孤独は自由だけど、きっと寂しいことじゃない。『下妻物語』(私と映画#3)
※この記事は、映画『下妻物語』のネタバレを含みますのでご注意ください。また、自分語りを含むシリーズですので苦手な方は閲覧をお控えください。
いつものことだが、この映画を知ったきっかけは、はっきりとは覚えていない。この映画は2004年公開で、確か近年再びSNSで話題になったことがあって、そこで興味を持ちいつか見てみたいとずっと思っていた、ということだったと思う。今回、渋谷PARCOのWHITE CINE QUINTOにてリバイバル上映されるということで、見に行った次第である。
興味のある方はリバイバル上映を見に行っていただくことにして、詳しいあらすじは省く。簡単に説明すると、茨城県の下妻市に住む、「ロココ」の精神に従って生き、ロリータファッションをこよなく愛する竜ヶ崎桃子と、レディース「舗爾威帝劉(ポニーテール)」に所属し、バイクをこよなく愛する白百合イチゴ、正反対とも言える2人の女子高校生の友情物語である。
※1回見ただけじゃ内容がうろ覚えな部分があって、その状態で感想を書くのはもったいないと思ったので、YouTubeでレンタルしてもう一度見ました。だからセリフの引用の部分は正確なのです。
桃子はイチゴと出会うまで、どんなに非常識な生き方でも幸せならそれでいいという「ロココ」の精神に従って、田園風景にはちょっと似合わないロリータを身にまとい下妻を闊歩し、自分の気の赴くまま、自由気ままに生きることを選んできた。それも、桃子が1人で、孤独でいることを選んでいたからできたことだと思う。
どんなに非常識な生き方でも幸せならそれでいい、という考え方で生きていたら、間違いなく人に迷惑を掛ける。多くの人は、人に迷惑を掛けるなと厳しく教えられて育つので、それは何としてでも避けようとする。人と関わるような生き方を選んでいれば。
しかし、桃子は代官山に行くにも1人だし、高校でお弁当を食べるにも1人だし、1人で生きることを選んでいる。父や祖母といった家族はいるが、それも桃子にとっては肩書きに過ぎず、あくまでも他人である。1人でいれば、迷惑を掛ける相手もいない。桃子は、孤独であるがゆえに自由だった。
そんな桃子はひょんなことからイチゴと出会い、イチゴに何かと付き纏われるようになる。勝手に家に来て勝手に話して帰られたり、喫茶店でのティータイムにちょっかい出されたり……。桃子はイチゴに自由を邪魔されて鬱陶しく思っていたが、イチゴの面倒事に巻き込まれているうちに、いつしかイチゴを友達だと認識するようになっていく。
イチゴという大事な友達ができたことで、桃子は少なからず自由を失ったようにも思える。しかし、イチゴにとっては桃子は相変わらず、自分で決めたルールだけを信じて1人で自由に生きている人間であるし、イチゴもそんな桃子に憧れ、自分の信念を貫いてレディースを抜け1人で自由に走ることを決めた。2人とも、お互いを大事に思っているけど、お互いの孤独と自由を尊重しているように私は感じた。
このように、桃子とイチゴは当たり前に、他人の軸ではなく自分の軸で生きている。大事な友達ができたからと言って、それがブレることはなかった。桃子がロリータを着続けるのも、イチゴがバイクにこだわり続けるのも、他人から見てそれがかわいいから、かっこいいからではない。自分がかわいいと思うから、かっこいいと思うからその道を選んでいるのである。
今の時代、自分がかわいいと思うから、かっこいいと思うからと選んだ道でも、周囲からの目線を気にしてしまう人は多いのではないだろうか。自分が好きで選んだ道なのに、どこか後ろ指を指されているような感じがして、自分で何かと理由を付けてこれで良いんだと正当化しているうちに、逆に苦しくなっていく。
私もそうだと思う。今まで自分を取り繕わないようにしてきて、面白いと言ってくれる人はいたが、気付けばそれが重荷になっていった。自分はそれで幸せなんだって、自分の感性はかっこいいんだって、自分にも周囲にも、言い聞かせているような感覚になっていった。そんな自分が子どもみたいで、苦しくなってしまったのだ。
『下妻物語』を見れば、何かヒントが得られるかもしれないと考えていたが、私は桃子とイチゴの生き方をすごいと思うばかりだった。その一方で、桃子の祖母のセリフがとても印象に残っている。
私は自分の持っている器の大きさも色もまだ知らないし、自分じゃなきゃダメだっていう場所も見つけられていない。でも、きっといつか分かる日が来るって、何の根拠もないけどそう思えた。