私と映画#1『おんなのこきらい』
※この記事は、映画『おんなのこきらい』のネタバレを含みますのでご注意ください。また、この記事は、2022年9月21日に公開し、その後非公開にしていたものです。今読み返すと非常に恥ずかしい部分があり、また自分を卑下することはなくなりましたが、当時の自分の気持ちをなかったことにはしたくないので、なるべく修正せずに再公開します。
以上に引用したセリフは、映画『おんなのこきらい』の冒頭で登場するものである。私はこのセリフがすごく好きだ。いくらかわいいものを食べたって、私自身はかわいくなれないことを、分かっていながら。
私がこの映画を知ったきっかけはよく覚えていない。確かYouTubeで予告編を見て面白そうだなと思ったのだが、ではなぜその動画に辿り着いたのかは分からない。1回目は体調があまりよろしくない中家で動画配信サービスを通じて見たのもあり、2回目を見たいと何回も思いながら最近ようやく見ることができた。
以下は、私があらすじを簡単にまとめたものである。まとめきれなかったこと、言葉では伝えきれないこともあり、またそもそも私の文章が拙いので、ぜひ自分の目で映画を見てほしい。視覚で直接的に分かるシーンはないが、下品な表現が苦手な人は少し注意した方が良いかもしれない。2回目を見るまでは全然気付かなかったが、和泉キリコという主人公の名前、明らかに泉ピン子を意識しているな……。
私は個人的に、キリコと高山は似た者同士だと感じた。キリコは、男にちやほやされている自分が好きだった。高山は、かわいい子に懐かれている自分が好きだった。お互い真の意味で、自分自身や相手のことが好きだったのではなく。
まずは、キリコという人物について語りたい。私は1回目にこの映画を見たとき、さやかがキリコに対して発する「……おばけみたい」というセリフがずっと引っ掛かっていた。なぜここで「おばけ」という言葉が出て来るのだろうか。2回目を見てみて、やっとその意味が分かったような気がする。もちろん、ふぇのたすによる挿入歌『おばけになっても』の歌詞に、
とあるように、単純に考えて「恋愛おばけ」、つまり我を忘れて恋愛にのめり込んでいる状態、という意味もその1つだ。しかし、もう一歩踏み込んで考えてみると、キリコは「かわいい」に取り憑かれており、確固たる「自分」という実体がない。つまり、周囲からはその「かわいい」を求められ、「かわいい」という実体のないものが「自分」そのものになっているように見える。それが「おばけ」の正体なのではないか、と私は思った。さやかに「……おばけみたい」と言われてしまう直前に、ユウトに「結局お前は自分のことしか見えてない」と言われてしまうのも、「自分」=「かわいい」となっていて、「かわいい」に固執するキリコを表現しているのではないかと感じた。
しかし、予告編でもキリコの性格は最悪だと表現されていたが、私はキリコのことを嫌いにはなれなかった。キリコと高山がまだ出会ったばかりの頃に、キリコは高山に「かわいいとかじゃなくて……なんか……かわいそうじゃないですか?」と言われるが、まさにそうだと思う。キリコもある意味「かわいい」の被害者で、「かわいい」に良くも悪くもすぐに食らいつき、キリコにその生き方こそ正義だと思わせてしまった、周囲が最悪なのではないか。実際、個人的に登場人物はほとんどクズだと思う。そのような環境で「かわいい」に取り憑かれつつも、キリコのユウトや高山への思い自体はとてもピュアなものだと感じた。
次に、高山という人物について語りたい。キリコが「なんで私の本性知ってて優しくしてくれるの?」と聞くと、高山が「……分かんない」と答えるシーンがある。私は、単純にキリコがかわいいからでしょ、と思ってしまった。相手がキリコみたいにかわいい子でなかったら、果たして高山はここまでしていたのだろうか。実際、キリコが自分の家で自暴自棄になっていたとき、キリコが「おばけみたいでしょ?私の今の顔」と聞くと、高山が「和泉さんはかわいいよ」と答えている。
高山に彼女がいることを知り、キリコが夜の公園で泣きじゃくるシーンは本当に胸が締め付けられた。私はキリコのようにかわいくないが、私も同じような経験をしたことがあるから余計に辛かった。彼女が家にいるのにキリコがやって来た時点で高山は気まずそうにしていたし、この夜の公園のシーンでは高山は泣いているように見えたし、高山も自分がキリコに対しても彼女に対しても良くない態度を取っていたことは自覚していたはずだ。しかし、この期に及んでも「俺お前のこと好きだよ、でも……」と言えてしまう高山は、どこまでも良い顔したいのだなというか、考えが浅すぎるのだなというか、なんというか……。高山は「ごめんね、俺帰らないと、待ってる人いるから」と言ってキリコのもとを去るが、私はこのセリフを聞いて、高山はまだ「酔っている」なと感じた。
キリコは、最後には「かわいい」だけしかない自分を受け入れて、それを男のためではなく自分のためだけに使うことを覚えたように感じる。その一方で、高山は、最初から最後までかわいい子と彼女の間で板挟みになる自分にどこか酔っていて、似たようなことがあったらまた同じことを繰り返してしまうように思えた。
キリコと高山の話はここまでにしておいて、何と言ってもこの映画はキリコ役の森川葵ちゃんの演技がすごい。特にキッチンで嗚咽するシーン、夜の公園で泣きじゃくるシーンは、見ているこっちまで息が苦しくなった。いわゆる「かわいい」泣き方ではなく、自分の感情を爆発させているような泣き方。素で「かわいい」泣き方をする女の子なんて、ほとんどいないと思う。そういう意味で、とてもリアルだった。
最後に、私は予告編を見ただけでは、「かわいい子も苦労しているんだよ」というありきたりな話かと思っていたが、そうではなかった。映画の本当に終盤に、キリコの「かわいいだけじゃダメみたい」というセリフがあるが、まさにそうだった。かわいい「だけ」じゃダメなのだ。キリコが「かわいい」ということが前提としてあって、初めて成り立つ物語だった。キリコのかわいくないところを知ってもなお親しくしてくれた高山も、結局はキリコがかわいくてそんな女の子から懐かれている自分に酔っていたのだと思うし、ある意味で「女なんてかわいくなきゃ見てもらうことすらできないんだから」というキリコの言葉を痛感させられた。
キリコは散々な目にあってしまったが、それでも私はキリコが少し羨ましい。私自身も、キリコとはまた別の方向で「かわいい」に執着しているという自覚がある。キリコは、外見のかわいさは元々持っていて、それを周囲から求められるがゆえの執着。私は、外見のかわいさは元々持っておらず、それを手に入れられないがゆえの執着。どんなにメイクを頑張っても、どんなに髪をきれいにしても、どんなに写真写りが良くなっても。そして、どんなにかわいいものを食べても。本当にはかわいくなれないことを、私は今までの人生で嫌と言うほど分かってきた。キリコは私とはまた別の方向で「かわいい」に執着しているとは言っても、キリコも、甘いものの過食を繰り返してそれが全部自分になればいいと願っていたのは、いくら外見がかわいくても中身はかわいくなれないことを、心のどこかで分かっていたからではないだろうか。
最初から外見がかわいく生まれてきていたら、もっと楽しい人生だったのかなと、たまに泣いてしまうこともある。外見がかわいい「だけ」じゃダメかもしれないが、その外見がかわいいという前提を手に入れているキリコになってみたいと、私は少し思ってしまうのである。
ちなみに、冒頭で「1回目は体調があまりよろしくない中家で動画配信サービスを通じて見たのもあり、2回目を見たいと何回も思いながら」と述べたが、もう1つ、文中でも触れたように、1回目を見たしばらく後にキリコにとっての高山のような似た経験をしたことも理由としてある。ということで、最後の最後に、どうしても言っておきたいことがある。
高山ァァァァァ!彼女がいるならそういう自覚を持って行動しろォォォォォ!!
高山も、優しさゆえの行動が裏目に出てしまった部分があることは分かる。しかし、優しくすることだけが、優しさなのではない。とは言え、高山には少し手厳しいレビューになってしまったことを、お詫びしたい。