生きることの格好悪さと格好良さと(私と音楽#1「椎名林檎」)

※この記事は、椎名林檎の2024年ライブツアー「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」のネタバレを含みますのでご注意ください。


前置き

「あなたの好きなアーティストは?」と聞かれて、私がいつも真っ先に答えるのは椎名林檎さんである。

林檎さんの音楽を好きになったきっかけはと言うと、やはり覚えていない。音楽に限らず、好きなものに関しては全くと言っていいほどきっかけを覚えていないのが、私なのである。高校生のときには確実に好きだった記憶があるので、そうなると林檎さんの音楽はかれこれ8年くらい好きだ。

その一方で、「椎名林檎の音楽が好き」と相手に打ち明けることは、私にとっては少し勇気がいることである。

この記事を読んでいる人の中にも、「椎名林檎が好き」という人に対して、「メンヘラそう」「思想が強そう」「自分に酔ってそう」などといったイメージを抱いてしまう人は、少なからずいるのではないだろうか。ここでは具体的に書かないが、ネットで炎上したことも記憶に新しく、「椎名林檎が好き」という人に対してだけでなく、「椎名林檎」自体に対しても良くないイメージを抱いてしまう人はいるだろう。

それは仕方のないことではあるが、ほんの少しでも誤解を解きつつ、私がなぜ林檎さんの音楽を好きなのかについて語ってみたいと思う。


誤解を解きたい、とは言ったものの、ここで林檎さんの「人間性」がいかに素晴らしいかについて語るつもりはない。もちろん、インタビュー記事を読んだり、テレビ番組でのトークを見たり、ついこの間ライブでお目にかかったりした限りでは、本当に素敵な方だなと思っている。しかし、直接お話したこともなければそもそも何の関係もない私が、林檎さんの「人間性」について語ったところで、ぶっちゃけ説得力はない。

という訳で、私が林檎さんの「音楽」に触れて感じたことを中心に語りたいと思う。林檎さんからすれば不正解であることも大いに含み、不快に感じる方もいらっしゃるだろうが、あくまでも私が感じたことを素直に書いてみたい。


変わらないこと

貪、瞋、痴というものがある。仏教において最も人の心を毒するとされている、根源的な煩悩である。貪とは際限なく欲すること、瞋とは怒り憎むこと、痴とは無知で愚かなこと、だそうだ。私も林檎さんの『鶏と蛇と豚』という曲を通して、初めて知った。

だいぶ前から"三毒"をテーマにしたアルバムを作りたいと思っていましたから。ただ、流行作家と言いますか、時代に置いていくものを作るには、その3つを踏まえたものじゃないと風化すると思います。大前提として我々はそれらを持っていて、持て余したり振り翳したりしながら日々暮らしている。この3つは肯定も否定もしようがない、身体、命自体に自動的に付いてくるものだから、それらをどう取り扱うかが、すなわち人の生き方ですよね。一度は辛辣なくらい写実的に書きたいと思っていました。

椎名林檎「三毒史」インタビュー|デビューから20年経て向き合った、人類共通の“三毒” (3/3) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

林檎さんは、2019年にリリースしたアルバム『三毒史』で特にこの「三毒」を描くつもりだったのだと思うが、私には以前からその姿勢は変わっていないように思える。「もっと中迄入って あたしの衝動を 突き動かしてよ」という欲望、「いま赤く染めた お前が僕よりイッちゃっているのだ 狂っているーそうだろう?」という憎しみ、「ドライバー失格。運転出来ていないもん。要は自分さえも。」という愚かさ。貪、瞋、痴とはまた少しニュアンスが違う部分もあるかもしれないが、このように林檎さんは、人間が奥底に仕舞い込もうとする感情を回避せず、宗教や古文など教養的な部分を交えて表現していく。「椎名林檎が好き」という人に対して抱く、「メンヘラそう」「思想が強そう」といったイメージは、そこから来ているのではないかと感じる。

もちろん私は、「人生は素晴らしい」とか「あなたを愛している」とか、ポジティブな感情を高らかに歌い上げ、ストレートに背中を押してくれる曲も好きである。しかし、人間には生きていれば、「さう絶え間ない流れに ただ右往左往してゐる」とか「きゅうにいなくならないで。まっておいて行かないで。」とか、情けない姿を見せてしまう場面が訪れる。むしろ、そのような場面の方が多いのではないだろうか。「三毒」に苛まれたり情けない姿を晒したり、生きることは格好悪いのが常であるが、それは決して隠すべきものではない。そう教えてくれるから、私は林檎さんの音楽が好きなのである。

これが、林檎さんの昔も今も変わらないところであると思う。その一方で、林檎さんは変わることの楽しさもまた教えてくれる。


変わること

私はつい先日、林檎さんの2024年ライブツアー「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」さいたまスーパーアリーナ公演の、1日目と2日目に行ってきた。林檎さんを生で見るのは、これが初めてだった。

林檎さんの音楽は、色々な世界に連れて行ってくれる。時には歌舞伎町に、時には丸の内に、時には江戸時代に、時には2045年に、時には恋する女子高生に、時には娘を持った母に。そして、林檎さん自身も色々な姿を見せてくれる。短髪になったかと思えば長髪になったり、人魚になったかと思えば野球選手になったり、可愛い声になったかと思えば渋い声になったり。

私自身の変化としても、最初は意味の分からなかった林檎さんの歌詞が、年齢を重ねてある日突然意味が分かるということが多くなり、楽しさを感じている。それは林檎さんも、年齢を重ねるという変化を恐れず、そのときだからこそできる表現を楽しんできたからだと思う。林檎さんにとっては23歳の私はまだまだ子どもだと思うが。

林檎さんが変化を積極的に表現し、それを楽しむ姿にファンも誇りを持っているから、「椎名林檎が好き」という人に対して「自分に酔ってそう」といったイメージを抱く人が多いのではないかと思う。自分に誇りを持たせてくれる存在なんて最高じゃないかと私は思うので、そもそも「自分に酔ってそう」といったイメージは解くべき誤解なのだろうか……?(笑)

美しさと正しさが等しくあると
疑わないで居られるのは若さ故なんだ

椎名林檎『青春の瞬き』

先ほど「私自身の変化」という話をしたが、それを感じた例を挙げてみる。この『青春の瞬き』は、恐らく私が林檎さんを好きになったばかりの頃、高校時代によく聴いていて、当時は歌詞は聴き流して深く考えずにただただ良い曲だなと思っていた。しかし、今回の「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」で久しぶりに聴いて、そして初めて生で聴いて、この歌詞が急に心に響いた。

私は昔から、全てを正面から捉えてしまうというか、少しでも曲がったことが許せないというか、とにかく真っ直ぐすぎる性格だった。美しいことが正しいのだ、正しいことが美しいのだと、そう信じて疑わなかった。しかし、大学生になると、色々な人との交流を通じて自分の性格に非常に悩み、考える中で物の見方が変わっていった。文字通り、美しいことが正しいとは限らないし、正しいことが美しいとは限らないということを知った。

大学時代を経てこの歌詞が心に響くようになったということは、私は「若さ」というものを少しずつ失いつつあるということだと思う。しかし同時に、私の真っ直ぐすぎる性格は「若さ故」だったのであって、恥じたり悔やんだりするべきことではないと、背中を押されたような気持ちになった。

人間は生きていく中で、場所や時間、見た目や声、そして物の見方など、様々な変化を経験する。あまり前向きにはなれない変化も多々ある中、林檎さんの表現を通じて変化を経験すると、変化はこんなにも心惹かれるものだったんだと感じることができる。先ほど、林檎さんは生きることの格好悪さを表現してくれるという話をしたが、こうして生きることの格好良さも表現してくれるのである。


後書き

最後に、私が林檎さんの音楽の中で一番好きな曲について語ろうと思う。

その曲というのは、『正しい街』である。1999年にリリースしたアルバム『無罪モラトリアム』に収録されている。なぜこの曲が一番好きなのかと言うと、記念すべき1枚目のアルバムの1曲目にも関わらず、林檎さんの故郷と元恋人への未練を描いた曲だからである。

記念すべき1枚目のアルバムの1曲目なら普通は、聴いた人に今後の活躍を期待させるような、格好良い曲にするのではないだろうか。しかし、この曲で歌われているのは、「あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね」とか「何て大それたことを夢見てしまったんだろう あんな傲慢な類の愛を押し付けたり」とか、言ってしまえば格好悪い、過去の後悔である。

しかし、記念すべき1枚目のアルバムの1曲目で過去の自分の格好悪さを晒すところに、デビュー前の人生とは決別するという当時の林檎さんの意志を感じて、私は格好良いと思った。これまで語ってきた、生きることの格好悪さと格好良さが、林檎さんらしく特に表現されている曲だと感じるから、私はこの曲がこれまでもこれからもきっと一番好きである。


おまけ(ライブで一番印象に残ったこと)

「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」で一番印象に残ったのは、今回ピアノとしてツアーに参加していた伊澤一葉さんの所属するバンドである、「あっぱ」の『ジプシー』のカバーである。

東京事変が世界一好きなバンドだと胸を張って言えるくらい、事変が大好きだった高校生の私は、各メンバーが事変以外の活動で作った曲も聴き漁っていた。その中の1つが、あっぱの『ジプシー』だった。まるでミュージカルのような曲の構成に、聴く度ワクワクしていたことを覚えている。

月日は流れ、私はそのことを忘れかけていた。だから、「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」で林檎さんがこの曲のカバーを始めたとき、歌詞が変更されていたのもあってすぐには分からなかった。どこかで聴いたことがあるが林檎さんの曲ではない、としばらく考えて、あっぱの『ジプシー』に辿り着いたときは、これ以上ないほどの感動だった。よく分からないけれど、周囲と音楽の好みが違って少し寂しかったあの頃の自分が、なんだか報われた気がした。

林檎さんについて語るのに、林檎さんが本家本元ではない曲から引用するのはおかしいかもしれないし、先ほど述べたように「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」では歌詞が変更されていたのだが、初めて林檎さんに生で会った感想は、『ジプシー』のラストのこの歌詞のようだった。林檎さんはいつだって、生きることの格好悪さと格好良さ、そしてその喜びを教えてくれる。

遠くまで来た 君にも会えた
息をいっぱい吸って生きよう!

あっぱ『ジプシー』