということはありえない。
また、任意性が介在するにせよ、確率論で数理化できる。
・
ショア著『浪費するアメリカ人』に対するツッコミは、本書のギャグでも卓出したところだ。ただし、ギャグの多くがそうであるように暴論だ。
"「有機(オーガニック)食品を買う」"への反駁の余地のないツッコミのあとは、暴論が続く。
貯蓄率に関する主張の一貫性のなさは、前述のとおりだ。だが、ここでは同じページで不一貫性を呈している。また、クレジットカード会社と銀行のレントシーキングも無視している。
散歩をするならレジャー用品に支出するとはいえない。
買替えと比較しなければ、修繕が非効率とはいえない。
とはいえ、こうした暴論はギャグのためで、本書は『働きすぎのアメリカ人』をフランク著『ラグジュアリー・フィーバー』とともに推奨している(p.549)。
厚生の損失は生じる。
ここでは供給が連続的だと仮定しているが、現実の財の供給は集合論的、つまり離散的だ(Q[n]∈{Q[1],Q[2]...} maxΣQ[x]^P[x]≦M)。
よって、ニッチが消失すれば、その分、総余剰が減少する。
予算が2万ドルで、2万ドルのエコカーが生産終了すれば、1万5000ドルの同型は代わりにならない。
そもそも、アロー−ドブリューの完全競争市場は複数の条件をおく。1. 外部性がないこと。2. 不完全競争がないこと。3. 財の異質性がないこと。また、資源制約が単純なこと。4. 集合が凸性であること。
これらの条件を満たさなければ、均衡価格は存在せず、パレート効率性も達成されない。
初歩的な一般均衡理論の知識で、より専門化、高度化した理論を否定しているさまは悲惨だ。
上掲でヒースは財の均質性と分割可能性を前提にしているが、そのような状況は、学部生の初級者のための設例にしか存在しない。
シトフスキーの理論は、主流派経済学の常識的なものだ。
論証に失敗しているのは、画一化の擁護という結論先取のためだ。
実際、論証の失敗に対し、本書は道徳論で論点のすり替えを行っている。
無論、シトフスキーの理論は、小規模生産者、この例における美容院がなくなることについてのため、これは論点のすり替えだ。
正当にも、他では本書は道徳論は不要と主張している(p.511)。そのため、この誤謬はひときわ無様だ。
なお、ノーベル経済学賞を受賞したバナジー、デュフロは、こうした専門知識にも実務経験にもよらず、ただ需給曲線を敷衍したような意見を「紙ナプキンの経済学」と皮肉っている(『絶望を希望に変える経済学』p.26)。
『資本主義が嫌いな人のための経済学』で、ヒースはGDPへの誤解をくり返す(pp.18-9)。誤謬を強弁するため、さらに誤謬を重ねる。
割引率を無視することの誤謬は自明だ。
『資本主義が嫌いな人のための経済学』で、ヒースは自分は経済学の専門家でなく、同書の内容は"簡単なモデル"に基づく"シンプルな主張"だと述べる(p.21)。
・政治、文化について
だが、本書はこう前述している。
アド・ホックな解決しかないなら、長期的な計画がないことは非難できない。
ただし、"言い逃れの達人"というのは、言い逃れに成功しているのを認めているということだ。
とはいえ、社会改革の原則は課税強化だという本書の主張(p.549)は、まったく正当だ。
本書はしばしばカウンターカルチャーの"全体主義的思考"と接近している。
根本的には、啓蒙主義だ。大衆社会批判を批判するのは、大衆を教化できると期待しているためだ。だが、啓蒙主義は政府の教育支出の増加によって、長期的にしか達成されない。
ただし、ヒースは後著の『啓蒙思想2.0』では、この楽観主義を明確に否定している。
その他は、第1に、倫理的消費について。これは前述の通り。
第2に、"企業の力"、いわゆるレントシーキングについて(pp.557-60)。とはいえ、レントシーキングが経済学の主なイシューとなったのはリーマンショック以後のため、本書が雑駁としていてもやむを得ない。"消費者運動で企業の不正行為を減らせると思うのは、ファンのボイコットで選手のドーピングを防げると思うのと似ている。"(p.558)など、隔世の感がある。
・
本書はカウンターカルチャーについて、カウンターカルチャーの"全体主義的思考"と酷似する。
価値相対主義に陥っている。
商品がフラノ地のスーツか革ジャンパーかに、企業が影響されないことはありえない。
または、そのような概念に企業を抽象化するなら、商品も同様に抽象化しなければならない。
"ことグレーのフラノ地のスーツや革ジャンパーに関しては、企業は基本的に中立の立場をとる。"という文章は、論理的に誤っている。
実際、本書は総費用が同じでも、商品によって価格が変わると述べる。
つまり、自家撞着を犯している。
これは価値の概念について、価値、あえていえば消費者の効用と、価格で単位化した等価性という、2つの審級が混在しているからだ。
無論、後者が不要だ。単位は相関関係を表すもので、それ自体は機能をもたない。上掲のナンセンスはこのためだ。
カウンターカルチャーが反抗そのものを自己目的化したのと同じく、ここで本書は量化そのものをそうし、ともに目的と手段が転倒している。
この混乱は、本書がバルト著『モードの体系』を意図的に回避したためだろう。『モードの体系』を回避して、『消費社会の神話と構造』を論じることは難しい。
価値の概念についてもっとも明晰に分析しているのが、発売当時ベストセラーになったという、フーコー著『言葉と物』だ。その要約ともいえる『ニーチェ・フロイト・マルクス』もいい。
経済学と文化、2つの知恵をうまく使いたいものだ。