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11月になりましたね。。
お盆で帰省したあとから、こんなことがあるんだ
という日々でした。

帰省から帰ってきたら、親友の急逝の知らせが。
前日には仲間のグループLINEで「またね」って
夜にやりとりしたのに、、そのまま翌日起きずに
帰らぬ人に。。
約50年、ずっと友達でいてくれてありがとう!
あまりに突然すぎて、まだ信じられない。

そんなことが癒される間もなく、9月に母が緊急入院で
リハビリするまでに回復をしていたのですが
10月2日に急変。危篤の知らせが姉から入りました。


実家前の川

実家は長崎。危篤の知らせからでは飛行機が間に合わず
福岡の従兄にかけつけてもらいました。
主治医の先生は、「娘さんたちが来るまで頑張らんば!」と言って
励ましてくれたそうです。
心肺停止から心臓マッサージ、電気ショックで、なんとか
持ち直して人工呼吸器をつけていました。
3日に病院に到着。私は、5日のゆるキャラ大集合イベントを
控えていたので、覚悟をして「産んでくれてありがとう」と伝えて
日帰りで東京に。
4日の前日搬入準備がすべて整い会場に入った時、
血圧が下がり、もう数時間との知らせで、ビデオ通話で
声かけ、奇跡的に復活。
5日は、無情にも雨でしたので、イベントは残念ながら中止。
夜に、また長崎に。
今日明日でもおかしくない。一週間は持たないと言われ
それから、姉と病院に泊まり込みで交代で見守りと声かけ。
2日の危篤から一週間が過ぎ、母は、少しずつ自分で
呼吸ができるようになり、人工呼吸器はタイミングが合わないと
とっても苦しそうで、苦しむ姿を見ていられなかった。
そして話ができないので、もどかしそうでした。
外したいという意思を見せるようになり、先生と相談した結果、
マスクに変更することに。もちろんリスクもあるということを同意して。

マスクに変更してからは、徐々に話せるようになり
母の声を聴くことができるように。
母は、話す話す。面白語録の連続でした。
病室で大笑い。
ずっと病室に寝泊まりしていたので、私も疲れがでてきて
一週間後に実家に夜は泊り、そして、次の日は
母も安定していたので、姉と二人で実家に泊まり
長丁場を覚悟し、回復の見込みはないと言われていたので
守るしかない日々がなんとも切なく。。
その次の日。病院からの知らせで脈がとりずらくなってきたと
知らせがあり、病室にかけつけ。
声かけをしましたが、、ものの10分ほどで、、。
あっという間でした。。

マスクに変更して4日後。
危篤から12日後の、10月14日の午後に永眠しました。

母は、生田流のお琴では、大師範まで上り詰めた人。
私と姉で、お琴を弾いてからお坊さんのお経が始まる式に
しました。

母の葬儀というより、お琴の師匠の葬儀という感じでした。
ちょっぴり寂しい気もしましたが、母は、この長崎の地で
お琴を頑張っていたんだなあと感慨深かった。

長崎川棚医療センターの皆様には、本当に手厚い医療を
していただきました。看護師さんたちも、とても優しく
心から感謝しています。
ありがとうございました。

激動の一か月でした。。
実家は、借家なので、整理して撤去しなければならず
使えるものも処分する虚しさ。
仕方がないですね。

25日に東京に戻りましたが、浦島太郎状態で
ぽーっとして、引き取りの荷物が届いて
向き合いながらも、なかなか片づけられず。

母が最期に病院から見た景色

病院からの景色

本当に綺麗な緑と青空。
綺麗だねと言ったら、うなづいてました。

人工呼吸器で話しができないときに、まさかマスクに
変更ができて話せるようになるとは思ってもいなかったので
私は、、一番、ずっと聞きたかったことを聴いてみた。
「お母さん、私のこと愛してた?」と、、母は
驚いた顔をして、うなづいてくれた。
これで、十分かな。。

親子としては、本当に色々あったので
少しずつ昇華していますが、こんなに悲しくなるとは
自分でも思ってもいませんでした。

やはり、後悔する家族を作りたくないという
思いが、以前にも増して強く思うようになりました。
これから、何ができるかわかりませんが
少しずつ実現していければと思う今日この頃です。

最後まで読んでいただき、本当に
ありがとうございました。

母へ
「産んでくれて、ありがとう」
合掌

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