『霊的ボリシェヴィキ』解説 - 「最恐」のホラー映画 -

 ホラーは怖くありません

 なぜなら、フィクションである以上、私たちはそれが作りものであり、現実ではないと知っているからです。
 さらには、ホラーを渉猟するほど、そのパターンが透けてみえ、ますます心霊現象を嘘くさく思うようになります。
 一方で、嘘を本当らしくする努力を放棄した「本当に怖いは人間」という話も面白くありません。ホラーで「本当に怖いのは人間」という話をするのは、得意顔で「無人島に一つだけ持っていくなら携帯電話」や「人生で一つの料理しか食べられないなら日替わり定食」などと言う、いちばん面白くないひとです。

 平山夢明も実話怪談で、一度、犯罪実録に移行したあと、「心霊現象ともそうでないともどちらとも言えない」という『怪談実話 顳顬草紙』シリーズに行きつきます。
 結局、落としどころとしてはその中間点が妥当になるのでしょう。

 ですが、その妥協点を超克しようという作品が作られました。
 Jホラーきっての知性派、高橋洋の『霊的ボリシェヴィキ』(2018)です。

 そもそも、ホラーのファンというのは逆説的なものです。
 もともと恐怖感に惹かれてホラーを渉猟しはじめたはずが、そうするほど恐怖感は覚えなくなります。
 挙句、どれだけ派手なスプラッタシーンがあるかや、SNSで話題にできるシーンがあるかといった、トリヴィアルで下らないことばかり気にするようになります。
 『霊的ボリシェヴィキ』は、そういうホラーのファンにこそ、恐怖感を覚えさせることを企図したと言ったといいでしょう。

 ですが、率直に言って、終盤の展開はかなり分かりにくいです。おそらく、その高い目標のためでしょう。
 高橋洋自身が「高踏的」なものになりすぎたと言っています(https://cinemore.jp/jp/news-feature/738/)。
 ですので、僭越ながら、私なりに考えた作品の企図を説明したいと思います。

 『霊的ボリシェヴィキ』のあらすじは、5人の男女が順々に実話怪談を語り、最後に大きな事件が起きるというものです。

 第1の語り手が拘置所の刑務官で、「誰もが名前を聞いたことはあるだろう」という、児童営利誘拐殺人犯の死刑囚の話から実話怪談を始めるのが巧みです。
 いかにも実話らしく、訴求力があります。しかも、最終的に、この刑務官がもっとも語りが巧いです。

 この語りのあとに、とっぽい青年の安藤が「それって……結局、いちばん怖いのは人間じゃないかってことですがね」と言って殴られるのがご愛敬です。

 第2の語り手は、むかしは霊感があったというオバさんで、最終的に、もっともありきたりな実話怪談を語ります。
 そして、このあたりから現実にも心霊現象が起きはじめます。

 日をあらためて、第3の語りが行われます。語り手は霊能力者の宮路です。ここまでで、宮路の霊能力が本物らしいことは示唆されています。
 宮路は自分がはじめて心霊現象に遭遇し、霊能力を身につけたときのことを語ります。
 このとき、心霊現象のイメージにもっとも近いものとして、コナン・ドイルが騙されたという有名な合成写真が登場します。
 この合成写真のタネは、雑誌の切抜きを立てかけたものだと説明されます。つまり、二次元と三次元が同じ平面上にある写真が、もっとも心霊現象に近いということなのでしょう。

 そして、ヒロインの由紀子が第4の語りを行います。内容はもっとも怖いものです。
 ここで、本格的に心霊現象が起きます。

 一同は、この百物語のような実験を中止することを考えます。
 ですが、実験を中断することは危険だと言われ、安藤が最後の語りを行います。

 安藤の語りは、殺人の自白で、まさに「本当に怖いのは人間」というものでした。
 そして、これまでの語りを非現実的で空想的だとして、嘲笑します。
 ですが、その安藤が正真正銘の心霊現象に遭遇します。これは、冒頭で伏線が張られています。

 宮路と実験の主催者たちは、安藤こそ実験の被験者に相応しいと言って、物々しい機械で殺害します。
 安藤がまさに「本当に怖いのは人間」という死にかたをするのは、ご愛敬ですね。

 実験の主催者たちは、由紀子に真相を明かします。由紀子は幼いころ、神隠しに遭いました。第4の語りは、それに関するものでした。
 ですが、その話には続きがありました。主催者は、由紀子の母親が受けとったという手紙を渡します。
 手紙には、幼い字で一面にびっしりと「すりかえられた」、そして小さく「おうちにかえりたい」と書かれていました。怖いですね。伊集院光のかなり怖い怪談、「青いクレヨン」と同じオチです。

 宮路は「あの世を呼びだす? あの世なんかあるわけないでしょ! 私たちは化物を呼びだすしかないの!」と言います。

 毛布に包まれた何かが現れます。由紀子は毛布の中身を見て、作中で最大の悲鳴をあげます。そこには、本物の由紀子らしい少女がいました。
 由紀子は自分が偽物だったと分かります。
 自分、あるいは世界そのものの見方が変わる、存在論的ホラーです。いわゆるコズミック・ホラーですね。
 物語としては、ここでオチがついたと思っていいでしょう。

 ですが、他の人々が毛布の中身を見ると、木の枝でした。
 宮路と実験の主催者は、実験は失敗だったと落胆します。
 そして、主催者の助手が、実験の参加者たちを拳銃で皆殺しにします。
 刑務官は抵抗しますが、助手は「この建物は穢れました」と説明します。
 登場人物を皆殺しにしたあと、助手も拳銃自殺します。

 その場に静寂が訪れます。
 ですが、毛布のなかから、本物の由紀子らしい少女が現れます。
 少女が「お母さん」と呟きながら、光に包まれた外に出たところで、映画は終わります。

 あらすじは以上です。
 率直に言って、本物の由紀子らしい少女が木の枝に変わってからは、かなり意味が分かりにくいです。
 なので、予告どおり、私なりの意味の説明をしようと思います。

 物語のつじつまが合わせにくいのは、木の枝、つまり幻覚だったはずの本物の由紀子が、最後に、現実に出現することです。

 これはおそらく、『ローズマリーの赤ちゃん』の結末で、本当に悪魔が出現したり、『キャリー』の結末で、キャリーが蘇ったりという(これは幻覚ですが)、結末におけるジャンルスイッチの話法でしょう。

 つまり、最後に本物の心霊現象が起きたことになります。
 では、わざわざそうした話法を使い、心霊現象の発生にもったいぶった意味はなんでしょう。
 本物の心霊現象が発生したということは、実験は成功したということです。
 本物の由紀子が、宮路の言う「化物」であることは、言うまでもありませんね。
 助手が参加者を皆殺しにするのは「この建物は穢れました」という理由です。つまり、「化物」である本物の由紀子が建物の外に出るのは、封じこめに失敗したということです。

 ここで、中盤における、本物の心霊現象の解説が意味を持ちます。
 本物の心霊現象とは、異なる次元からの接触です。
 これは、作中から鑑賞者である私たちに、メタ的に、次元を超えて接触してきたと考えていいでしょう。高橋洋の前作『旧支配者のキャロル』と同じ、メタオチですね。
 つまり、この作品は自己責任系なのです。

 ボリシェヴィキ、つまり、唯物主義者は、もっとも明確に心霊現象を否定した人々です。少なくとも、歴史上、もっとも明確に宗教を否定した人々です。
 実際、霊能力者の宮路でさえ「あの世なんかあるわけない」と明確に断言します。
 つまり、「霊的ボリシェヴィキ」という言葉は、それだけ逆説的です。
 そして、ホラーのファンほど、よりシニカルに、「心霊現象は絶対に現実には存在しない」という唯物主義者になります。
 超現実、異なる次元からの接触というのは、そうした現実主義者、シニカルな唯物主義者たちを説得するための理論なのです。

 そして、この作品が自己責任系であることは、作品を読解して、そうであると気づかないかぎり、分かりません。ですが、一度、気づいてしまえば、もう後戻りはできません。

 自己責任系というか、メタオチでホラーの閉塞感を破ろうというのは、安易に思えるかもしれません。ですが、Jホラーきっての知性派、高橋洋は、現状の妥協点を理論的に超克しようとしたのでしょう。

 個人的には、この作品を読解して、自己責任系であることに気づいたとき、かなりの恐怖感を覚えました。
 少なくとも、心霊現象など現実には存在しないと完全に確信しつつ、「本当に怖いのは人間」は作品として完全な無価値だと考えているひねくれ者で、ありきたりのホラーには飽き飽きしているというひとには、最恐の恐怖体験をもたらす作品だと言っていいでしょう。


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